ミコト ―運命への反逆―

灯籠小四郎

ミコト ―運命への反逆―

プロローグ:月に照らされた廃墟街

月夜の蒼い光に静かに照らされる極東の不凍港、海嶺市。 かつて貿易で栄えた街は、今や鋼鉄の檻として封鎖されていた。 空を舞うのは、カモメではない。 軍事企業アイアン・ガード社の無人攻撃ドローン〈ハウンド〉だ。

都市浄化作戦の名のもと、熱源を探知し、機銃を掃射している。 この光景を一人の男が満足そうに見ている。 この国の支配者である五福星の一人だ。 「凡人どもには自由はいらない、奴らにとってはただの毒だ」 男はペンダントの中の十代と思しき若い女性の写真を見ていた。 「ラ―ナ…」

封鎖線の内側、旧市街〈灰殻街〉。 国家の法はここでは意味を失っていた。 支配するのは、神の名を騙る略奪者たちだった。 街の隅にはいくつかの遺体が、人形のごとく静かに転がっている。

硝煙と瓦礫の迷路。 迷い込んだように右に左に弱々しく跳ねている子カエルを、一人の少女がすっと、軽くジャンプして避けて行った。 名はミコト。 黒いタクティカルスーツは返り血と煤にまみれ、切り揃えた黒髪が激しい動きに合わせて跳ねる。 彼女の背には、古びた外見とは裏腹に重厚な電子ロックで封印された一巻の巻物が固定されていた。 ――《天之神火之咲夜写巻》。 都市OSの深層を書き換え、神の権能を模倣する禁忌の設計図――

この言葉は、誰に教わるでもなく子供でも暗唱できる伝説の巻物でもあり、架空の存在でもある。 五福星が民衆に触れさせることを最も恐れる“鍵”だ。

「ミコト。止まりなさい」

瓦礫の影から、漆黒の強化外骨格を纏った一団が姿を現す。 その中心に立つ女――マーラ。 新興宗教〈聖域の鍵〉の女王にして、都市システムを司る〈祈り姫〉の実妹。 その瞳に宿るのは、情ではなく冷徹な任務意識だった。 「その巻物は、姉様が持つべきものじゃない?世界を焼き尽くすコードよ。返しなさい」

ミコトは答えない。 左手で巻物を抱き寄せ、右腕のニューラルリンクを加速させる。 視界に極彩色の戦術情報が展開される。 敵数、装備、弾道予測、心拍数。 かつてアイアン・ガード社の特殊工作員として叩き込まれた技術が、敵を“排除対象”として即座に分類した。その瞬間――

銃声と悲鳴の渦を突き破るように、澄んだ歌声が響いた。 「……あまのかみ、ひのさくや、うつしまき。すべてが終わって、すべてが始まる」

崩れかけた教会の軒下。 膝を抱えて座っていたのは、返り血一つ浴びていない少年だった。 名は、こばと。 この地獄でただ一人、現実から切り離された存在。 彼は虚空を見つめ、設計図の断片を子守唄のように口ずさむ。

次の瞬間、湾岸艦隊から放たれた熱線砲が灰色の空を切り裂いた。 ミコトは一瞬だけ迷う。 この少年を連れて行く余裕などない。 ――それでも。 「……」 彼女は少し躊躇した。 しかし、時間のない中での答えの出し方は訓練されていた。 少年の手を掴んだ。 冷たく、それでいて確かな重みのある手だった。

血脈の呪縛。 国家の陰謀。 神のコード。 すべてが渦巻く灰殻街で、ミコトの孤独な戦いが、今始まる。

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第一章:運ぶ者

灰殻街を抜けてから三時間。 ミコトはようやく、崩落した高架道路の下に身を潜めた。 ドローンの駆動音は遠ざかっている。 だが、静寂は安全を意味しない。ここでは沈黙そのものが罠だ。

「……はぁ」 息を吐いた瞬間、全身の痛みが一気に主張を始めた。 筋肉疲労、弾片による擦過傷、神経接続の過負荷。 どれも致命傷ではない。――いつも通りだ。

ミコトは背中の巻物に手を伸ばし、固定具を確認する。 異常なし。 それを確かめて、初めて肩の力を少しだけ抜いた。 どんな物であれ、依頼された「荷」を届ける。 感情は不要。判断は契約書にある。 ――それが、彼女の生き方だった。

