シルエット・オブ・ノブナガ

モノック

第1話 うつけと蝋燭と黒い相棒

 熱気である。

 季節は初夏だというのに、その部屋の温度は灼熱の窯(かま)のごとく煮えたぎっていた。


 尾張国、那古野城の一室。

 真昼間であるにもかかわらず、雨戸は全て釘打ちされ、外光は完全に遮断されている。代わりに室内を埋め尽くしているのは、異常な数の「炎」であった。


 百本、いや、二百本はあるだろうか。

 大小様々な和蝋燭が、畳の上に直置きされた燭台の上で揺らめいている。溶けた蝋の甘ったるい匂いと、酸欠寸前の重苦しい空気が充満する中、一人の若者が床に這いつくばっていた。


 織田三郎信長。世に言う「尾張の大うつけ」である。


 彼は血走った目で一本の蝋燭をつまみ上げると、それをミリ単位でずらした。

「……ここか? いや、もう少し右か」

 信長は汗だくになりながら、自らの足元をねめつける。そこには、揺らめく炎によって投射された、彼自身の「黒い影」が伸びていた。


「見ろ、オレ! この和蝋燭の芯、堺の商人から取り寄せた特注品だぞ。炎の揺らぎが少ないから、お前の輪郭(シルエット)がかつてないほどハンサムに映っておる!」


 信長は、誰もいない床に向かって同意を求めた。

 側から見れば狂人のごとき独り言である。だが、信長の耳には、確かに「声」が返ってきていた。彼の脳内に直接響く、低い男の声が。


『……暑い』

「なんだと?」

『暑いっつってんだよ、この馬鹿大将! 室温何度あると思ってんだ! 酸素濃度も低下してるし、俺の輪郭がハンサムになる前にお前が熱中症で死ぬわ!』


 影――信長が「オレ」と呼ぶその存在は、呆れ果てた口調でそう毒づいた。

 これこそが信長の秘密である。彼は幼少の頃より、自らの影と会話ができた。影は、信長とは異なる人格を持ち、時に未来人めいた奇妙な知識を披露し、時に冷徹な軍略を授ける、唯一無二の相談役であった。


 ただし、この影には致命的な欠点があった。「明確な光源」がないと意識が希薄になり、声が届かなくなるのだ。

 ゆえに信長は、影と密談(軍議)を行うためだけに、莫大な私財を投じて「照明環境」を整える必要があった。


「ええい、黙れ! ワレはお前と昨夜の検地データの精査をしたかったのだ。暗くては資料も読めぬではないか」

『だったら雨戸を開けろよ。太陽光が最強の光源だって、先週も言っただろ』

「馬鹿を言え。直射日光は影が濃くなりすぎる。ワレが求めているのは、この蝋燭が織りなす柔らかく、かつ妖艶な陰影なのだ。わからぬか、この美学が!」

『わかんねーよ。めんどくせぇ照明オタクだな……』


 影は深々と溜息をついた(ように揺らめいた)。


          *


 一方、その部屋の外では、深刻な誤解が進行していた。

 廊下の柱の陰から、一人の老臣が涙ながらにその様子を窺っていたのである。信長の守役、平手政秀だ。


 隙間から漏れ出る、禍々しいほどの赤黒い光。

 中から聞こえてくるのは、殿が何者かと激しく口論する声。だが、部屋には殿以外に誰もいないはずなのだ。


「……あぁ、なんということだ」

 平手は震える手で膝をついた。

「殿は、やはり暗闇の魔物と契約しておられるのだ。あのように大量の火を焚き、昼間から魔界の住人と交信なさるとは……。尾張は、織田家は終わりだ……」


 室内では「熱いから一本消せ」「ならぬ、これがキーライトだ!」という低レベルな喧嘩が繰り広げられているだけなのだが、老臣の目には、それが「魔王降臨の儀式」にしか見えなかった。

 絶望が、平手の心を蝕んでいった。


          *


 数日後。

 もたらされた凶報に、信長は絶句した。


「爺が……腹を切っただと?」


 平手政秀、諫死。

 その報せを受けた信長は、先程まで磨き上げていた南蛮渡来の鏡を取り落とした。

 遺書には、信長の奇行を嘆き、死をもってこれを諌める旨が記されていたという。


 信長はわなわなと震え出し、そしてその場に崩れ落ちた。

「爺……すまぬ、すまぬ……っ!」

 大粒の涙が、畳を濡らす。

「ワレが……ワレが先月、最高級の鯨油(げいゆ)を大量に買い付けたせいで……織田家の財政が破綻すると案じたのか!? そうであろう!? あれは確かに高かったが、炎の輝きが違うのだ! なぜわかってくれなかったのだ爺よぉぉぉ!」


『……違う。絶対違う』


 号泣する信長の足元で、影が冷淡にツッコミを入れた。


『平手殿はな、お前のその「鯨油の輝きがどうこう」みたいな理解不能な奇行に絶望したんだよ。金の問題じゃなくて、頭の問題だ』

「なに……?」

『お前がうつけのままだから、死んで責任を取ったんだ。……いい加減、腹を括れよ大将。このままじゃ、あの爺さんの死に様はただの犬死にだぞ』


 影の言葉は鋭利な刃物のように、信長の胸を刺した。

 信長は涙を拭い、ぎろりと自らの影を睨みつける。

「……オレよ。ならばどうする。ワレはどうすればよい」

『天下を獲れ。それ以外に、あの世の爺さんを納得させる方法はねぇよ』


 その時である。

 廊下を走るけたたましい足音が、静寂を破った。

「申し上げます!!」

 転がり込んできた伝令兵が、蒼白な顔で叫ぶ。


「駿河の今川義元、上洛を開始! その数、二万五千! すでに国境を越え、こ、こちらへ向かっております!」


 二万五千。対する織田の兵力は、かき集めても四千に満たない。

 絶望的な数字である。家臣たちの間に動揺が走り、ある者は逃亡を口にし、ある者は籠城を叫んだ。


 だが、信長だけは違った。

 彼はゆっくりと立ち上がると、不敵な笑みを浮かべたのだ。


「二万五千か」

『……おい、ビビってんのか?』

「ふん。オレよ、想像してみろ。二万五千の兵が野営をする際、どれほどの数の篝火(かがりび)を焚くと思う?」


 影が一瞬、沈黙した。

『……は? まぁ、とんでもない数だろうな。山が燃えてるみたいに見えるはずだ』


「そうであろう! それだけの光源があれば……夜戦であっても、お前の姿は真昼よりも鮮明に映るはずだ!」

『動機が不純すぎるだろ!』


 信長はバッと扇子を開き、高らかに宣言した。

「出陣だ! 今川の本陣には、極上のライティングが待っているぞ! 行くぞオレ、最高のステージだ!」

『……ったく。付き合いきれねぇな』


 呆れながらも、黒い影は主人の足元に濃く、鋭く伸びた。

 遠くで雷鳴が轟く。

 後に伝説となる「桶狭間の戦い」は、一人の照明オタクと、その影法師によって幕を開けようとしていた。

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