明けない夜の思想犯
いすず さら
明けない夜の思想的
第1章:止まった夜の街
「目を閉じてごらん。きっと、何も変わらないから」
心結はそう言って、僕の目の前で指を鳴らした。
その瞬間、まるで世界の音が一つ、消えたような気がした。
止まったままの時計塔。灯りの消えない街灯。人の姿が消えたアーケード街。
“あの事件”以来、この街には夜しか存在しない。
僕たちは「明けない夜」に閉じ込められたまま、今も変わらぬ景色の中で息をしている。
心結は、僕の通う図書館の地下で出会った。
本に埋もれて眠っていた彼女は、まるでずっとこの夜の世界を待っていたようだった。
「ねぇ、“思想犯”って、どういう意味か知ってる?」
心結が再び口を開いた。
彼女の声はまるで霧のように、僕の胸の奥へと忍び込んでくる。
「……考えることが、罪になる世界のことだよ」
「じゃあ、君は考えてしまったんだね。この世界を変えたいって」
その言葉に、僕は答えられなかった。
心のどこかで、僕自身が“この夜”を望んでいたのではないかという疑念が消えなかったから。
沈黙の中、彼女はふと空を見上げる。
「星、見えないね」
「……ここにはもう、空なんてないのかも」
「ううん。空はあるよ。見えないだけ。ね、亜季」
心結は、確かに笑った。
だけどそれは、どこか哀しい笑みだった。
第2章:声をなくした朝
朝のことを、僕はもう思い出せない。
――いや、本当は覚えている。ただ、それを“思い出してはいけない”という声が、いつも僕の中で叫んでいるだけだ。
心結と別れたあと、僕は久しぶりに図書館の3階へ向かった。そこには、閉ざされた記憶の断片が眠っている気がした。
埃をかぶった棚の奥、無数の書類と手記が乱雑に放り込まれている小部屋。
その中に、一冊の青いノートを見つけた。表紙には、黒いインクでこう書かれていた。
《観測記録:ヒト-077》
手が震えた。僕はこのノートを、知っている。
ページをめくる。
見開きに記されていたのは、日付のない記録と、僕の名前だった。
対象ヒト-077は、“現実と記憶の連続性”を自己解釈により破壊。
「朝が来ること」に対する明確な拒絶を示す。
※思想的逸脱が顕著。記憶操作を実施。対象は覚醒状態のまま隔離処置へ移行。
喉の奥が、かすかに痛んだ。
僕は、朝を拒んだ。
何があったのかは、まだ思い出せない。でも――確かに、その選択を僕はした。
図書館の外では、街灯の光が一斉に揺れ始めていた。
風がないのに、何かが動いている。夜が、少しだけざわめいている。
その瞬間、耳の奥で誰かの声がした。
「――亜季。逃げて、そこにはまだ“朝”が残ってる――」
心結の声だった。けれど、ここには彼女の姿はない。
僕の記憶とこの夜は、どこかで深くつながっている。
そして心結は、その真実を知っている。
第3章:朝を売った少年
図書館を出たあと、僕は無意識に旧・中央駅へ向かっていた。
そこはもう電車も来ない。時計も止まったまま、誰も来ない。
だけど今夜に限って、改札の向こうに“人影”が見えた。
黒い学生服の少年。片手に小さな木箱を抱えて、こちらに背を向けている。
その姿に、僕はなぜか懐かしさを覚えた。
「……君は」
声をかけると、少年はゆっくりと振り返った。
顔は影になって見えない。だけどその輪郭、声――すべてが、僕自身と似ていた。
「おかえり、“僕”。朝を売ったこと、覚えてる?」
「……売った?」
「そう。君は“夜だけの世界”を選んだ。だから僕が生まれたんだよ。
君が朝を手放した代わりに、この箱に入ってる“何か”を手に入れた。覚えてない?」
僕は言葉を失った。
彼が抱えている箱――それは、かつて僕がずっと欲しがっていた“何か”のような気がした。
「開けてみるかい?」
少年は木箱を僕に差し出した。
けれど僕は、それに触れられなかった。触れたら何かが終わる気がした。
「……君は誰なんだ?」
「僕だよ。ただし、“朝を殺した方の僕”。」
その瞬間、駅舎の天井から、音もなく砂のような光が降り注いだ。
それはまるで、かつて存在していた朝の名残――“光の記憶”だった。