「ねえ」 背後から、場違いなほど穏やかな声がした。 振り向くより早く、ミコトは拳銃を抜いていた。 照準の先にいるのは、あの少年――こばと。軍需産業の工作員時代に上司から排除を命令されたターゲットだ。 瓦礫の上に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしている。 緊張感というものを、生まれてから一度も知らない顔だ。あの時排除を躊躇させた表情だ。

「……勝手に動くな」 「だって、もう追ってきてないよ?」 少年は無邪気に空を指差した。 確かに、ドローンの反応はない。 だが――。

「静かにしろ。ここはまだ危険だ」 ミコトは銃を下ろさなかった。 この少年は、信用できない。 戦場で“無事な子供”ほど、危険な存在はない。

「ねえ」 こばとは首を傾げた。 「ねぇ、ミコト」 ミコトは少し驚いて振り返る。 しかし、国家から追われる女は自分しかいない。 そして、この少年の情報も自分は知っている。 この世界のシステムでは自己紹介はいらない。 ただし、それはそのシステムに守られている側に限るが。

「それ、重い?」 視線は、巻物に向けられている。 ミコトは一歩踏み出し、少年に銃口を向けた。 「見るな」 「……そっか」

こばとは素直に視線を逸らした。 怯えた様子はない。 ただ、少しだけ残念そうだ。 その反応が、ミコトの神経を逆撫でした。 どこからか子供たちの泣き声が聞こえる。 ――だが、この少年は違う。

「お前は何者だ」 問いは短く、鋭い。 こばとはしばらく考え込むように沈黙し、やがて楽しそうに答えた。 「ぼく? うーん……鍵、かな」

次の瞬間、ミコトは引き金に指をかけていた。 「ふざけるな」 「ふざけてないよ」 こばとは笑った。 その笑顔は、どこか“答えを知っている者”のものだった。

ミコトは舌打ちし、銃を下ろす。 撃たなかった理由は単純だ。 ――今、殺す必要がない。 それだけだ。 彼女は踵を返し、高架の影を出た。 先へ進む。ここに留まる理由はない。 「ついてくるな」 言い捨てる。

数秒後、足音が増えた。 「……」 ミコトは振り返らない。 連れて行くつもりはない。 ただ、追い払う理由も、今はなかった。 彼女の仕事は、巻物を運ぶことだ。 少年の処遇は、契約に含まれていない。 それだけ。

「ミコト」 また名前を呼ばれる。 「そのお仕事、いつ終わるの?」 一瞬、答えそうになった。 ――終わらない。 運ぶ者は、運び続ける。 そう言いかけて、ミコトは口を閉じた。 なぜか、その言葉が“嘘”になる気がした。

「……黙れ」 それ以上、何も言わなかった。 瓦礫の街を歩きながら、ミコトは気づかないふりをしていた。 水たまりを踏み抜き、水しぶきが跳ねる。 虫が、散るように逃げた。 「……虫さん、かわいそう」 その言葉に少し振り返るミコト。 眉間に少し、皺が寄る。 少し戸惑ったこばとが横に来て言った。 「あの虫さんにも神さまが宿っているんだよ、人間以外はね」

背中の巻物の重みより、隣を歩く少年の体温や小さな動きの方が、ずっしりと心にのしかかるように感じられた。

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第二章:神の写巻

夜明け前の空は、濁った灰色だった。 高架道路を抜け、ミコトは海嶺市の外縁部へと向かっていた。 封鎖線の内側に安全な場所など存在しないが、それでも――人目の少ない場所は選べる。

崩れた物流倉庫。 壁の半分が吹き飛び、屋根は辛うじて形を保っている。 ミコトは内部を確認し、侵入者反応がないことを確かめてから、ようやく腰を下ろした。 「ここで休む。三十分だけだ」 「はーい」 こばとは素直に返事をし、床に座り込む。 埃まみれの床だというのに、まるで公園のベンチのような態度だった。

ミコトは背中から巻物を下ろす。 慎重に、床に置く。 それだけで、空気が変わった。 ――重い。 物理的な重量ではない。 存在そのものが、重かった。

「……」 ミコトは巻物から視線を逸らし、装備の点検に集中する。 この“荷”は、運ぶものだ。

「ねえ」 こばとの声が、静寂を破った。 「それ、開けちゃだめなんだよね」 ミコトの手が止まる。 「……知ってるのか」 「うん。だって――」 少年は、巻物を見つめたまま言った。 「一回しか使えないから」

