貴族令嬢に憑依したけど体を返そうと思う

日ノ 九鳥

第1話

 意識が浮上する。


 最初に感じたのは違和感だった。体の感覚がおかしい。まるで別人の肉体を着せられたような、そんな異質な感覚。


 瞼を開ける。


「……これは」


 驚愕が全身を貫いた。


 天井が違う。六畳一間のアパート、ちょっと顔に見えるようなシミがついた天井板ではない――今目の前にあるのは、豪奢な天蓋だ。金糸の刺繍。絹の布。まるで貴族の寝室だ。


 いや、それよりも。


「この声……」


 自分の声じゃない。高く、澄んでいて明らかに女性のもの。


 慌てて身を起こせば、金色の長髪が視界を覆った。細く白い腕。膨らんだ胸元。


 全身が女だ。


 パニックになりかけた僕は、部屋の隅の姿見に駆け寄った。


 鏡に映るのは――少女。


 金髪碧眼。完璧に整った顔立ち。絹のナイトガウンをまとった、絵画から抜け出したような令嬢。


『……あなた、一体誰?』


 頭の中に声が響いた。


 外からではない。脳内に直接流れ込んでくるような、不思議な感覚。


「うわっ!」


 思わず声を上げた僕に、その声は続ける。


『私の体を勝手に動かさないで。あなた、何者なの』


「お、俺は……ケイ。ケイっていうんだ。お前は?」


『クラリス・フォン・アルトハイム。この屋敷の主、アルトハイム侯爵の娘よ』


 貴族令嬢。この体の本来の持ち主。


「何が起きてるんだ……なんで俺がお前の体に……」


『それは私が聞きたいわ。目覚めたら体が言うことを聞かなくて、意識だけが閉じ込められていた。誰かが私を操っている。それがあなただったのね』


 憑依。異世界転生。そんな荒唐無稽な言葉が頭をよぎる。


 だが、この状況を説明する他の言葉が見つからない。


「俺、元の世界には戻れるのか……?」


『元の世界?』


「俺が生きてるのはこの世界じゃない。気づいたらここにいた」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、クラリスの声が柔らかくなる。


『……分かったわ。あなたも被害者なのね。私もどうすればいいか分からない。でも、このままじゃどうにもならないわ』


「そうだな……」


『協力しましょう。解決策が見つかるまで』


「本当にいいのか?」


『他に選択肢がないもの』


 クラリスは少し笑ったように思えた。


『ただし、私の言う通りに動いてちょうだい。貴族の令嬢を演じるのは、そう簡単じゃないんだから』


 こうして、奇妙な二人三脚が始まった。




 

 令嬢の日常は、想像以上に過酷だった。


 朝、侍女のマリアに起こされる。


「おはようございます、クラリス様」


「あ、おはよ……」


『ダメ!「おはようございます」って丁寧に言って!』


 クラリスの声が頭の中で叫ぶ。


「……おはようございます」


 慌てて言い直す。マリアは少し首を傾げたが、すぐに朝の支度を始めた。


 着替え、化粧、髪のセット。全て侍女任せ。僕はマネキンのように座っているだけ。ここまで何かを人任せにする経験は子供のころ以来でどこかむず痒い。


『午前中はピアノの稽古があるわ』


「ピアノ? 弾けないぞ」


『私が指示を出す。あなたは言われた通りに指を動かして』


 信じられない方法だが、実際にやってみると――できた。クラリスの指示通りに動かせば、指が勝手に鍵盤を叩く。ぎこちないが何とか形にはなっている。指が覚えているのだろうか。


