第7話 裏切りの氷

氷晶の迷宮は、ときに静かすぎる。

敵も罠も見えない空間ほど、心を油断させるものはない。


リオハは、足音を殺して進んでいた。

深層に入ってから、迷宮の構造は明らかに変わっている。

通路は整い、氷壁には古い刻印が規則正しく並んでいた。


「誰かが……使っていた跡だな」


ノアが小さく頷く。

だが、その動きに、わずかな違和感があった。


――近い。


何が、とは言わない。

だが、嫌な予感が胸に沈む。


次の瞬間、前方の空間が揺らいだ。


人影が現れる。

白い外套に、淡い蒼の装備。


「……エリシア?」


迷宮研究者の女。

浅層で別れたはずの人物だ。


「無事だったのね」


笑顔は、どこか硬い。

その視線が、ノアを一瞬だけ避けた。


「ここまで来るとは思わなかったわ」


「それは、こっちの台詞だ」


リオハは剣から手を離さない。

学者であっても、迷宮では例外はない。


エリシアは一歩近づき、声を潜めた。


「ザレンに、会った?」


その名に、空気が張り詰める。


「ああ」


短く答えると、彼女は目を伏せた。


「やっぱり……」


次の瞬間、床の氷が砕けた。


リオハの足元が沈み、体勢が崩れる。

同時に、氷壁から魔法陣が浮かび上がった。


――罠だ。


ノアが吠え、結界のような氷を展開する。

だが、完全ではない。


「エリシア……!」


「ごめんなさい」


震える声。

だが、魔法は止まらない。


「私は、迷宮の核心を知りたいだけ。

そのためには……ザレンと取引した」


リオハの胸に、冷たいものが落ちる。


「彼は言ったの。

契約者は、いずれ魔獣に喰われるって」


氷の魔法が、通路を封じる。

逃げ道はない。


「だから、証明したい。

迷宮の真実を、外に持ち帰るために」


それは、裏切りだった。

だが、同時に必死な選択でもあった。


――人間だ。


ノアの感情が、静かに流れ込む。

怒りではない。

理解に近いもの。


氷の魔物が、召喚される。

数は多くないが、狭い空間では厄介だ。


「下がれ!」


リオハは前に出る。

ノアと背中を預け合う。


連携は、まだ完璧ではない。

だが、今は迷いがなかった。


氷を斬り、魔物を砕く。

その合間に、エリシアが叫ぶ。


「私は、間違ってる?」


答えは、簡単ではない。


「……正しいかどうかは、俺にはわからない」


剣を振るいながら、続ける。


「でも、人を踏み台にする選択をした時点で、

迷宮は、あんたを試す側に回る」


魔法陣が、ひび割れた。

迷宮が、反応している。


エリシアは、その場に崩れ落ちた。


「私……怖かったの」


声が、かすれる。


「知ることより、信じることの方が、ずっと怖い」


ノアが、ゆっくりと彼女の前に立つ。

威嚇ではない。


――選べ。


その意思が、空間に満ちる。


氷壁が砕け、通路が開いた。

迷宮は、彼女を拒まなかった。


エリシアは、震える手で立ち上がる。


「……戻るわ。

ここから先は、あなたたちの場所」


それだけ言い残し、別の道へ消えていく。


静寂。


リオハは剣を下ろした。

胸の奥に、重たい余韻が残る。


「裏切り、だったな」


ノアが首を振る。


――恐れだ。


「……そうだな」


迷宮は、人の弱さを責めない。

ただ、選択を記録する。


リオハは、前を向いた。


信じることは、痛みを伴う。

それでも、進むしかない。


深層は、すぐそこだった。

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