地獄の沙汰も金次第

第一話 十億の狂気

第一話 十億の狂気①

 湿ったアスファルトを、何千もの足音が叩いている。

 十二月の金曜日。忘年会シーズンの熱を孕んだ夜気は、安っぽい油の匂いとアルコール、そして誰かの吐瀉物の臭いが混ざり合い、どんよりと濁っていた。

 僕はその濁流に肩をすくめて紛れ、どこにでもある量販店のスーツに身を包んで、死んだ魚のような目で家路を急いでいた。


「佐藤、お前さ。やる気あるの?」


 耳の奥で、数時間前の部長の怒号がリフレインしている。

 原因は、僕の監督不足だとされた。新人の部下が作成した見積書の、たった一箇所の桁の間違い。それを僕が修正しなかったから、会社に損害を与えかけたのだという。


 だが、事実は違う。その資料は、部長自身が「俺がチェックするから置いておけ」と僕の手元から奪い去ったものだった。

 僕はただ、彼のデスクの横で直立不動になり、真っ赤な顔をして飛沫を飛ばす男の唾液が、自分の頬に付着するのを耐えていた。


「……申し訳ありません」


 心の中に澱のように溜まった言葉を、機械的に吐き出す。自尊心を一グラムずつ切り売りして、僕は月々二十数万円の給与を購っている。この安いプライドこそが、僕という人間を社会に繋ぎ止める唯一の枷だった。


 駅前のロータリー。宝くじ売り場の煤けたアクリル板が、街路灯の青白い光を反射している。

 普段なら、そんな射幸心を煽るだけの場所に興味は持たない。汗水垂らして働いても報われないのに、ただの紙切れが人生を変えるなど、地道に生きる人間を馬鹿にしている。そう思っていたはずだった。


 けれど、その時の僕は、どうしようもなく摩耗していた。

 部長の顔、部下の言い訳、家賃の引き落とし、あと五十年続くであろうこの薄暗い生活。それらすべてから、一瞬でもいいから逃げ出したかった。


「……連番で。十枚」


 窓口にいた老婆の、乾燥して節くれ立った指先が、僕の差し出した三千円を素早く回収する。渡されたのは、ただの薄っぺらな紙の束だ。三千円あれば、近所の定食屋で何度腹を満たせただろうか。僕はすぐに後悔し、その紙切れを鞄のポケットに放り込んだ。


 三日後。僕は再び、その駅前に立っていた。

 当選番号の発表日。期待などしていなかった。ただ、外れたことを確認して、「やっぱり僕の人生はこんなもんだ」という諦めの根拠を手に入れたかっただけなのかもしれない。

 掲示板に並ぶ数字を、スマホの画面に映る自分のくじと照らし合わせる。


 ……一等、九二組、一四二二〇五番。


 心臓が、一拍だけ止まった。

 視界が、急激に狭窄していく。周囲の喧騒が遠のき、世界から音が消えた。

 もう一度見る。


 九二組。一四二二〇五。


 手の中の紙切れ。一四二二〇四、一四二二〇五、一四二二〇六……。

 一等、そして前後賞。


 十億円


 その瞬間、僕を襲ったのは歓喜ではなかった。

 それは、喉元を鋭利なナイフで撫でられるような、冷たくて硬質な「恐怖」だった。

 全身の毛穴が開き、脂汗が滲み出す。足の先から感覚が消失し、自分が立っている地面が泥沼のように崩れていくような錯覚に陥る。


(見られたか?)


 真っ先に浮かんだのは、それだった。

 僕は周囲を見回した。隣で新聞を読んでいる老人、スマホをいじる学生、談笑するOL。彼ら全員が、突然、牙を隠した猛獣に見えた。彼らはまだ知らない。このみすぼらしいサラリーマンの、湿った手のひらの中に、彼らが一生かけても手に入らない「十億円」という名の爆弾が握られていることを。


 僕は逃げるように歩き出した。

 足がもつれ、転びそうになる。

 鞄を、折れそうなほど強く抱きしめる。


 さっきまで僕を蔑んでいた部長の顔が脳裏をよぎる。……ああ、あの男はもう、僕にとっては何の価値もない。この紙切れ一枚で、僕はあの男の人生を何十回分も買い取れる。

 だが、その全能感は、すぐに底知れない不安に塗りつぶされた。

 この紙を落としたら? 誰かに襲われたら? 家が火事になったら?

 十億円を手に入れた瞬間、僕は世界中のすべてを疑い、拒絶する一匹の「獲物」へと成り下がっていた。


 夜の闇が、今まで以上に深く、重く僕にのしかかる。

 駅のホームへ降りる階段で、背後から誰かの足音が聞こえるたびに、僕は心臓を鷲掴みにされるような衝撃を覚えた。

 地獄の沙汰も金次第——。

 その言葉が、耳の奥で呪文のように反芻される。

 救いを得たはずの僕は、その実、今日この瞬間に、誰一人信じることができない孤独な地獄の入り口に立っていたのだ。

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