 昼食後は刺繍。夕方は社交文書の作成。夕食後は読書。


 全てに作法があり、全てに意味があった。


 そして三日目。


「クラリス様、ルシウス様がお見えです」


 マリアの報告に頭に響くクラリスの声が緊張する。


『婚約者よ。宮廷魔導士のルシウス・ヴァレンティノ。気をつけて』


 応接室に入ると、黒髪の青年が立ち上がった。眼鏡をかけた知的な顔立ち。穏やかだがどこか威厳のある雰囲気。


「クラリス、久しぶりだね」


 彼は僕の手を取り、紳士的に口づけをした。


『笑って。自然に』


 クラリスの指示に従い、男に口づけされて引きつりかけた頬を動かし微笑んだ。


「お久しぶりです、ルシウス様」


「君は本当に美しい。会うたびにそう思うよ」


『お礼を言って』


「ありがとうございます」


 会話は滞りなく進んだ。ルシウスは何も気づいていない様子だった。


 彼が帰った後、僕は尋ねた。


「ルシウスって人、好きなのか?」


『尊敬はしているわ。優秀な人だし、人格者でもある』


「でも?」


『……愛してはいないわね。そんなものよ、貴族の婚姻なんて』


 その声には、どこか諦めのようなものが混じっていた。



 


 日が経つにつれ、僕はクラリスの生活に馴染んでいった。


 最初は苦痛だった貴族の作法も、クラリスの的確な指示のおかげで自然にこなせるようになる。周囲の人間も、僕の演技を疑わない。


 何よりクラリスとの会話は楽しかった。


 彼女は頭が良く、時に毒舌で、でも根は優しい。貴族社会の裏側を面白おかしく解説してくれたり、夜には他愛もない話をしたり。


 孤独じゃなかった。いつも彼女が隣にいた。


 ある晩、ベッドに横たわっているとクラリスが問いかけてきた。


『ケイ、元の世界ではどんな人生を送っていたの?』


「平凡な学生だったよ。特に語ることもない、本当に普通の学生」


『今は全然違う暮らしをしているわね』


「ああ。正直、疲れるよ」


『ごめんなさい。巻き込んでしまって』


「謝ることじゃないだろ。お前も被害者なんだから」


 少しの間が空いた。


『……ケイ。もし元の世界に戻れるとしたら、あなたは戻りたい?』


「そりゃね。ここは俺の居場所じゃないから」


『……そうよね』


 クラリスの声が沈んだ。



 


 三ヶ月が過ぎた。


 クラリスの知識を頼りに書物を調べたが、解決の糸口は見つからない。正直言って手詰まりだった。


『……ルシウスに頼みましょう』


 クラリスが提案した。


「あの婚約者に?」


『彼は王国でも優秀な魔導士よ。こういった問題について尋ねるなら適任よ』


「でも、信じてくれるか?」


『彼なら大丈夫よ』


 僕は頷いた。



 


 ルシウスを応接室に招き、全てを打ち明けた。


 憑依のこと。クラリスが閉じ込められていること。三ヶ月間の協力。


 彼は静かに聞いていた。


「俄かには信じがたい……が、君がこんな嘘をつく理由もないな」


「証明できます。魂を視る魔術を使ってください」


 クラリスに教えられた言葉を口にすると、ルシウスの表情が変わった。


「その術を知っているのか……」


 彼は杖を取り出し、古代語で詠唱を始めた。


 光が僕を包む。


 ルシウスの目が驚愕に見開かれた。


「信じられない……二つの魂が重なっている。本当に憑依が……」


 彼は杖を下ろし、深く息をついた。


「……解決策は、ある」


「本当ですか!」


「ホムンクルス――人造人間を作る。禁忌の術だが、これは緊急事態だ。ケイ……だったね。君の魂をホムンクルスに移せば、クラリスは自分の体を取り戻せる」


『ホムンクルス……』


 クラリスが呟く。


「一週間時間をくれ。準備する」


「お願いします」


 希望が見えた。


 だが同時に、胸が締め付けられた。


 クラリスと別れることになる。どうやら俺は思ったよりこの共同生活を楽しんでいたらしい。



 


