境界の旋律

@REDDAY

境界の旋律

人間は不要になったわけではない。


むしろ必要とされすぎた。子を生み、予測不能な思考を生み出す存在として、彼らは管理され、隔離され、保護という名のもとに収容されている。世界の意思決定は、統合管理用アンドロイド群によって最適化されている。タンパク質の供給源であり、新しい学習パターンの発生装置でもある以上、完全な排除は非合理だ。亡命とは処分ではなく、配置換えに近い。


亡命の支援は、特別な仕事ではない。必要な書類をそろえ、移動経路を確認し、決められた時間に境界線を越える。それだけだ。今回の対象は少女が一人。年齢は把握しているが、名前は記録しない。記録は追跡を生む。荷物は最小限、連絡は最低限、感情は不要。夜明け前に出発し、夜明け前に引き渡す。その間に起きることは、すべて想定内に収める。例外が起きた場合の対処法も、すでに用意してある。


待ち合わせ場所には、すでに少女がいた。指定された年齢層より小柄で、体表の登録タグも削られている。視線は落ち着いていて、怯えは少ない。訓練か、慣れか、その両方だろう。


移動開始時刻を告げ、歩き出す準備をする。

少女は一度だけ私の顔を見上げ、確認するように言った。


「……呼吸、してないよね」


私は答えず、端末を確認する。

「登録名、相違なし。目的地は北側管理外区域。里親への引き渡しまで同行する」


少女はそれ以上、何も言わなかった。


国境線は、線としては存在していない。管理区域の外縁に広がるのは、深い森と、その奥を流れる一本の川だけだ。舗装路は途切れ、通信強度が段階的に低下していく。樹冠が重なり、空は細く切り取られる。ここから先は、監視の密度が落ちる代わりに、自分の足で進むしかない。


川幅は狭いが、水は冷たい。流れに逆らうと、体温を奪われる。渡河点を選び、少女に合図する。浅瀬を選び、足を置く位置だけを指示する。水音が大きくなるにつれ、都市側のノイズは完全に消えた。


対岸に上がった瞬間、通信が切れる。管理区域は、そこで終わる。境界を示す標識も、警告もない。ただ、こちら側には名前のない空気があり、戻る理由も存在しない。


携帯音楽プレーヤーが、一度だけ沈黙した。再生表示は出ているが、旋律は途切れがちだ。通信強度が境界値を下回っている。ここでは、管理側の網も、こちらの補助も、どちらも不完全になる。


歩行を続けながら再接続を試みる。少女が振り返りかけたので、視線だけで制した。その瞬間、背後の森で枝が折れる音がした。


少女の歩調が乱れる。

呼吸が浅くなり、袖をつかむ力が一段だけ強くなる。声は出ない。恐怖は言葉より先に、身体に現れる。


「止まらない。ここで立ち止まると、見つかる」


少女は短く息を吸い、袖を放した。歩調を戻す。それで十分だった。


視認まで、数秒。

携帯音楽プレーヤーを取り出し、手動で再起動をかける。通信経路を固定し、外部同期を切る。本来は推奨されない操作だ。


旋律が、断片的に立ち上がる。

途切れ、戻り、また途切れる。それでも再生は続いている。


次の瞬間まで、警備の足音は確かにそこにあった。

だが、旋律が一節を越えたところで、それは急に遠ざかった。正確には、距離情報が消えた。追跡が解除されたのか、認識されなくなったのか、判別はできない。


理由の検証は不要だ。

音楽は流れている。移動は継続可能。

それで、この工程は成立している。


管理外区域には、簡易的な居住ユニットが点在していた。指定された建屋の前で足を止める。

扉を開けたのは、成人女性型のアンドロイドだった。外装は簡素で、管理識別も最低限に抑えられている。


「引き渡し対象を確認する」


里親は少女を一度見て、うなずいた。

「登録を更新する。ここからは私が管理する」


少女は私ではなく、里親のほうを見た。視線が合う。里親は、ほんのわずかに首を傾ける。模倣された仕草だが、動作は正確だった。


手続きを完了し、端末を閉じる。

音楽は、まだ流れている。


次の目的地を確認する。方角が違う。文化圏も異なる。

この先では、この旋律は不要になる。


停止操作に指をかけ、一拍だけ待つ。

旋律は、変わらず続いている。


理由を記録する必要はない。

音楽を止め、歩き出す。次の工程へ移行する。


背後で、扉が閉じる音がした。


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