祈る人の席

@popomi1221

第1話

 鏡の前で、澪はもう一度、女優になる覚悟をほどいていた。


 それを、静は黙って見ていた。深夜の楽屋は、昼間の拍手が嘘のように静かだった。白い蛍光灯が、長い一日の疲れを隠すことなく映し出す。


「もう嫌」


 澪はクレンジングシートを放り出すように言った。


「こんな端役のオーディション、私が受ける意味なんてあるの?」


 私は、ソファに腰かけたまま、黙ってその背中を見ていた。慰めも、叱責も、今は必要ないと分かっている。


「意味がない仕事なんて、ないわ」そう言うと、澪は鏡越しにこちらを見た。


「静、きれいごとよ」


「いいえ、現実よ」


 澪は小さく笑ったが、その笑みはどこか崩れそうだった。


 私はそれを見て、胸の奥が静かに締めつけられる。


 ――この人は、立つことをやめない。


 それだけで、十分なのに。


――


 あの頃の私は、まだ、祈り方を知らなかった。  義母の介護は、終わりの見えない坂道だった。認知症が進むにつれ、私は嫁ではなくなった。


 名前も、顔も、意味を持たなくなり、罵声だけが残った。「出ていけ」 「盗人」 「知らない人」毎日、少しずつ心が削れていった。


 そんな義母が、唯一、穏やかな顔を見せる時間があった。


 テレビに映る、白星歌劇団の舞台。 そのときだけ、義母の目に、昔の光が戻った。絢爛な衣装、凛とした所作、完璧に整えられた世界。


 画面の隅に、文字が浮かぶ。――私たちは、祈るように立つ。


 義母は、その言葉をなぞるように、静かに頷いた。


 その日、私は一人の団員から目を離せなくなった。


 白い星を背負うように立つ、澪。


 その人だけ、舞台の奥から、こちらを見返してきた気がした。必死に役を生きるその姿は、華やかさよりも、祈りに近かった。


 ――逃げていない。そう思った。


 それから私は、介護を「耐える」だけでなく、「やり抜く」ようになった。  次の舞台を、次の澪を、観るために。


――


 義母を看取ったあと、家は驚くほど静かだった。


 夫は「大変だったな」と言い、日常へ戻った。娘もまた、同じだった。


 私は気づいてしまった。一番苦しかった場所に、誰も立っていなかったことに。


 だから私は、劇場へ通った。ファンの世界は厳しかった。立ち位置、言葉遣い、暗黙の序列。


 それでもよかった。祈る場所が、そこにあったから。


 出待ちの日。「……いつも、ありがとうございます」澪が、そう言った。


 それだけで、世界が少し傾いた。


 気づけば私は、拍手を送る側ではなくなっていた。


――


 澪はトップスターになり、そして退団を決めた。「女優になるの。 静、住み込みで、マネージャーをやってくれない?」私は迷わなかった。


 夫と娘を置いて、彼女の隣に立つことを選んだ。


 小さなプロダクション。仕事は少なく、条件も厳しかった。私は走った。頭を下げ、電話をかけ、断られ続けた。それでも、少しずつ、道はできた。


――


「ねえ」澪が言う。「どうして、私を見捨てなかったの?」


 私は少し考えてから、答えた。「私にとって、あなたは神様だから」


 澪は苦笑した。「劇団時代は華やかだった。でも今は……」


「ずっと華やかでいられる人はいないわ」私は続ける。


「あなたは、誰かの希望になれる人。私はね、一生ぶんの幸せを、もうもらってる」


「それで、恩返し?」


「ええ」


 私は微笑んだ。


「南の国の神様はね、ふだんは物乞いみたいに生きてる。神様がするのは、祈ることだけなの」


 澪が笑った。「私、そんな神様?」


「そう。応援したくなる神様」二人で笑った。


――


 私は今日も、祈るように、彼女の隣に立つ。

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