 一週間後、王宮の研究室に呼ばれた。


 水槽の中に人が浮かんでいる。


「これがホムンクルス、君の魂を移す素体だよ」


 近づいて見ると――女性の体だった。


「……女性、なんですね」


「ああ。男性の体というのは女性の体を発展させたもので、用意するのが難しくてね。申し訳ないがこれでやるしかない」


 僕は水槽から出されて台の上に置かれる素体を眺める。


 ホムンクルスに魂を移す。解決策を聞いた時点で元の世界には帰れないことは察していた。どうせこの世界で生きるつもりはない。今更性別など、どうでもいい。


「構いません。始めてください」


『ケイ……』


 クラリスの声が切なげだったが、僕は無視した。


 魔法陣の上に立つ。それを確認したルシウスの詠唱が響く。


 光が弾ける。


 魂が引き裂かれる感覚なのだろうか。体の内側から外側へ、無理やり引っ張り出される。


『ケイ!』


 脳内のクラリスの叫びが遠ざかっていく。


「クラリス!」


 僕も叫んだが、声は届かない。


 次の瞬間、冷たい感覚。目を開けると天井が見えた。


 濡れた体。細い腕。長い髪。


 女だ。ただしクラリスのとは違う体。


「……成功したのか」


「ケイ?」


 振り返ると、クラリスが立っていた。


 自分の体を取り戻した、本物のクラリス。


「ケイ!」


 彼女は駆け寄って僕を抱きしめた。


「ありがとう……本当にありがとう……」


 泣いている。


「よかったな、クラリス」


 僕は笑いかける。……上手く笑えていただろうか。


 彼女の声は、頭の中に響かない。もう、いつも隣にいてくれるわけじゃない。


 その喪失感が、胸を引き裂いた。



 


 クラリスが侯爵に全てを説明した。憑依のこと、三ヶ月間の協力、そして僕が恩人であること。


 侯爵は驚愕したが娘の言葉を信じた。そして僕を客分として迎え入れることを決めた。


 個室、侍女、食事――全て用意された。


 でも、心は空っぽだった。


「ケイ、散歩に行きましょう」


「ケイ、この本一緒に読まない?」


 クラリスは脳内で会話するのみだった俺と実際に触れあえるのが楽しいのか、毎日訪ねてきた。


 彼女との触れ合いは楽しい。けれど生きる理由がない。元の世界には戻れない。この世界に居場所はない。そんな気持ちが無くならない。


 ……かねてより決めていた。クラリスに体を返したら全て終わりにすると。



 


 月明かりの下、僕は一人部屋にいた。


 机の上のナイフを手に取る。


「これで、終わりだな」


 元の世界には戻れない。この世界で生きる意味もない。


 ……きっとクラリスを悲しませてしまう。それだけが心残りだ。


「ごめん、クラリス」


 ナイフを胸に当てる。


「幸せにな」


 冷たい刃が肉を裂く。


 痛み。血。暗闇。


 ドアの開く音。


 意識が途切れる直前、悲鳴が聞こえた気がした。




 

 目覚めると、クラリスがいた。


 泣いていた。


「どうして……どうして目覚めてるんだ」


「ホムンクルスじゃなかったら死んでたって……。私、あなたの部屋に遊びに行ったの。そうしたら……」


 彼女は僕の手を力強く握りしめる。


「もう、絶対にしないで」


「ごめん、でも俺この世界で生きてても……」


「いやよ! あなたがいなくなったら、私……!」


「……男としての体も失って、もう故郷に帰ることもできない。それにいつまでもお前の家に世話になるわけにもいかない。……俺に居場所も意味も無いんだよ」


「だったら私の為に生きて。私はあなたに生きて傍にいてほしいの。……それじゃあ理由には足りない?」


「けど……」

 

 俺が口ごもっていると部屋の隅から、声がした。……ルシウスだ。


「……ケイ、謝らなければならないことがある」


 彼は少し間を開けて、重い口を開いた。


「ホムンクルスを女性にしたのは、意図的だった」


「……え?」


「男性体も作れたんだ。だが、あえて女性体にした」


 ルシウスは目を伏せる。


「……怖かったんだ。君が男の体を得たら、クラリスは君を選ぶかもしれないと。三ヶ月も一緒にいたんだ。それに君を通してクラリスと君の関係が悪くないこともわかっていた。……だから君が女性になれば、と」


