第一話 十億の狂気②
週明けの月曜日。僕は這うようにして、都心にあるメガバンクの旗艦店を訪れた。
ビジネス街のど真ん中、聳え立つ石造りの建物は、それ自体が巨大な金庫のように冷淡で、僕のような小市民を拒絶しているように見えた。
一睡もできずに迎えた朝、鏡に映った自分は、三十二歳の若さにして十歳は老け込み、目の下にはどす黒い隈が張り付いていた。
懐には、湿った手のひらで何度も確認したあの「紙切れ」がある。
これさえなければ、僕は今頃、上司の機嫌を伺いながらキーボードを叩いていただくだけの、安全で退屈な歯車の一部でいられたはずだった。
「あの……当選金の受け取りに……」
総合受付の女性に声をかける。その声は自分でも驚くほど震えていた。
女性は一瞬、僕の煤けたスーツと、血走った目に視線を走らせた。その刹那、彼女の瞳の中に宿ったのは、軽蔑でも不審でもない。もっと無機質な、獲物の重さを測るような「鑑定」の光だった。
「……左様でございますか。少々お待ちくださいませ」
彼女はマイクを切り、低く、しかし緊迫した様子で誰かと連絡を取った。
数分後。ロビーの奥から、見るからに仕立ての良いスーツを着た男が現れた。一般の客が並ぶカウンターを素通りし、彼は僕の目の前で、直角に近い深い辞儀をした。
「佐藤様でいらっしゃいますね。副支店長の神崎と申します。さあ、こちらへ」
案内されたのは、ロビーの喧騒が嘘のように遮断された、重厚な扉の向こう側だった。
そこは「銀行」という公共の場所の概念を逸脱していた。足首まで沈み込むような真紅の絨毯、壁に掛けられた抽象画、そして室温すらも精密に管理された「特別応接室」。
革張りのソファに腰を下ろすと、ほどなくして、繊細な金縁のカップに入った珈琲が運ばれてきた。安物の紙コップで飲むインスタントとは、色も、香りも、何より「格」が違った。
「佐藤様、まずは心よりお祝い申し上げます」
神崎と名乗る男は、椅子から浮き上がるような慇懃さで話し始めた。だが、その微笑みは完璧すぎて、どこか爬虫類を思わせる冷たさを孕んでいる。
彼は僕が差し出した当選くじを、まるで聖遺物でも扱うかのような手つきで確認し、手元のタブレットに入力した。
一、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇。
画面に表示された数字は、もはや現実感を伴わない記号の羅列だ。
「これより手続きに入りますが……佐藤様、これだけは覚えておいていただきたいのです。今日この瞬間から、佐藤様の周囲には、驚くほど多くの『不幸な人々』が現れます」
神崎のトーンが、一段低くなった。慇懃さはそのままに、言葉の端々に鋭い棘が混ざり始める。
「親戚、同級生、かつての友人……。彼らは皆、驚くほど独創的な絶望を抱えて、佐藤様の善意に縋りに来るでしょう。
ですが、お忘れなきよう。
彼らが求めているのは佐藤様の救済ではなく、その背後にあるこの『数字』です。彼らはあなたを愛しているのではない。あなたの持つ『万能の鍵』を欲しているだけなのです」
そう言って、彼は一冊の薄い小冊子を差し出した。
『【その日】から読む本』。
表紙は淡いパステルカラーで彩られているが、その内容は凄惨だった。大金を手にしたことで破滅した人間の末路。身内からの訴訟。詐欺。そして、孤独死。
神崎の目は、僕に警告しているのではない。
「お前のような持たざる者が、この化け物を制御できるのか?」と、嘲笑っているように見えた。
彼自身の慇懃な態度すらも、僕という人間ではなく、僕の通帳に刻まれる「10億」という神殿に向けられた礼拝に過ぎないのだ。
僕は珈琲に口をつけた。
最高級の豆のはずなのに、舌の上に残るのは泥のような苦味だけだった。
自分が「幸運の主」ではなく、巨大な肉塊を背負わされた「獲物」になったことを、僕は骨の髄まで理解した。
この聖域のような静寂の部屋は、僕を守るための場所ではない。僕がこれから直面する、終わりなき「狩り」の幕開けを告げる宣告の場だったのだ。
手続きを終え、銀行を出る。
背後で重厚な自動ドアが閉まる音がした。それは、僕が二度と、無邪気に他人を信じられた平穏な世界には戻れないことを告げる、冷酷なシャッターの音だった。
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