ミコトはゆっくり顔を上げた。 「……何の話だ」 「世界を、ちょっとだけ書き換える話」 その口調は、壊れた信号機の話でもするようだった。 「それは都市の中枢コードだ」 ミコトは淡々と告げる。 「使えば、街がどうなるか分からない」 「うん。だから一回だけなんだよ」 こばとは頷く。 「二回やると、世界が壊れるから」

ミコトは立ち上がった。 一歩、距離を取る。 「……お前は何者だ?」 再び、その問いが口を突いて出た。 少年は困ったように笑う。 「さっき言ったでしょ。鍵だよ」 「鍵は喋らない」 「じゃあ、設計ミスだね」 冗談めいているのに、否定できない“違和感”があった。

ミコトは巻物に視線を戻す。 かつて、五福星の依頼で似たようなコードを運んだことがある。 あれは都市の交通制御を最適化するものだった。 結果として、数万人が職を失った。 ――使われ方次第で、世界は簡単に歪む。

「これは、誰のための物だ」 問いは、独り言に近かった。 「誰か一人のためじゃないよ」 こばとは即答した。 「選ばれた人のためのものでもない」 「……なら、何のためだ」 少年は、少しだけ言葉を選んでから答えた。 「今のままじゃだめだと思った人たちのため」

ミコトは鼻で笑った。 「曖昧すぎる」 「うん。でもね」 こばとは、初めて真剣な表情になった。 「これを使う人は、必ず後悔する」 その言葉に、ミコトの胸が僅かに軋んだ。 「どうしてだ」 「だって」 少年は、巻物から目を離さずに言う。 「使ったあと、もう“運ぶだけ”じゃいられなくなるから」

ミコトは、その意味を考えないようにした。 考えれば、足が止まる。 足が止れば、死ぬ。 「休憩は終わりだ」 巻物を再び背負い、立ち上がる。

「次の移動先は?」 こばとが尋ねる。 「封鎖線の南」 「そっか」 少年は立ち上がり、何でもないことのように言った。 「じゃあ、そこで追いつかれるね」

ミコトの背中が強張った。 「……誰に」 「追う人」 こばとは微笑む。 「赤い目の、怒ってるお姉さん」

マーラ。 名を出されなくても、分かった。 「いつだ」 「もうすぐ」 ミコトは舌打ちした。

「ミコト」 こばとが、静かに呼んだ。 「ぼく、見る?」 その一言で、理解した。 ――未来視。 ミコトは即座に首を振る。 「使うな」 「でも――」 「代償があるんだろう」 こばとは、少し驚いた顔をした。 「……うん」 「なら、使うな」

ミコトは歩き出す。 「まだ、使う時じゃない」 背後で、少年が小さく笑った。 「うん。まだだね」

瓦礫の外に出た瞬間、遠くで装甲ブーツが地面を叩く音が響いた。 追跡者は、確実に近づいている。 ミコトは、背中の重みを感じながら走り出す。 ――この“荷”は、いつか自分に「選べ」と言ってくる。 その予感だけが、胸の奥で、確かな重さを持ち始めていた。

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第三章:追う者たち

マーラは、ヘルメットを外したまま立っていた。 通信室には、彼女一人しかいない。 壁一面に投影された都市の断面図。 封鎖線、避難失敗区域、死亡推定数。 それらを、彼女は“数字”として見ていた。 そうしなければ、立っていられなかったからだ。「マーラずっと一緒だよ」姉である祈り姫との最後の記憶が一瞬蘇る。

ふと我に返り、現実に戻る。

「……埋もれた数字が、また増えた」 呟きは、誰にも届かない。 彼女は視線を落とす。 手袋越しに、自分の手がわずかに震えているのが分かった。

姉は、祈っている。 それだけで、この街が保たれていると、皆が信じている。 ――違う。 マーラは、知っていた。 祈りは、支えだ。 だが、支柱ではない。 支えるために、誰かが外から押さえ続けなければ、この街は崩れる。 だから自分がいる。 だから、汚れ役を引き受けている。