「忘れないで。君は、自分でこの夜を選んだんだ。
でも、本当に“それだけ”だったのかな?」
そう言い残すと、少年の姿はかき消えるように消えていった。
僕は、その場に立ち尽くす。
そして気づく。
ポケットの中に、見覚えのない小さな鍵が入っていたことに。
第4章:鍵の在処、眠る家
僕がポケットの中の鍵に気づいたのは、幻影の少年が消えた直後だった。
銀色の鍵。小さく、冷たく、手に馴染んでいるのに見覚えがない。
その夜、図書館の裏路地に心結の姿があった。彼女は、まるで僕が来るのを知っていたように、静かにそこに立っていた。
「……やっぱり、君のところに届いたんだね。鍵」
「これ……僕のものじゃない。けど、懐かしい気がする」
「うん。だって、それは“君が過去に閉じたもの”の鍵だから」
心結の瞳が、いつもより深く、暗かった。
彼女はそっと僕の手を取り、鍵にそっと触れた。すると鍵が小さく震え、まるで何かを覚えているように熱を帯びた。
「ついてきて。思い出す準備は、できてる?」
僕は、黙ってうなずいた。
心結が導いたのは、街のはずれ、崩れかけた住宅街の中にひっそりと建つ、一軒の家。
白い壁に囲まれたその家は、どこか現実味が薄く、まるで絵本の中から切り取ってきたような静けさがあった。
「ここ……まさか……」
「そう。“君が朝を売った”日の場所」
門の前で、僕の手の中の鍵が音を立てた。
扉の錆びついた鍵穴に差し込むと、まるで何年も眠っていたものが目を覚ますように、静かに音を立てて開いた。
中に一歩踏み入れると、空気が変わった。
そこには、誰もいないはずのはずのダイニングテーブルがあり、
温もりを感じる紅茶の香りと、窓辺に置かれた古い日記帳があった。
心結は何も言わずに、ゆっくりと部屋の奥へ歩いていく。
彼女が開けた扉の先には、“朝”の色をした光が、かすかに満ちていた。
第5章:朝を売った日
扉の先は、小さな居間だった。
色褪せたカーテン、歪んだ時計、壁に飾られた家族写真――けれどそのすべてが、薄い膜に覆われたようにぼやけて見えた。
僕はゆっくりと部屋の中央に進んでいく。
パキ……ッ
床を踏みしめる音がやけに大きく響いた瞬間、視界が歪む。
世界が、揺れた。
そして――記憶の断片が、呼吸するように流れ込んでくる。
「起きなさい、学校遅れるわよ」
「……行かない」
「どうして? 今日は、お父さん……」
「うるさい、朝なんていらない。僕は、ずっと夜にいたい」
――バンッ
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。
でも、あのとき確かに僕は、誰かの“期待”を拒んだ。
「……あの時、君は世界を閉じたんだよ」
背後から心結の声がする。
「朝は、君にとって“痛み”だった。だから、自分の意志で手放した。
だけど、それだけじゃない。君の“言葉”が、誰かの時間を止めたの」
心結が視線を向けた先、壁にかけられた時計があった。
その針は、7時13分で止まっていた。
「この家の“朝”は、そのとき止まった。
君は、ただ夜に逃げただけじゃない。誰かの“未来”を一緒に閉じ込めたんだよ」
僕の目の奥が、かすかに熱を持つ。
誰かが泣いていた。あれは母だったか、妹だったか……思い出せない。
だけど確かに、あの日、誰かが泣いていた。
そして僕は、何も言わなかった。
第6章:彼女が見ていた光景
「君は……あの時間に、いたの?」
僕がそう問いかけると、心結はまばたきひとつせずに、窓辺を見つめた。
外には、相変わらず夜が続いている。
だけど今はなぜか、空の色が少しだけ薄くなったような気がした。
「うん。私はずっと、見てたよ。あの朝、君が言葉を投げた瞬間も。
お母さんが台所で立ち尽くした背中も。妹さんが、静かに食器を片付けてたことも」
僕の背筋が、冷たくなる。
「でも……なんで、君が……」
「だって、私は“君の夜”に住んでいるから」
その言葉に、心臓がひとつ跳ねた。
「どういう……意味?」
心結は少し笑った。でも、それはとても静かな、壊れそうな微笑だった。
「この夜の世界は、君が選んだものだよね?
