第2話

「君」


 背後からかけられたのは、低く、それでいて凛と響く青年の声だった。

 あまりの衝撃に心臓が跳ね上がる。

 聞こえないふりをして立ち去るべきか。

 一瞬の葛藤があったが、抗いようのない威圧感に、私は鉛のように重い足を止めざるを得なかった。

 振り返りたくない。

 何かに追い詰められたような心境のまま、うつむいたままの姿勢で、ゆっくりと踵を返す。

 そして、顔を上げた。


 そこにいたのは、この世の造形美を凝縮したような、類まれなる美貌の青年だった。

 アルフォンス・マクシミリアン・ベルンハルト。

 かつて公爵令嬢であった私にとって、その名を知らぬはずもなかった。いや、この場にいる令嬢たち、ひいては国中の女性の誰しもが、彼の存在を焦がれるような想いで見つめているはずだ。

 戦場での武勲から「若き英雄」として男たちの羨望を一身に集め、その一方で、冷徹なまでに整った美貌が女たちの心を狂わせる。黒曜石を思わせる艶やかな黒髪に、深淵を湛えた深い海のような濃紺の瞳。私より頭一つ分以上も高い長身は、洗練された軍礼装を完璧に着こなしている。過度な装飾を排しながらも、首元のブローチ一つに至るまで卓越したセンスを感じさせた。


 あまりにも完成された、名匠の彫刻のごとき美貌を前にして、私は一瞬、瞬きすることさえ忘れ、彼を凝視してしまった。

 周囲の空気が一変する。会場中の令嬢たちの刺すような視線が、この若き侯爵に集中している。

 その中心に、汚れたメイド服の私がいる。

 これ以上、彼と目を合わせ続けるのは自死に等しい行為に思えてくる。


 私は弾かれたように視線を落とし、深く頭を垂れた。湧き上がる恐怖を抑え込み、機械的に謝罪の言葉を述べようとする。

 だが、唇を割るよりも紙一重の速さで、彼が言葉を発した。


「私と、踊っていただけませんか?」


「……」


 まずは、耳を疑う。

 そうか。極度の疲労のせいで、幻聴でも聞こえたのだろう。

 私は当惑のあまり、消え入りそうな声で聞き返した。


「申し訳ありません……よく聞き取れませんでした。音楽の音にかき消されてしまって……もう一度、おっしゃっていただけますか?」


「違う」

 彼は静かに、だが拒絶できない強さで言った。

「聞こえなかったのは、君が私と目を合わせていないから」


 促されるまま、私は再び視線を上げざるを得なかった。周囲の鋭い嫉妬の視線を意識しながらも、逃げ場を失い、彼の整った顔を直視する。

 深く澄んだ瞳に射すくめられ、刹那の沈黙が流れる。たった一秒の沈黙でさえ、周囲からの敵意が幾何級数的に膨れ上がっていくのを感じ、私は冷や汗を流した。

 何か言わなければ。

 だけど焦る私を制するように、彼が問いかける。


「名前は?」

「エルナ、と申します」

「エルナ。フルネームを聞かせてもらいたい」


 彼は、私について何も知らないのだろうか。

 没落家門の風聞など、この高貴な英雄の耳に届くにはあまりに低俗で些末な話題なのかもしれない。だとしても、なぜメイドの私に名を問うのか。

 脳内を無数の雑念が駆け巡る。

 だが、今の私に偽る術などない。

 私は覚悟を決め、素直に名を口にした。


「エルナ・セレスティア・ルミナス、です」


 私の名を聞いた彼の表情には、一片の揺らぎもなかった。

 ただ静かに、凪いだ深海のような瞳で私を射抜いている。


「エルナ・セレスティア・ルミナス」


 彼は私の名を、まるで古の秘術を紡ぐ呪文のように、一語一語を慈しむようにゆっくりと繰り返した。


「私と、踊っていただけませんか?」


 繰り返されたその言葉に、私はただ、言葉を失って立ち尽くすことしかできなかった。


 今度は彼の言葉通り、逃げることなくその瞳を真っ向から見据えていた。だからこそ、今の言葉が聞き間違いなどではないことを理解してしまう。


 幻聴などではなかった。


 この、当代随一の英雄が、平民に転落した元令嬢の私にダンスを申し込んでいる。


 私は混乱する思考を必死に回す。


 これは現実なのだろうか。


 もしかすると、このお方は私のことを「ルミナス家の令嬢」として知ってはいても、家が没落した事実まではご存じないのではないか。

 いくら地味なメイド服を着ているとはいえ、殿方という生き物は、往々にして女性の装いなどには無頓着なものだ。ましてこれほど多忙を極めるお方なら、目の前の女が着ているのがシルクのドレスか、安物の麻の制服かなどという些細な違いには、関心を払う余地すらないのかもしれない。


 それとも、単なるいたずら?


