万年C級冒険者は、世界の歪を観測する

小下ルリ茶

第1章 万年C級の、死なない一日

第1-1話 二十五年間、致命傷なし


 ヴェルンは二十五年間、冒険者として生き延びてきた。

 致命傷を受けたことは一度もない。

 

 ヴェルンは苦笑しながら、初級魔法の火種を点した。マッチの火のような、吹けば消えるほど小さな灯火。

 冒険者ギルドの指定宿舎。その安部屋の窓際で、ヴェルンは寝癖のついた頭をぼりぼりと掻きながら、木杯に注いだ白湯を一口すすった。


「……あー、腰が痛い。やっぱり安物のベッド、おじさんの体には堪えるねぇ」


 御年四十。冒険者としては、とっくに引き際を考えるべき年齢だ。窓から差し込む朝日は目に痛く、口から漏れる独り言にはやる気の欠片も感じられない。

 ヴェルンはふぅと一息つくと、手元の木杯に視線を落とした。そこにあるのは、ただの白湯だ。だが、彼が指先を水面にそっとかざすと、室内を流れる空気が微かに、本当に微かに震えた。


「さてと。……よいしょ」


 意識を沈め、世界から流れてくる情報を受け取る。

 自ら魔力を放つ探査ではない。ただそこに在る魔素の揺らぎに、己を同調させるだけの受動的な検知。

 水面には髪の毛一本よりも細い、幾何学的な波紋が広がっていく。その波の干渉具合を、彼はじっと見つめた。


(……北からの風に、魔素が少し混じってるね。湿度は……うん、粘り気がある。三時間後には一雨くるかな。こりゃ、東の谷へ行くのは避けたほうがよさそうだ。あそこの岩盤は湿るとすぐに機嫌を損ねるからねぇ)


 それは、教科書に載っている気象予知のような高位魔法ではない。二十五年という月日、泥にまみれ、風に吹かれ続け、世界の癖を読み取ってきた結果たどり着いた、彼独自の観察眼――魔脈感応だ。


「よし。今日の仕事は西の森で薬草摘みにしよう。おじさん、雨に濡れて風邪を引くのは御免だからね」


 方針が決まったところで、ヴェルンは朝食の固いパンを手に取った。

 せめて温めてから食べようと、彼は指先に意識を集中させる。狙うのは中位魔法火炎球。火を球状に固定し、一定の熱量を維持する、中級魔術師の登竜門とも言える魔法だ。


「……ん、んんーっ!」


 ――ボフッ。


 情けない音と共に、一筋の黒い煙が上がって消えた。パンは冷たいままで、指先が少し煤けただけだった。


「……あ、れ? おかしいなぁ。今のは絶対いけると思ったんだけど」


 火は灯らなかった。圧倒的な魔力量の不足。二十五年冒険者を続けて、彼が扱えるのは初級の基礎魔法だけだ。


「はは……まあいいか。火力なんて、若くて元気な子たちに任せればいいんだよ。おじさんは、おじさんらしく行こう」


 ヴェルンは苦笑しながら、初級魔法の火種を点した。マッチの火のような、吹けば消えるほど小さな灯火。

 だが、その瞬間、彼の瞳に職人の色が宿る。

 彼はその極小の火を、初級の風魔法で作った目に見えないほど細い空気の渦で包み込んだ。熱を逃がさず、対流を操り、一点に熱を閉じ込める。


 魔力量で劣るなら、精密さで補う。

 数分後、そこには高位の熱量計でも使ったかのように、芯まで均一に温まったパンが転がっていた。


「よし、上出来。……さーて、お仕事に行きますかね」


 パッチワークのように補強された古い革靴に足を突っ込み、ヴェルンは部屋を出た。

 今日も、死なない程度に稼ぐために。そして何より――絶対に無理をしないために。

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