「……姉様」 名前を口にすることは、許されていない。 祈り姫は、象徴でなければならない。 妹であってはならない。

マーラは、端末に表示された追跡対象を見つめた。 ――ミコト。 優秀な工作員。 危険な運び屋。 そして、姉に触れ得る唯一の存在。 胸の奥が、微かに痛んだ。

「……あれを、自由にしたら」 姉は、壊れる。 祈り続ける理由を、失ってしまう。 マーラはヘルメットを被る。 感情が、視界から遮断される。

「全隊に通達」 声は、冷静だった。 「対象を確保する。致命傷は避けろ。――それ以外は、許可する」 通信を切ったあと、彼女は一度だけ、目を閉じた。 正しいことをしている、とは思わない。 ただ、姉を守れるのが、自分しかいないと知っているだけだ。 だから、追う。 それ以外の選択肢を、彼女は持たなかった。

瓦礫の通りに、規則正しい足音が響いていた。 逃走者を追う音ではない。 獲物が逃げ切れないと知っている者の、歩調だ。 ミコトは伏せ、下を覗く。視界が一瞬だけ狭まった。 逃げ切れない。 体が、硬直した。強化外骨格部隊。 その中心を歩く一人の女に、視線が吸い寄せられる。

マーラ。 漆黒の装甲に身を包み、ヘルメットは外している。 戦場で顔を晒すのは、恐怖を与えるためだ。

「……来た」 ミコトは小さく呟き、背中の巻物を確かめる。

「ミコト」 マーラの声が、拡声もなしに届いた。 「聞こえてるでしょう。……これ以上、街を壊さないで」 屋上の縁に、照準レーザーが走る。 逃げ場を塞ぐ配置。 ――見事だ。

「あなたは賢い。自分が何を持っているか、分かっているはず」 ミコトは立ち上がった。 隠れていても意味はない。 「引き渡せば、命は保証する。……あなたは、殺される側じゃない」 マーラは淡々と言った。 「あなたは、ただ“運んでいただけ”。罪はないわ」

ミコトは、ゆっくりと姿を現した。 「……その言い方」 彼女は銃を構えない。 ただ、まっすぐにマーラを見下ろす。 「昔から嫌いだ」

マーラは、わずかに眉をひそめた。 「感情論?」 「責任転嫁だ」 ミコトは言った。 「……そうやって、誰かが壊れてきた」 一瞬、周囲の兵がざわつく。 マーラは手を上げ、制した。

「……それでも」 彼女は静かに言う。 「世界は、管理されなければならない。自由は……放っておくと、人を壊す」 マーラは、一歩前に出る。 「神のコードは……壊さない人の手にあるべきなの」

ミコトは笑った。 短く、乾いた笑いだ。 「五福星の手が、正しいと?」 「少なくとも……あなた一人に、背負わせるよりは」 マーラの視線が、ミコトを貫く。

沈黙。 背後で、こばとが小さく息を呑んだ。 「……マーラ」 ミコトは、初めて彼女の名を呼んだ。 「姉さんは、どうしてる」

一瞬。 本当に、一瞬だけ。 マーラの瞳が揺れた。 「……姉様は」 一瞬、言葉が途切れる。 「祈っているわ。この街が……壊れないように」

一瞬、言葉を探すように間が空いた。 ミコトは理解した。 ――救えなかったのではない。 ――壊れるのが、怖かったのだ。 だから、縋っている。

「それが」 ミコトは、静かに言う。 「この街を、撃ち抜く理由か」

マーラの表情が、硬化した。 「黙りなさい」 その声に、命令の色が混じる。 「あなたは、選ぶ立場じゃない。あなたは――」 「運ぶ者?」 ミコトが遮った。 「もう違う」

マーラは目を細めた。 「……なら、何だというの?」 ミコトは、背中の重みを意識した。 巻物。 神の写巻。 それは、彼女に答えを与えない。 ただ、問いを突きつけてくる。

「まだ、分からない」 正直に、そう言った。 「でも――」 ミコトは一歩、前に出る。 「少なくとも、あなたには渡さない」

その瞬間、マーラの表情から、感情が消えた。 「制圧」 短い号令。 次の瞬間、銃声が炸裂する。 彼らは、市民を殺しているつもりはなかった。 “事態を収束させている”という認識だった。