 膨れ上がる雑念を振り払い、私は一刻も早くこの場から逃れるべく、最大限の礼節をもって言葉を紡いだ。


「誠に恐れ入ります、侯爵閣下。……ご覧の通り、私は一介の下働きにすぎません。今はもう、貴方様のようなお方と踊れるような身分ではないのです」


「わかっている」


 即座に、冷徹なまでの返答が飛んできた。

 聞き間違いを疑う余地など微塵もない。

 私は逃げ場を失い、彼の瞳を見つめたまま立ち尽くす。


「ルミナス家の令嬢……だったね。ああ、失礼。名乗りも上げずにダンスに誘うとは、騎士としての礼を失していた。……すまない。淑女を誘うのは、これが初めてなもので」


 一瞬間、彼の揺るぎない濃紺の瞳に、かすかなさざ波が立ったように見えた。だがそれはすぐに収まり、彼は凛とした声で自己紹介を口にした。


「私はアルフォンス・マクシミリアン・ベルンハルト。ベルンハルト侯爵家当主であり、王立第二騎士団の団長を拝命している。かつてのルミナス家当主、ローランド卿とは、先の西北国境戦において何度も作戦会議を共にした仲だ。君の父上には、多大なる世話になった」


 彼の言葉が重なるにつれ、私は話の内容に集中できなくなっていった。

 無意識に、周囲を怯えたように見回してしまう。


 このベルンハルト侯爵は、社交界で無口な御仁として知られていたはずだ。公の場で誰かと長く言葉を交わすことなど皆無で、常に最短の返答しか返さない。そんな彼が、なぜこれほどまでに言葉を重ねているのか。

 目の前の男は、本当に私の知るアルフォンス侯爵なのだろうか。


「……ローランド卿の件は、誠に遺憾だと思っている。言い方は悪いが、失望した、と言えば伝わるだろうか」


 『失望』という言葉に、私の意識は強制的に引き戻された。

 父、ローランド・セレスティア・ルミナス。


 彼は、軍の補給物資を敵国へ横流ししたという「国家反逆罪」の濡れ衣を着せられ、爵位を剥奪された。潔癖で、誇り高い父がそんな恥知らずな真似をするはずがない。


 反論したい衝動が喉まで出かかったが、ここがそれを口にする場所でないことくらい、私にもわかっている。


 周囲の視線は、もはや「集まっている」という生易しいレベルではない。

 広間にいるほぼ全ての貴族たちが、音楽が鳴り響く中で動きを止め、この異様な光景を凝視している。


 ――殺される。


 何の確証もなかったが、本能がそう告げていた。女たちの刺すような嫉妬が、物理的な刃となって私の背中を切り刻んでいるかのようだ。このまま会話を続ければ、私はこの視線の圧力に押し潰されて死んでしまうだろう。


 私は再び深く視線を落とした。

 メイドとしての卑屈な所作をあえて強調するように、深々と頭を下げる。


「……私が今、どのような立場でここにいるかをご承知の上でしたら、話は早うございます。あいにく仕事が残っておりますので、これにて失礼させていただきます」


 拒絶の言葉を叩きつけるように言い残し、私は踵を返した。一刻も早くこの場を離れるべく、足早に彼から遠ざかろうとする。

 だが、数歩も歩かないうちに、それは阻まれた。


 背後から伸びてきた強く、熱い掌が、私の手首を掴んだのだ。


 振り返らなくてもわかる。それが誰の手であるかなど。


 ああ、終わった。


 私は絶望に目を閉じた。

 これは単に殺されるだけでは済まない。会場中の令嬢たちの憎悪に焼かれ、その屍さえもズタズタに引き裂かれるに違いないのだ。

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