名を呼ばれた竜

@SeptArc

罪を喰らう島の物語

竜は最初から世界にあった。人間が言葉を持つ前から、裁きはそこにあった。人々は竜を信仰し生きてきた。その島にも竜は居た。その島の頂点であり、その島の秩序であった。最も、罪人の島での話ではあるが。

男は名を呼ばれ、前に出た。

読む必要がないほど、皆が知っていた。

その光景は何千何万と繰り返されてきた。竜の裁きは例外なく行われ、

例外なく忘れ去られる。

それを見届けるものは、竜と、そして名もなき上位の視線だけであった。


「被告を、有罪とする。」

竜は一歩前へ出た。

男は叫ばなかった。

ただ、目を伏せた。

骨の折れる音がした。

血は残らなかった。


「皆の衆、神聖なる竜の裁きに感謝を。」


この島は狂っていた。少なくとも、世間はそう認識していた。

世界中から罪人が送られてくる裁きの島。あまり大きい島ではなかったが、ある時期に不自然に人工物が増え始め、島を広げ、海上にまで建設することで、文明に不釣り合いなほどの海上都市ができた。この島の住民は、裁判官から弁護人、市場を盛り上げる者全てが皆、罪人であった。

竜前の裁きにて晴れて無罪判決となった者は、皆戸籍と人権を一新され、島で竜を信仰し生きていく。罪人が罪人を裁く、その異様な仕組みゆえ世間からの評判はさほど良くなかった。島の周囲には船が航行できないほどの嵐が壁をなしており、出ることはできない。それゆえ都市伝説とまで言われるほど、世間にとって島の存在は、文字通り罪人のみぞ知る不確かなものであった。


「待ってくれ、違うんだ。」

男は声を張り上げた。

「盗むつもりはなかった。預かっただけだ。」

裁判員の一人が言った。

「返したのか。」

「…返すつもりだった。」

「返していない。」

判決はすぐに下った。

竜が口を開いた。

男の言葉は、その中で消えた。


竜は無機物のような生物だ。自然の産物、あるいは自然そのものに近い。

ゆえに竜に食事など必要なはずもなく。この異様な文化は一体何を契機に始まったのであろうか。竜は竜であり、神ではない。島では信仰されているが願いを叶える力など持ってはおらず、ただ機械的に、裁判官がよこした餌を喰っていた。


女は竜を見上げ、手を合わせた。

「どうか、お慈悲を。」

その言葉に誰もざわつかなかった。

ここは慈悲を求める場所ではないからだ。

判決が告げられ、

竜は首を垂れた。


それを祈りと勘違いしたまま、

女は喰われた。


この島に送られてくる時点で既に碌なことはしていない。この場所で無罪が下されることは滅多にない。ただ機械的に竜に罪人を喰わせる、事実上の処刑場になっていた。被告の個々が抱えた罪状も、事情もよく知らないまま一つの裁判が終わらされてしまうのだった。


若者は何も言わなかった。


裁判員が問いかけても、

ただ頷くだけだった。


有罪が告げられた時も表情は変わらなかった。

竜が近づいた瞬間、初めて息を吸った。


それだけだった。


島ができてからこの裁判では事実誤認や手続き上の誤り等の誤判は一度も行われていない。これほど作業のように人を裁いているのにも関わらず、この島は竜によって、あるいは民によって、正しき判決が下されてきた。