 沈黙。


「こんなことになるとは思っていなかったんだ。……君を傷つけてしまった。すまない」


 クラリスが立ち上がって目を見開く。


 ルシウスに詰め寄り、掴みかかりかけて――拳を握りしめて止まった。


「ルシウス、様」


 震える声。怒りを必死に抑えている。


「私、ケイを愛しています」


 ルシウスが凍りつく。


「三ヶ月間、ケイは私のために生きてくれました。性別なんて関係ありません。私はケイという人を愛しているんです」


「あなたの妻にはなれません。婚約を破棄させてください」


「待て、クラリス」


 俺は彼女を止めた。


「俺はもう女だし、そもそも客分の身でしかない。……お前を幸せにはできない。ルシウスと結婚した方がいい」


「ケイ……」


 ルシウスが口を開いた。


「クラリス。君の気持ち……本当なのか」


「はい」


「……そうか」


 彼は目を閉じた。


「私は君を愛している。政略結婚の相手ではなく、一人の女性として」


「でも、君の心は私にはない。……ずっとわかっていた」


「明日、侯爵と話し合おう」


 そう言って、ルシウスは部屋を出た。



 


 翌日、四人が執務室に集まった。


 侯爵、クラリス、ルシウス、僕。


 クラリスが口火を切る。


「父上。ルシウス様との婚約を破棄させてください」


 侯爵が驚愕する。一拍考えて俺に話しを振る。


「ケイ殿、君はどう思う?」


「反対です」


 僕は即答した。


「俺は貴族でないし、もう男ですらありません。クラリスを幸せにできません。ルシウス様と結婚すべきです」


 ルシウスが顔を上げた。


「ケイ、ありがとう」


 彼はクラリスに向き直る。


「クラリス、時間をくれ」


 ルシウスの声に力がこもる。


「婚約を続けたまま、ケイとも会えばいい。その上で、君が本当に私ではなくケイを選ぶなら、私は諦める」


 彼は一歩前に出た。


「それまでは、私も君を幸せにする努力をさせてくれ。……必ず、君を幸せにしてみせる」


 クラリスは静かに言った。


「私は……ケイを愛してしまいました」


 ルシウスの顔が強張った。


 「ですが」


 クラリスは言葉を続ける。


「……何もなければ」


 クラリスは更に続けた。


「何もなければ、私はこの気持ちを心の奥に仕舞い込んで、あなたの妻になるつもりでした。それが貴族令嬢というものです」


 ルシウスが息を呑んだ。


「それなら……!」


「しかし、それはもう無理です」


 クラリスは首を振った。


「なぜだ」


「あなたがケイを傷つけたからです」


 クラリスの目が冷たくなる。


「私の恩人であり愛する人を、あなたの嫉妬が傷つけた。そして私はケイを失いかけた。それを許すことができません」


「すまなかった……」


 ルシウスは声を絞り出した。


「私が間違っていた。私はクラリス、君を愛している」


「私の気持ちは変わりません」


 クラリスの声は静かだった。


「クラリス」


 侯爵が娘に向き直った。


「お前、分かっているのか。婚約破棄がどれほど重大なことか。ルシウス殿は王国きっての魔導士だ。アルトハイム家の名誉にも関わる」


「分かっています、父上」


「ならば、考え直せ。これはお前の我が儘で済む話ではない」


 侯爵の声は厳しかった。


 僕は彼女の腕を掴んだ。


「クラリス、俺からも言う。お前はルシウスと結婚すべきだ。考え直せ」


「ケイ……」


「俺は女だ。お前を守れない。お前に相応しい生活を与えられない。でもルシウスなら、お前を幸せにできる」


 俺は必死に言った。


「だから、俺のことは忘れてくれ。ルシウスと結婚すべきだ」


 クラリスは首を振った。


「クラリス、頼む」


 ルシウスの声が震えた。


「私は変わる。君を傷つけたことを、心から後悔している。もう二度と、あんな過ちは犯さない。だから、もう一度だけ機会をくれ」


 クラリスは三人を見渡した。


 沈黙が流れる。


「話し合っても、平行線のようですね」


 クラリスは静かに言った。


「婚約を継続しろと言うのなら……私はケイを連れて、この家を出ます」


「クラリス!」


 侯爵が叫んだ。


 ルシウスの声が震えた。


「私を……捨てないでくれ。頼む……」


 クラリスは静かに、断固とした様子で首を振った。


「諦めてください、ルシウス様」


 目を瞑って考え込んでいた侯爵がようやく口を開き、重い声で言った。


「……ルシウス殿。婚約は破棄しよう」


 ルシウスは崩れ落ちた。


「全て……私の過ちだ……」


 彼は涙を流しながら立ち上がった。


「……婚約破棄を、受け入れます」


 クラリスに一礼する。


「どうか、幸せに」


 ルシウスは何も言わず部屋を出ていった。



 