ミコトは身を翻し、屋上から飛び降りた。 衝撃を殺し、即座に走る。 「ミコト!」 こばとの声。 「右、来る!」 反射的に身を伏せる。 装甲弾が頭上を掠め、コンクリートを砕いた。 ――見ている。

ミコトは歯を食いしばる。 「使うな!」 「でも!」 「まだだ!」 叫びながら、通路を抜ける。

「ミコト!」 再び、こばとの声。 今度は、少し震えている。 「このままだと――」 「分かってる!」 ミコトは叫ぶ。

分かっている。 逃げ切れない。 だが―― 「使えば、戻れなくなる」 それだけは、確信していた。

瓦礫の隙間を抜け、地下通路へ滑り込む。 背後で、爆発音。 追う者たちは、確実に迫っている。 ミコトは走りながら、思った。 ――世界を守るために、世界を撃つ。 その論理に、自分は立たない。

まだ答えはない。 だが、選ばないことだけは、選べた。 灰色の煙が、追うものと追われるものとを遮った。

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第四章:こばとの代償

地下通路は、かつて避難用に作られたものだった。 今は崩落と浸水で半分が使えない。 逃げ場という言葉が、頭から消えた。

「ミコト」 こばとの声が、すぐ後ろでした。 「もう、時間がない」 振り返ると、少年の顔色が悪い。 唇がわずかに紫がかり、呼吸も浅い。 「……何をした」 「まだ、なにも」 こばとは首を振る。 「ほとんどは、死ぬ未来。助かるのは一つだけ」

ミコトは立ち止まる。 「見るなと言った」 ミコトは舌打ちした。 体が、逃げろと叫んでいた。 「……何だ、それは」 こばとは、少し困ったように笑う。 「未来を見ると、ぼくが止まる」

ミコトは、嫌な予感を覚えた。 「どれくらい」 「分からない」 次の瞬間、少年の膝が折れた。 「こばと!」 ミコトは即座に抱き留める。 体が、異様に冷たい。

「……ごめん」 こばとは、か細い声で言った。 「見ちゃった」 ミコトは歯を食いしばった。 ――代償。 想像以上に、重い。

「どの未来だ」 「左の分岐」 こばとは指先だけで、通路の奥を示す。 「爆発が起きる前に、抜けられる」 「お前は」 「動けない」 はっきりと、そう言った。

その時、遠くで爆発音が響いた。 追撃部隊が、通路を破壊し始めている。 ミコトは迷わなかった。 こばとを背負い、走り出す。

「……軽いな」 思わず、口を突いた。 こばとは、苦笑する。 「よく言われる」

左の分岐へ飛び込み、瓦礫を蹴散らす。 背後で爆音。 粉塵が舞い、天井が崩れる。 「ミコト」 こばとが弱く声を出す。 「喋るな」 分かっている。 だからこそ、怒りが込み上げる。 ――なぜ、こんなものを背負わせる。 ――なぜ、子供に。

通路の先に、微かな光が見えた。 出口だ。 「もう少しだ」

だが、その瞬間。 視界の端に、赤い光。 マーラの部隊が、出口側を塞いでいた。 「……詰んだか」 ミコトは足を止める。 銃を構え、こばとを庇うように前に出る。

「ミコト」 背中から、弱々しい声。 「もう一つ、見える」 「……やめろ」 「最後の未来」 「この先で、巻物を使う」 「使わない」 「使わなくても、いい未来」 「……なら、なおさらだ」

ミコトは、引き金に指をかける。 「それは、まだだ」 次の瞬間、天井が完全に崩落した。 轟音と粉塵がすべてを覆い尽くす。 ミコトは、こばとを抱き締め、身を伏せた。

――未来が、外れた。 それでも、生きている。 粉塵が晴れた時、出口は完全に塞がれていた。 だが、敵の姿もない。

「……助かった、のか」 ミコトは呟いた。 背中の重みを、確かめる。 「こばと」 返事がない。 「……おい」

腕の中の少年は、目を閉じたまま動かない。 呼吸はあるが、浅い。 ミコトは、初めてはっきりと理解した。 ――この力は、切り札じゃない。 ――命を削る、借金だ。

「……馬鹿」 誰に向けた言葉かも分からないまま、ミコトは少年を抱き締めた。 運ぶだけだったはずの“荷”は、いつの間にか、守らなければならない存在に変わっていた。

灰色の煙が彼女の涙を隠していた。 一方、マーラの通信端末に連絡がテキストで入っている。 『本当に巻物を操作できるのは彼女しかいないのか?』 そこに、命令の口調も、ためらいもなかった。 『はい、残念ながら』 『コードや操作方法を知っている元工作員は彼女しかいません』

