最終話 我らに乾杯、そしてマグロを要求する
遠ざかる悲鳴と猫たちの
嵐のような騒動が去った店内。サファイアは、何事もなかったかのような涼しい顔で、破壊されたドアの隙間から戻ってきた。
そして、元の席……上座のソファ――に座り直し、優雅に前足を舐め始める。
「まったく。野蛮で教養のない方々だ。……瞳さん?
ぼーっとしていないで、早くテーブルを拭いてください。料理が冷めてしまいますよ?」
「あ……う、うん。そ、そうね!」
サファイアの言葉にハッと我に返り、瞳が慌てて動き出す。
俊夫もまた、夢から覚めたように瞬きをした。
目の前には、割れた皿や倒れた椅子が散乱している。
だが、不思議と悲壮感はなかった。大切なもの……妻と、店と、小さな家族は、何ひとつ傷つけられていないのだから。
「ミャァァァ(おねーちゃん!)」
瞳の足元から飛び出したミーコが、弾丸のようにサファイアに突撃した。
サファイアの首元に、小さな頭をぐりぐりと押し付ける。
「おねーちゃん、すごかった! ぐるぐるーってして、ドーンって! わるいひとたち、おそらをとんでった!」
「……っ!?」
無邪気な賞賛の言葉に、サファイアの動きが一瞬止まった。
その鉄仮面のような無表情が崩れかけ、耳の先がほんのりと赤くなる。
「コ、コホン。……ミーコ、落ち着きなさい。はしたないですよ」
「ミャァァァミャァァァ(だって、かっこよかったもん! ミーコも、おねーちゃんみたいにつよくなる!)」
「……ボ、ボクにかかれば、あんな雑草の駆除など造作もないことです」
サファイアは照れ隠しのように視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「いいですか、ミーコ。力とは、己の欲望のためではなく、愛する平和な寝床と……美味しいご飯を守るために振るうものです。あんな下品な大人になってはいけませんよ」
「ミャァァァ(うん! わかった!)」
姉妹(?)の微笑ましいやり取りを見て、俊夫と瞳は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「ははは……。本当に、敵わないなぁ」
「ええ。この子が来てくれて、ミーコも来てくれて……悪いことなんて、全部吹き飛んじゃったわね」
二人は手早く店内の片付けを済ませると、奇跡的に無事だった予備の料理と、新しいグラスをテーブルに並べ直した。
先程までの完璧なセッティングではないかもしれない。ドアからは隙間風が入ってくるし、窓ガラスも割れている。
けれど、この空間は今までで一番、温かく輝いて見えた。
俊夫は、改めてシャンパングラスを猫たちにはミルク皿を持ち上げる。
「店が守られたことも嬉しい。でも、今日一番の『祝い』は……」
俊夫の視線が、寄り添い合う二匹の猫と、愛する妻へ注がれる。
「こうして家族みんなが無事で、一緒に笑い合えることだ。サファイア、ミーコを連れてきてくれて、本当にありがとう」
「……フン。礼には及びません」
サファイアは素っ気なく答えたが、その尻尾はご機嫌そうに揺れていた。
「それじゃあ、ネコの尻尾のこれからの繁盛と、俺たちの最高の家族に……」
「「乾杯!!」」
カチン、とグラスが触れ合う音が、今度こそ誰にも邪魔されることなく、優しく響き渡った。
◇
それから数分後。
平和な食事が進む中、カチャリカチャリと、空になった皿を叩く音が響いた。
「……さて、俊夫さん」
サファイアが、ミルクを飲み干した皿を前足で押さえながら、ニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、先程チンピラたちに向けたものと同じくらい、慇懃無礼で、かつ絶対的な圧力を放っていた。
「ボクの警備料の話をしましょうか。
当然、これだけの労働をしたのですから、特別手当を
「えっ? あ、いや、もちろん! またたび酒の特級ボトルを……」
「いいえ」
サファイアは首を横に振った。そして、鼻をひくつかせ、厨房の奥にある業務用冷蔵庫を指し示す。
「先ほど、冷蔵庫の奥に隠されていた『大間産・本マグロ』の柵……ボクの鼻は逃していませんよ?」
「ッ!? あ、あれは明日のランチ用の目玉商品で、俺と瞳もまだ味見をしていない虎の子の……!」
「おや? 命の恩人であるボクより、見知らぬ客のランチが大事だと? ……ふうん、そういう態度をとりますか」
サファイアが、スチャッと音を立てて右足の爪を少しだけ出した。
キラリと光るその凶器は、先ほど鉄パイプをへし折ったものと同じだ。
「ひぃっ! わ、わかりました! 喜んで献上させていただきます!!」
俊夫は脱兎のごとく厨房へ走り、震える手で最高級の本マグロを取り出した。
皿に盛られた赤く輝く宝石を前に、サファイアは満足げに喉を鳴らす。
「結構。物分かりの良い
「ニャ~(おさかな!)」
「さあ、ミーコ。半分こですよ。これが強者の特権の味です」
嬉しそうにマグロを頬張る二匹の猫と、それを涙目で見守る(しかし口元は笑っている)オーナー夫婦。
喫茶店「ネコの尻尾」の夜は、こうして賑やかに更けていくのだった。
今年も、きっと騒がしくも幸せな一年になることだろう。
最強の招き猫がいる限り。
── 終 ──
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