氷の迷宮と蒼の契約

塩塚 和人

第1話 蒼の契約


氷晶の迷宮は、音を奪う場所だった。

雪原を渡ってきた風は、入口に近づくにつれて息をひそめ、ただ冷気だけを残す。


リオハ・ヴァレンは迷宮の前に立ち、深く息を吸った。

肺に刺さる冷たさが、ここが生き物の領域ではないと告げている。


「……ここか」


低くつぶやいた声は、すぐに氷壁に吸い込まれた。

巨大な氷柱が門のように並び、奥へ続く通路は淡い青色の光を放っている。

これが、数えきれない傭兵と探検者を飲み込んできた 氷晶の迷宮 。


右手を握りしめる。

そこには、まだ何も刻まれていない。


蒼の契約――

迷宮に棲む魔獣と心を結び、力を分け合う儀式だ。

成功すれば、迷宮を生き抜く力を得る。

失敗すれば、魂を氷に縫い止められると言われている。


「後戻りは、できないか」


そう思ったとき、背後で雪を踏む音がした。


振り返ると、そこに“青”がいた。


氷よりも深く、夜空よりも澄んだ蒼色の毛並み。

狼の姿をした魔獣が、静かにこちらを見つめている。

瞳は理性を宿し、獣というよりも、誰かを測る眼差しだった。


――こいつが。


リオハはゆっくりと膝をつき、剣から手を離す。

敵意を見せれば終わりだと、経験が告げていた。


「契約を……望む」


声が震えたのは寒さのせいだけではない。

狼は一歩近づき、鼻先を彼の右手に触れさせた。


その瞬間、熱が走った。


氷点下の世界でありえないほどの熱。

皮膚の奥から、骨にまで染み込む感覚。

思わず歯を食いしばると、右手の甲に蒼い光が浮かび上がった。


紋章だ。

円と牙を模した、簡素だが力強い印。


狼が低く鳴く。

それは咆哮ではなく、確かな意思を含んだ声だった。


――ノア。


名が、直接頭に流れ込んでくる。

言葉ではないのに、はっきりと意味がわかった。


「……よろしく頼む」


リオハがそう告げると、ノアは尾を一度だけ振った。

それで十分だった。


次の瞬間、迷宮の奥から氷が軋む音が響く。

通路の形が、ゆっくりと変わっていく。


「歓迎、されてるわけじゃなさそうだな」


だが、不思議と恐怖はなかった。

右手の紋章が、確かな温もりを伝えてくる。


ノアが先に歩き出す。

その背を追いながら、リオハは思った。


――もう、一人じゃない。


氷晶の迷宮は、静かに口を開いた。

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