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第五章:選択肢

目を覚ました時、ミコトは自分が座らされていることに気づいた。 硬い椅子。 拘束はないが、逃げられる気もしない。 周囲は、簡素な部屋だった。 コンクリート打ち放しの壁。 無機質な照明。 ――捕まった。 その事実を、静かに受け入れる。

「目覚めたか」 正面から、低い男の声。 ミコトは顔を上げた。 白髪交じりの男が、卓の向こうに立っている。 軍服ではない。 だが、権力の匂いがした。

「……誰だ」 「名乗るほどの者ではない」 男はそう言って、微笑んだ。 「五福星の一人だ。君たちの言葉で言えば――依頼主かな」

ミコトは、反射的に背中を確かめる。 巻物は、ある。 奪われてはいない。

「妙だな」 ミコトは言った。 「殺さない理由がない」 「確かに」 男は頷く。 「だが、君は優秀だ。優秀な駒は、盤上に残した方がいい」 その言葉に、ミコトの胸が僅かに軋んだ。

「……用件は」 「単純だ」 男は、卓に手を置く。 「巻物を渡せ」 ミコトは即答しなかった。 「渡せば?」 「君は自由だ」 男は、あまりにもあっさりと言った。 「この街を出る手配もする。追跡は、完全に止める」

「……こばとは」 ミコトの問いに、男は一瞬だけ沈黙した。 「彼は――」 少し、言葉を選ぶ。 「危険すぎる。国家に管理されるべき存在だ」 ミコトの視線が、冷える。 「道具扱いか」 「違う」 男は即座に言った。 「資源だ。使い方次第で」 「使い潰す、の間違いだ」

男は肩をすくめた。 「言い換えに過ぎない」 その瞬間、部屋の壁が淡く光った。 ホログラム。 崩壊した灰殻街。 暴動。 飢餓。 処刑。

「……見てみろ」 男は淡々と言う。 次に映ったのは、整然とした街並み。 統制された配給。 沈黙する人々。

「君は知らないだろうが、この巻物ができる前、海嶺市は毎日が今の灰殻街よりも酷い地獄だった。自由という名の奪い合いだ。我々はそれを終わらせるために、自らの人間性を捨てて『システムの一部』になったのだよ」

「……あなたは」 ミコトはゆっくり言った。 「選ぶ立場に酔っている」 男の笑みが、わずかに歪んだ。 「否定はしない。だからこそ、君に選択肢を与える」

ミコトの前に、小さな端末が置かれる。 「巻物を渡す。君は自由になる。少年は、我々が引き取る」 端末が、光る。 「そしてもう一つ」 男は、声を落とした。 「君が、使う」

ミコトの呼吸が、止まる。 「……何だと」 「君が巻物を起動し、我々の指定した“最適解”を実行する」 「そうすれば?」 「街は救われる。君は英雄だ」

この神の巻物は、入力を少しでも間違えば世界が歪む。 それは工作員時代に徹底的に叩き込まれていた。 「こばとは」 「使わずに済む」 その言葉は、確かに甘かった。 こばとを守れる。 街も、救われる。

「代償は?」 「君が、もう“普通”には戻れないことだ」 ミコトは、静かに笑った。 「最初から、戻る場所なんてない」

その瞬間。 「……ミコト」 弱々しい声が、背後から聞こえた。 振り返ると、ベッドに横たわるこばとが、目を覚ましていた。 「聞いてたのか」 「うん」 こばとは、小さく頷く。 「ねえ」 彼は、ミコトを見つめる。 「その人の言ってる未来、全部、見たよ」

