第10話:開かれた扉、満ちる生命
第10話:開かれた扉、満ちる生命
王都の空は、抜けるような青に染まっていた。 かつて街を覆い尽くしていた灰色の「無気力の霧」は跡形もなく消え去り、今や地上には、一万、十万という拠点が放つ清冽な魔力の光が、心地よい波となって満ちている。
格闘聖区、『ミナの不撓道場』。 その入り口には、もはや鉄格子の門も、監視官が居座る重苦しい受付カウンターも存在しない。 ただ、透明な光の膜が揺らめき、人々が通り過ぎるたびに「ピッ」という、風鈴のように涼やかな音を立てるだけだ。
「ハスダさん、見てよ! 今日は辺境の『蒼天閣』の連中と、月面のセラちゃんたち、それに王都の新人たちが合同で稽古(セッション)してるんだ!」
ギルが、汗を拭いながら最新型のホログラム・プロジェクターを指差した。 道場の中央には、実体と見紛うばかりの光の像が並び、数千キロの距離を超えて、共に拳を振り、共に汗を流している。
かつてインクの臭いと苛立ちに支配されていたこの場所は、今や世界で最も密度の高い「ウェルビーイングの震源地」となっていた。
ハスダは、道場の隅にある小さな木製の食卓に座り、その光景を眺めていた。 彼の体には、あの最終決戦で負った魔力火傷の痕が微かに残っている。だが、その表情は、かつて資産の数字だけを追っていた頃には見せなかった、深い凪のような平穏に満ちていた。
「……お待たせ、ハスダ。今日のメインディッシュよ」
ミナが、湯気の立つ大皿を抱えてやってきた。 彼女の拳は相変わらず硬く、武闘家としての誇りに満ちているが、その眼差しは、事務作業の鎖から解き放たれて以来、驚くほど柔らかくなっている。
「……九膳のお箸。今日も、ちゃんと揃っているね」 ハスダは、テーブルの上に並んだ木製のお箸を一本ずつ指でなぞった。 滑らかな木の感触、少しだけ不揃いな削り跡。それは、システムという冷徹な論理の先に彼が求めた、究極の「体温」だった。
「当たり前じゃない。一人でも欠けたら、私たちの『ハコモノ』は完成しないんだから」 ミナが椅子を引き、仲間たちが次々と食卓を囲む。
ギルが、恵が、かつてのエンジニアたちが、そして月の向こうから通信で参加するセラが。 「いただきます」の声が重なり、工場兼道場の高い天井へと抜けていった。
「……ねえ、ハスダ」 ミナが、大根の煮物を口に運びながら、ふと窓の外を見た。 「世界中で、扉が滑らかに開くようになった。手続きに殺される人も、場所のせいで夢を諦める人もいなくなった。……あなたは本当に、伝説の『解放者』になったのね」
ハスダは、手元の一膳のお箸をじっと見つめ、ゆっくりと首を振った。 「伝説なんて、そんな大層なものじゃないよ、ミナさん」
彼は、お箸で丁寧に料理を挟み、隣の席で不器用そうにしている新人の皿へと分けてやった。
「魔法は一瞬の奇跡を起こすけれど、それはいつか消えてしまう。僕がやりたかったのは、奇跡を起こすことじゃない。『不便』という名の摩擦をなくして、誰もが、呼吸をするのと同じくらい当たり前に、健やかになれる道筋(インフラ)を作ることだった」
ハスダは、窓の外で軽やかにステップを踏む子供たちを見た。 「特別な魔法じゃない。扉が開く。人が笑う。お箸を並べて、温かい飯を食う。……この、退屈なほど平和で滑らかな日常こそが、僕たちが勝ち取った『最強の魔導式』なんだ」
「……退屈なほど、平和、か。最高の褒め言葉ね」 ミナが笑い、自分のコップをハスダのそれに軽くぶつけた。 カラン、という氷の音が、心地よく響く。
五感に届くのは、かつてのインクの悪臭ではなく、出汁の香りと、弾けるような笑い声。 感情を揺さぶるのは、数字の増減ではなく、隣にいる仲間の肌の熱。
ハスダは、最後の一口を噛みしめ、深く息を吐き出した。 脳を焼き切るような演算の果てに見つけた答えは、案外、この小さな食卓の中にすべて詰まっていた。
「……さあ。明日はどの『ハコ』の扉を滑らかにしに行こうか」
ハスダが立ち上がると、仲間たちが一斉に顔を上げた。 「どこへでもついていくよ、社長!」 「次は、海の向こうの道場を繋ぎましょう!」
事務の鎖は、もうどこにもない。 開かれた扉の向こうには、無限に広がる可能性の青空が待っている。 一膳のお箸から始まった革命は、今や世界という名の巨大なハコを、眩いばかりの生命力(ウェルビーイング)で満たしていた。
ハスダは、道場の入り口に立つ。 「ピッ」 軽やかな電子音が、彼を祝福するように鳴った。 それは、自由な未来への、終わりのないチェックインの音だった。
(完)
『アンチェイン・ハコモノ 〜聖域の扉を開く者〜』 春秋花壇 @mai5000jp
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