その時までは。


次に呼ばれた名は

それまでより、ずっと短かった。


「罪状、被告人は商い小屋での食物の盗みを働いた疑いがある。」


少女は何も喋らないまま、人形を手に離さず持っていた。


「少女よ、盗みを働いたか。」

「おい、相手は少女だぞ。」

「盗みは盗みだ。額の問題じゃない。法は量を見ない。」

「他にも飢えたものはいる。皆が盗み始めたら、ここは裁きの島ではなくなる。」

「…被告は、盗んだことを否定できないな。」

「否定していない。」


少女は話の意味がわからないまま、

名前が呼ばれるのを待っていた。


「有罪だ。」


竜はその首を下ろし、顎を開き少女を飲み込もうとした。

その時、竜は止まった。未曾有の異常事態に場内の時間が凍りついた。

「なんだ。何が起きている。」

「竜が、止まった。」

竜は顎を開いたまま少女を見つめた。その場にいた全員が口を開く中、やがて竜のみが顎を閉じた。そしていつものように背筋を伸ばし、少女を見つめ続けた。

会場は暫く大騒動だった。竜が裁きを下さなかった。その見出しは瞬く間に世界に広がった。

「一体どういうことだ。」

「我らの判決が間違っていたのではないか。」

裁判関係者の相関が崩れ始めた。この少女をどう扱うのか、

願いが足りなかったのか、この出来事は、島民たちに焦りと不安をもたらすことになった。


まだ騒がしい夜、竜前の間に少女が忍び込んでいた。厳重に管理されているはずだが、気づけばもう竜の眼前にいる。

竜は長い首を下ろし少女を正面から見据えた。

少女は言葉を発しなかった。代わりに人形を竜のそばに置き、その小さな手で竜の頭を撫でた。その日を境に、竜は人を見る時間を持つようになった。

それ以前にはなかったことだ。

竜は少女に紫色に輝く雷を見せてみせた。花火のように華麗に散るそれを見て少女は

「Edele」と言った。その言葉の後、劉は雷を鎮め、少女から視線を逸さなかった。

竜は少女をその巨躯に乗せ、手のひらに出した小さな嵐を見せ、大きな息を吹きかけ少女と戯れた。

少女はお礼のつもりか、竜のそばで歌い始めた。またしても聞き覚えのない歌だが、その歌が終わるまで、竜は一度も身じろぎしなかった。

その歌声に気づいた侍官たちに少女は連れて行かれてしまった。

少女は扉が閉まる最後まで笑顔で手を振ってくれていたが、

竜は少女の歌を最後まで聞くことはなかった。


竜はそれ以降全く罪人を食べなくなった。それは罪人が少女と同じ人間だからか、少女の飢餓に共感しようとしているのか。裁判所は裁判と処刑の機能を失い、島全体が不穏な雰囲気に満たされていた。

竜が飢えれば島が終わる。

竜が弱れば秩序が乱れる。

竜は飢えている。そんな噂話が流れると、島民は島の生きるもの全てを刈り尽くし、旨味の詰まった部分だけを厳選し、竜の眼前に供えた。だが竜が飢えるはずもなく。島民は島の生態系を破壊し始めた。命を刈り、大地を刈り、あらゆるものを供えた。

自分たちの食糧が無くなろうとも。


「このままでは竜が死んでしまう。」

「我らの罪は竜が執行する。」

「…それは理由にならない。」

「理由だ。あのお方が喰らうに値するかどうかだ。」

「値するか否かを決めるのは我々だ。」

「ならば聞くが、これは罪か。」

「法に照らせば、罪だ。」

「ならば、話は終わりだ。」

「それでもあれは子供だった。」

「だからこそだ。」


「…有罪。」


供物も島民も腐り始めたある日、やけに豪華な装飾の卓が用意された。

その卓は、これまでの供物とは明らかに異なっていた。

もうこの島に命の芽吹くはずもない。

「竜よ。我らの罪を裁きたまえ…。」

司祭はそう言うと、装飾の蓋をひとつづつ開け始めた。赤黒い、竜が何よりも親しく感じていたあの感覚、これは、人だ。

グラスに注がれた真っ赤な血、臓物を仕分けし綺麗に並べた皿、指や皮などの部分はスープに詰められ、奥には脳髄に乗せられた目玉…。そう、あの色には覚えがある。

竜はふとテーブルの脇を見た、そこにはかつてそのものが来ていたであろう衣服と、

あの人形…。


その瞬間、嵐が島を覆った。それが何を意味するかを島民は知らなかった。

島民は千年知らなかったであろう災厄を呼び覚ました。

その後竜が再び罪人を喰らうことはなかった。忘れられし島の頂点捕食者は、島民が枯らした大地の上で王になった。その島には永遠に花のような落雷と何物も寄せ付けない嵐が渦巻くであろう。この先何千年もの間。


竜が罪を喰らわなくなった日、

人々は初めて自分たちの飢えを知った。

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