ミコトの心臓が跳ねる。 「結果は?」 「どれも、つまんない」 こばとは、困ったように笑った。 「ミコトが、ミコトじゃなくなる」

男の視線が、鋭くなる。 「少年。君は黙っていたまえ」 「やだ」 即答だった。 「だって、ミコトが選ぶんでしょ」

ミコトは、二人を見比べた。 自由。 救済。 管理された平和。 そして――自分自身。

「……少し、時間をくれ」 ミコトは言った。 男は、しばらく彼女を見つめ、やがて頷いた。 「いいだろう。だが、長くは待てない」

男が部屋を出る。 静寂。 「ミコト」 こばとは、小さな声で言った。 「どれ、選ぶ?」

ミコトは、答えなかった。 ただ、背中の重みを確かめる。 これは、荷物じゃない。 もう、そう呼べない。 ――次に来るのは、逃げ場のない決断だ。

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第六章:反逆

静かすぎて、耳鳴りがする部屋だった。 ミコトは、端末の光を見つめていた。

「……どっちも、用意された答えだ」 こばとは膝を抱え、迷いなく頷いた。 「だから、どっちも未来は同じ形になる。ミコトが、誰かの“正しさ”になる」 ミコトは、ゆっくりと息を吐いた。 一番、なりたくなかったものだ。

「ねえ、こばと」 ミコトは背中の巻物に手をかける。 「見なくていい。今回は、見なくていい」 こばとは、少し驚いた顔をした。 「……ほんとに?」 「ああ。これは、私が選ぶ」

端末が、音もなく点滅する。 選択を促す無言の圧力。 その時、部屋の照明が、わずかに揺れた。

「……来たな」 ミコトは立ち上がる。 壁の向こうから、重い足音。装甲部隊。 「時間切れ、か」

ミコトは端末を手に取り、だが――操作しない。 代わりに、巻物の封印に触れた。 電子ロックが、低く唸る。 「ミコト……! 使うの?」 「いいや。 “起動”しない」

封印が外れる。 巻物が静かに開いた。 文字でも図面でもない。 無数の光の線が重なり、都市そのものの“呼吸”が見えた。

――神の写巻。 ミコトは、理解した。 五福星は、この鍵を“自分たちだけが使える”と思い込んでいた。 だが、それは――ただの思い上がりだ。

「……そういうことか」 ミコトは笑った。 扉が、爆音と共に破壊される。 煙の向こうに、マーラが立っていた。

「やめなさい、ミコト!」 声が、僅かに震えた。 その震えが、恐怖ではなく愛情だと気づいた瞬間、マーラはそれを言葉にしなかった。 「それを使えば……姉様が」 マーラは、言葉を切った。

「いいや」 ミコトは、はっきりと言った。 「壊すのは、私じゃない」 巻物に手をかざす。 「マーラ。あなたは、正しい」 その言葉に、マーラの目が見開かれた。 「でも。正しさを管理した瞬間、人は疑わなくなる」 ――それが、一番危ない。

巻物が、応える。 光が、部屋を満たす。 「ミコト!何をした!」 五福星の男の怒声が、通信越しに響く。

ミコトは、ただ一文だけを“指定”した。 ――権限の委譲。 都市OSの最深部。 神のコードへのアクセス権を、特定の個人から切り離す。 代わりに――街に生きる、無数の“匿名”へ分散する。

「制御不能だ!」 「惜しいな」 別の五福星が、感情のこもらない声で呟いた。 「あれほど従順で、優秀な娘だったのに」

「そうだ。だから、誰のものでもない」 ミコトは、微笑んだ。 光が、収束する。 巻物は、ただの紙に戻った。

祈り姫は、祈りをやめなかった――それが、妹に触れられる唯一の行為だったから。 その瞬間、街のあちこちで、小さな変化が起きる。 配給システムが、止まらない。 人々が、“判断”を取り戻す。 その混乱は、管理する側にとっても、想定外だった。

マーラは、膝をついた。 「あなたは……」 「奪ったわけじゃない。押し付けただけ。選ぶ責任を」 マーラの瞳に、涙が滲む。 「姉様は……それを、恐れていた」 「なら、向き合う時だ」

マーラが最後に呟く。 「……それでも、祈るわ」

遠くで、警報が鳴り響く。 制御を失った五福星の部隊が、混乱している。 「行くよ、こばと」 ミコトは振り返る。 少年は、驚いたように目を見開いていた。 「……見なくて、よかった」 「うん。未来は、これからだ」

