令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって
あおとあい
第1話
舞踏会はまさにたけなわで、会場内は正気を疑うほどの喧騒と熱気に包まれていた。
人手が足りないのか、あるいは意図的に減らされたのか。
私が給仕として立ち働いているのは、王都にほど近い侯爵家の壮麗な城――今はその「侯爵邸」の広間が、煌びやかな光に彩られた戦場と化している。
国中の名士や貴族、王族までもが、豪奢なドレスや正装に身を包んで優雅にステップを踏んでいる。
その華やかな輪の間を縫うようにして、私はシャンパングラスを載せた銀トレイを運び、空いた皿を片付けて回る。
すでに二時間以上、一歩も足を止めることさえ許されない。
地味なメイド服に身を包み、ただの風景の一部として動いているはずの私に、時折、冷ややかな視線が突き刺さる。
かつて、私も彼らと同じ側にいた。
この広間で、同じように着飾り、微笑みを振りまいていた時期があったのだ。
「あの子よ。ルミナス家の令嬢だった……」
「正確には、『元』令嬢、でしょう?」
耳をかすめるひそひそ話に、私は思わず唇を噛みしめる。
湧き上がる感情を押し殺し、ただ目の前の仕事に集中することだけを考える。
それでも視線はやまない。
ルミナス家が没落し、平民にまで転落した私が公の場に姿を現すのは、これが初めてだったからだ。
屈辱を感じるよりも先に、ただひたすらに疲弊していた。
込み上げる涙を堪えるために、あえて肉体を酷使し、その疲労感で心の痛みを相殺しようと必死だった。
悲しくなどない。
そう自分に言い聞かせても、体が勝手に震えそうになるから、さらに動きの強度を上げる。
「あら、これはこれは」
不意に、揶揄するような声が飛んできた。
新しいシャンパンを並べ、テーブルを整えようとした私の元へ、四人組の令嬢たちが歩み寄ってくる。
声に引かれるように顔を上げると、そこには見慣れた顔があった。
「……イザベラ」
懐かしさから、その名を口にした瞬間だった。
視界が激しく火花を散らし、一瞬だけ目の前が暗転する。
遅れてやってきたのは、頬を焼くような熱い衝撃。
強引に横を向かされた首の痛みに、ようやく自分がビンタを食らったのだと理解した。
手に持っていたトレイが指先から滑り落ち、大理石のフロアに派手な音を立ててシャンパングラスが砕け散る。
静寂が広がり、周囲の視線が一斉にこちらへと集まった。
衝撃に耐えきれず、私はその場にへたり込んでしまう。
「平民の下働きの分際で、貴族たる私の名を気安く呼ぶなんて」
見下ろすイザベラの声は、冷酷な怒りに満ちていた。
「無礼千万だわ。身の程をわきまえなさい。目をつぶることさえ許されない卑しい身分でありながら、名前を呼ぶなど、万死に値する無作法ですわよ」
かつての友人に対して、私は謝罪の言葉を捻り出す。
平民が貴族を愛称や下の名で呼ぶことは、この国では法に触れかねない失態だ。染み付いたかつての習慣が、今の私を苦しめる。
逃げ出したくなる心を必死に繋ぎ止め、私は震える膝を立てて立ち上がった。
「も、申し訳ありません、クレイソンお嬢様。大変失礼いたしました。どうか、お許しくださいませ……」
イザベラはなおも憤った様子で手を振り上げたが、連れの令嬢たちが彼女を宥めるように引き止めた。
「今回は見逃してあげるわ。でも、次はなくてよ。自分の立場を、その汚れた体に刻んでおくことね」
「……ありがとうございます。申し訳ありませんでした」
私は何度も深く頭を下げ、その場を去っていく彼女たちの背中を見送った。
涙を堪えるために、何度も何度もお辞儀を繰り返す。
割れたガラスを片付けるため、同僚のメイドたちが雑巾を手に駆け寄ってきた。そのうちの一人が、私に静かな怒りをぶつける。
「令嬢を名前で呼ぶなんて、あんた正気なの?」
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
周りにまで迷惑をかけた申し訳なさに、私はただ謝り続けるしかなかった。
「あんたはもう、裏の厨房に引っ込んでなさい。休めって言ってるんじゃないわよ。その汚れた制服じゃ表には出られないから、そこで皿洗いでもしてなさいってこと」
突き放すような言葉だったが、今の私にはそれが救いだった。
自分のメイド服を見下ろすと、飛散したシャンパンで無惨に汚れている。
早くここから消えよう。人々の視線が届かない場所へ。
私は表情を固く強張らせ、逃げるように裏方へと歩き出した。
伏せたままで歩くと、誰かにぶつかって更なる騒ぎを起こすかもしれない。それだけは避けなければならなかった。
私は辛うじて重い頭を上げ、前を見据える。
その時、ふと視線がぶつかった。
広いダンスホールの端から端ほども離れた距離だったが、その瞳とぴたりと目が合ってしまったのだ。
心臓が跳ね上がり、私は慌てて視線を逸らす。
また何か過ちを犯したのではないか。
メイド長にこれ以上叱責されたら、今度こそ居場所がなくなる。
混乱と恐怖に突き動かされるように、足早にこの煌びやかな空間から姿を消そうとした、その時。
「君」
背後から、私を呼び止める声が響いた。
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