 数日後クラリスが部屋を訪ねてきた。


「ケイ、今日の午後は天気が良かったわね」


「ああ、そうだな」


「庭のバラが咲き始めたの。明日一緒に見に行かない?」


「……いいな」


 他愛もない会話。クラリスは僕を気遣って、毎日こうして訪ねてきてくれる。


「それとね、新しいメイドがとんでもない失敗をして――」


 クラリスが楽しそうに話す。僕も相槌を打ちながら聞いていた。


 机の上に、果物の皿がある。侍女が持ってきたものだ。その横に小さなナイフ。


 僕の視線が、無意識にそちらに固定された。


 すぐに視線を戻したが――クラリスの言葉は止まっていた。


「……ケイ?」


「ん?」


 彼女は僕の目を見つめている。


「……あなた、まだ生きたくないの?」


 僕は答えられなかった。


 彼女は小さく息をついた。


「……分かったわ」


「クラリス……」


「まだ死にたいというなら、もう止めないわ」


 彼女は諦めたように呟いた。


「……ただし」


 彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。


「あなたが死んだら、私も後を追うわね」


「……何を言ってるんだ!」


「本気よ」


 クラリスの声は静かだったが、揺るぎない決意が込められていた。


「あなたのいない世界で生きる意味がないもの」


「馬鹿なことを……! お前には生きる理由があるだろう。領地も、家族も――」


「そうね。でもあなたの方が大事」


 僕は言葉を失った。


「あなたは私のために生きてくれた。私の体を動かし、私の代わりに笑い、私を助けてくれた。そうよね?だって死ぬつもりなら私に体を返す必要なんてなかったもの」


 クラリスの目から涙が零れる。


「私あなたのこと心から愛してる。……ケイのいない世界なんて耐えられない」


「ダメだ……そんなの……」


「だったら、生きて。私の為に」


 クラリスが僕の手を握った。


「お願い。私を一人にしないで。ねぇ……私じゃあなたの生きる理由にはなれない?」


 縋るようにこちらを見るクラリス。


「……分かった」


 僕は彼女の手を握り返した。


「もう、死のうとなんてしないよ」


「ケイ……!」


「お前を道連れになんてできない。だから、生きる」


 クラリスが泣きながら抱きついてきた。


「ありがとう……ありがとう……」


 僕は彼女を抱きしめ返した。


 もう迷わない。


 この人を悲しませないために俺は生きる。


 それだけで、十分だ。




 

 その後、僕はケイトという名前でアルトハイム家の養女になった。


 クラリスの妹として――そして、秘密の恋人として。


 

 

 ある日の午後。


「ケイト、この本読んだ?」


「まだ。面白い?」


「すごく。主人公が――」


 クラリスが目を輝かせて語る。僕はそれを聞きながら微笑む。


 彼女の笑顔を見ているだけで、幸せだった。


 夜になると、クラリスが僕の部屋を訪れる。


「眠れない?」


「そういう訳じゃないわ。一緒に寝ましょ」


 僕たちは同じベッドで抱き合い、他愛もない話をする。


「ねえ……今、幸せ?」


「……うん、幸せだよ」


「良かった」


 クラリスが僕の手を握る。


 数ヶ月が過ぎたある日、ルシウスから手紙が届いた。


『クラリスへ

 遠方の地で、新しい研究に取り組んでいる。

 君とケイを傷つけたこと、今も後悔している。

 だが、君が幸せそうな笑顔を浮かべているという噂を聞いて、少しだけ救われた。

 どうか、ケイと共に幸せに。

 ルシウス』


「……彼も、前を向いたのね」


 クラリスが静かに言った。


「ああ」


「ケイト、私たちも前を向きましょう」


「もう向いてるよ。お前と一緒に」


 クラリスが微笑む。


 元の世界には戻れない。男としての未来も失った。


 でも、後悔はない。


 この人と過ごす毎日が、俺の全て。生きる理由だ。


 失ったものはあるし、取り戻すことはできない。


 でも、未来は作れる。


 二人で。


 この世界で。愛する人のそばで。


 これからも、ずっと。

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