二人は、崩れた通路を抜ける。 背後で、世界が少しだけ、音を立てて変わり始めていた。 その瞬間、祈り姫は、妹が自分を守るために遠ざかったのだと理解した。

「マーラ!!そいつらを捕まえろ!!」 通信モニターから支配者の声が響く。 男は胸のペンダントを握りしめて叫ぶ。 「何やっているんだ?早く捕まえろ!!」 以前の世界が愚民たちに自由というエサを与えたばかりに、暴動に巻き込まれて死んだ娘。

群衆と自由は絶対に結び付けてはならない。それはもはや彼の心の中にある強烈な信仰であった。「マーラ!!そいつらに自由を与えるな!!」

もはや彼の声はマーラにとっての天啓ではなかった。彼にとっても彼女は亡くした娘の代わりではなくなっていた。 マーラは、最後に一度だけ振り返った。そこに姉はいないと、分かっていながら。

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第七章:再起動後の街

夜明け前の街は、妙に静かだった。 監視ドローンの巡回が、半分ほど消え、警報も鳴っていない。 代わりに聞こえるのは、人の声だ。 怒鳴り声。 笑い声。 泣き声。 雑多で、統一されていない。

「……うるさいな」 ミコトは、瓦礫の上に腰を下ろした。 「でも、生きてる音だよ」 隣で、こばとが言う。

街は、まだ混乱している。 配給所には列ができ、一部の区画では、早くも争いが起きていた。 五福星の支配は、崩れた。 だが、秩序が生まれたわけではない。

「……責任を、投げた気はするな」 ミコトは、誰にともなく言った。 「うん。でも、ミコトが持ち続けるよりは、マシ」 「そう?」 「だって。ミコトが全部決めたら、ミコトが壊れる」

その言葉に、ミコトは何も返せなかった。 遠くで火の手が上がる。 「……救えなかったね」 「全部はね。選ばなかった未来より、選べる未来の方が、たぶん……いいと思う」

ミコトは、息を吐いた。 「これから、どうする?」 こばとが問う。 ミコトは、自分の手を見る。 かつて、荷を運ぶためだけの手だった。

「街を出る。追われるだろうし、ここにいれば、利用される」 「じゃあ。ぼくも、ついてく」 ミコトは、即答しなかった。 「契約は終わった」 「うん」 「私は、運び屋でもない」 「知ってる。だから、契約じゃない」

ミコトは、空を見上げた。 薄く白み始めた空。 どこかに、まだドローンが残っているかもしれない。 「……厄介だな」 「今さら」 ミコトは小さく笑った。

「行き先は?」 「決めてない」 「いいね」 こばとは、嬉しそうだった。

二人は、瓦礫を降りる。 背中は、驚くほど軽い。 巻物は、もうない。 それでも、背中は空っぽじゃなかった。

「ねえ、ミコト。次は、何を運ぶの?」 ミコトは、少し考えた。 「……選択肢、かな」 こばとは、満足そうに頷いた。

ミコトは少し引きつった笑顔を、こばとに見せずに言った。 朝日が、街の端から差し込む。 判断は、正しかった。 ただ、それが届く場所が、もう残っていなかった。 壊れた世界は、まだ壊れたままだ。 それでも、歩くことはできた。

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エピローグ

街を離れて、三日目。 舗装の剥げた旧道を、二人は歩いていた。 標識は倒れ、地図も役に立たない。 「ねえ。ここ、どこ?」 「知らない」 ミコトは即答した。 それでいい。

風が吹く。 乾いた匂いの中に、かすかに草の匂いが混じっている。 そして、その草に引っ掛かっていた小鳥を逃がしてあげた。 遠くで、何かが崩れる音がした。 振り返らない。

「ミコト。もしさ、また正しいことを押しつけられたら、どうする?」 ミコトは、少しだけ歩調を落とした。 「……運ばない。選ばせる」

こばとは、満足そうに笑った。 道は、まだ先が見えない。 だが、足は止まらない。 背中に、重さはない。 それでも、何かを背負っている気がした。 それは、名前のつかない責任。 そして、手放さないかもしれないものだった。

空は、静かに晴れていた。 祈り姫は、名もない空を見上げ、妹がまだ歩いていると信じることだけをやめなかった。 ミコトは少し足を止めた。 こばとが言った。 「ずっとこんな空だったらいいのにね」 「ああ」


(完)

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ミコト ―運命への反逆― 灯籠小四郎 @g6kt

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