シャドウ
平嶋 勇希
シャドウ 宵哭の帝
第1話 彼女が来た日
空が乾いていた。
落ちた衝撃は遅れてきて、肺の奥に冷たい息が刺さる。喉が乾くより先に胃が反転し、視界が白く滲んだ。土の匂い。湿った草の匂い。鉄でも薬でもない、ただの地面の匂い。
彼女は両手をついたまま、呼吸の仕方を忘れた。吸うと痛い。吐くと震える。身体が、今いる場所の空気に馴染めていない。あるいは、自分が馴染むことを拒んでいる。
それでも――音が、違う。
遠くの金属音も、命令の声も、怒号もない。張り詰めた沈黙の下でいつ爆ぜるか分からない、あの戦場の静けさでもない。ここは、ただ静かだ。
「……」
声を出そうとして、喉が詰まる。
名前を呼ばれることに慣れてしまった。叫ばれることに、罵られることに、命令されることに。誰かの声がない空間に立つと、自分の輪郭が薄くなる。
彼女はゆっくりと背中を起こした。視界の端で、草が風に撫でられる。陽の角度が、妙に優しい。優しい、という言葉が気持ち悪い。自分がその言葉を使えることが気持ち悪い。
――終わった。
胸の奥で、何かがほどけた。
そのほどけた感覚が、次の瞬間には吐き気になった。
終わった、なんて。
終わらせたのは自分だ。自分で切って、自分で捨てた。置き去りにした。あの場所に残したものの重さを知っているのに、「終わった」と思ってしまう自分がいる。
唇の裏を噛んだ。血の味がした。血の味だけが現実味を持つ。世界が変わったのに、血の味だけが同じであることが腹立たしい。
足元を見る。靴は土に汚れている。土は、ただの土だ。黒い灰も、焦げた肉の匂いもない。死体の熱もない。誰かの絶叫が空気に残ってもいない。
息が、深くなる。
その深さが、裏切りだと思った。
裏切りを、身体が勝手にやっている。
――逃げた。
それしか言いようがない。
両手を見た。掌に擦り傷がある。小さな痛みがある。痛みは、まだ自分のものだ。奪われていない。誰かの痛みを背負わされていない。ここでは、少なくとも今は。
その「今は」を、信じてはいけないと分かっている。
信じた瞬間に、また何かを壊す。自分はそういう人間だ、と知っている。
母を殺した。
守るためだと言い訳した。守るためだと信じたかった。信じなければ、あの瞬間の自分が何だったのか、空っぽになってしまう。
大量虐殺をした。
必要だったと言い訳した。必要だったと唱えた。唱えれば唱えるほど、声が乾いていった。自分の中の何かが粉になっていった。
仲間のために――そう言い続けた。
その「ために」を、仲間達に拒まれた。畏怖の目。距離。沈黙。信頼の喪失。あれほど守ろうとした相手から、怪物を見る目で見られた。
そして戦争が加速した。
神肢軍との衝突が激化し、オーゴの強化は早まった。間に合わなくなる速度で。自分の正しさが、破滅を前倒しした。
耐えられなかった。
英雄の耐えられなさではない。罪人の耐えられなさでもない。もっと卑怯で、もっと人間らしい――ただ、痛みに耐えられなかった。
だから、母の残した魔術を使った。
あれは、救うための技ではなかった。逃げるための穴だった。母が残したのは希望じゃない。最後に残った手段だった。
彼女は空を見上げた。
雲が流れている。あまりに普通で、怒りが湧いた。こんな空の下で、何が起きていた? 何が起きて、何が壊れて、何が死んで――それでも空は青かったのか。
「……わたしは」
言いかけて、やめる。
自分に言葉を与えたら、また言い訳を始めるからだ。言い訳は上手い。正しさの顔をした言い訳で、何でもできる。だから黙る。黙っていれば、少なくとも「誤魔化した」と自覚できる。
だが黙っていると、次は別の感情が湧く。
虚無。
ここで何をすればいい?
帰る場所はない。帰りたい場所もない。帰る資格もない。逃げたくて逃げたのに、逃げた先で「これから」を求めるほど、自分は図々しくない。
なら、何のために生きている。
その問いに答えがないことだけが、はっきりしている。
恐怖が遅れてくる。
成功してしまった恐怖。ここへ来てしまった恐怖。取り返しがつかない恐怖。戻れないという事実が、ようやく重さを持つ。穴に飛び込んだのは自分なのに、地面に着いた瞬間になって、足がすくむ。
彼女はゆっくりと立ち上がった。膝が笑った。筋肉が、戦場の動きしか覚えていない。ここには敵がいないのに、身体が敵を探してしまう。敵がいないことが怖い。敵がいないなら、自分は誰と戦えばいい。
――置いてきた。
思い浮かぶのは、顔じゃない。
視線だ。畏怖の目。恐れ。拒絶。
守ろうとした相手に向けられた、あの目。
自分がそこに戻れば、何かが変わるのか。
変わらない。
変えられない。
だから逃げた。逃げたのに、置いてきた視線が追ってくる。ここまで追ってくる。視線は距離を超える。罪悪感は時間を超える。
「……ごめん、なさい」
誰に言ったのか分からない。
謝罪は、赦しを乞う言葉だ。赦される資格がないのに、謝ってしまう。謝れば少し軽くなると、どこかで思っている。卑怯だ。卑怯さが自分の中でまだ生きていることが、いちばん嫌だ。
口の中の血を飲み込んだ。
味が消えた。自分の痛みが薄れる。薄れることが怖い。ここで痛みまで消えたら、自分は本当に「なかったこと」にしてしまうからだ。
風が頬を撫でる。温い。
温さが腹立たしい。温さに安堵する自分がいる。安堵した瞬間、自分の中で何かが崩れる音がした。
それでも――もう一度、息を吸う。
空気が肺に入る。生きている。生きてしまっている。
彼女は目を閉じた。
ここがどこか、まだ確信はない。狙って来たわけじゃない。そんなことは今はどうでもいい。大事なのは一つだけだ。
自分は逃げた。
逃げ切ってしまった。
その事実を、身体が受け入れてしまった。
受け入れてしまう前に、何かを罰として与えたかった。だが罰はいつも遅れてくる。罰は自分の外から来る。自分の内側からは来ない。内側から来るのは、言い訳と、自己保存と、安堵だ。遠くに、煙のようなものが見えた。人の営みかもしれない。
ルノウは一歩、踏み出した。
足の裏に草が潰れる感触がある。小さな音がする。自分がこの世界に触れてしまった音。
触れてしまった。
また壊すかもしれない。
それでも歩く。歩くしかない。
胸の奥で、何かが小さく叫んだ。
帰りたい、と。
どこに、とは言わない。言えない。言ったら、そこが本当に「帰る場所」になってしまうから。
彼女は唇を引き結んだ。
そして、自分にだけ聞こえる声で、言った。
「終わってない」
終わらせたくて逃げた。
なのに終わっていないと、自分が一番よく分かっている。
逃げた先にも、続きがある。それが何より残酷だった。
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