じゃあ、私はその夜の中に生まれた存在。
君が朝を売ったときに、“代わりに”選んだもの……そう考えたら、少しは納得できる?」
僕は、言葉を失った。
「でも、ね」
彼女は少し声を落とした。
「私、あの時……本当は声をかけたかったんだ。
“そんな言葉、言わなくていいよ”って。
だけど、君の中の“拒絶”があまりに強くて……私、言葉が届かなかった」
僕の視界がにじむ。
なぜ彼女がそこにいたのか、なぜ覚えていなかったのか――わからない。
けれど、確かに心結はあのとき、僕のそばにいた。
僕の夜は、僕ひとりのものじゃなかった。
「君が“朝”を思い出した時、この世界も終わるかもしれない。
でも、それでも思い出すことを選ぶなら……私は君の隣にいる」
心結の声が、今夜いちばん近くに聞こえた。
第7章:手のひらの光
「……ここに来るの、少しだけ怖いかもしれない」
心結は、僕の手をそっと取った。
その指先は、かすかに冷たい。でも、その温度は確かに“現実”だった。
僕たちは、家の一番奥の部屋へと進んでいく。
そこには小さな木の扉があり、取っ手にだけ、埃が積もっていなかった。
僕はドアノブに触れる。心結の手が、僕の手を包んだ。
キィ――……
扉が開くと、世界が、音を取り戻した。
そこは、僕が“朝”を最後に見た部屋だった。
カーテン越しに射し込む淡い光。
テーブルの上に置かれた、二つの食器と、湯気の消えかけたスープ。
テレビの音。窓の外で鳥が鳴く声。
そして――家族の笑い声。
全てが、そこにあった。
けれどその空間の中央には、静かに佇む“僕”がいた。
あの朝の僕。
心を閉じて、言葉を投げ捨てて、世界の扉を閉ざした、“過去の僕”。
「……あれが、僕」
「うん。私はあの日、この部屋の隅にいた。
誰にも見えない、誰にも気づかれない“夜の影”として」
心結の声が、震えていた。
「私は……ずっと思ってたんだよ。
もしあのとき、君の手を握っていたら、何か変わったんじゃないかって」
僕は、あの頃の自分の背中を見つめる。
小さくて、脆くて、傷だらけで――でも、まだ何も壊れていなかった。
そのときだった。
心結が、僕の手を強く握る。
「行こう、もう一度。あの日を、見届けに」
気づくと、僕たちの足元に淡い光が広がり始めていた。
空間が歪む。時計の針が、7時13分を超えようとしていた。
“朝”が――戻ってこようとしていた。
第8章:朝の輪郭、ほどける声
光が、差し込んだ。
それは確かに“朝”だった。
窓の外の空が、群青から白に変わり、遠くで鳥の声がかすかに響く。
止まっていた時計の針が7時14分を指したとき、空気が震えた。
僕の中に、ひとつの記憶が流れ込む。
「……ありがとうって、言いたかっただけなのに」
誰かの声。泣きながら、でも笑っていた声。
“あの朝”、僕はその声に背を向けた。
なぜか、それが怖かった。ありがとうが、別れに聞こえた。
「――心結」
僕が隣を向くと、心結がそこにいた。
でも、その姿が――揺れていた。
風に吹かれた絵の具のように、輪郭がにじんで、透け始めている。
「……そっか。やっぱり、“朝”が来たら、私は……」
彼女は微笑んだ。今まででいちばん、儚くて優しい笑みだった。
「私、この夜の中で君に出会えてよかった。
ほんとはずっと、ここにいたかったよ。でも……」
彼女の手が、僕の手からすり抜けるように離れていく。
「心結……!」
僕が叫ぶと、彼女の髪が光に溶けていく。
まるで、陽だまりに消える雪のように。
「君が“朝”を選んだら、私はもう――」
言葉の続きを、彼女は言わなかった。
かわりに僕の胸に、何かがふわりと落ちてくる。
それは――彼女がいつも首に下げていた、小さなペンダントだった。
中には、折りたたまれた紙が一枚。
開くと、そこには震える文字で、こう書かれていた。
「また、夜が恋しくなったら、私を思い出して」
第9章:光のない名前
朝だった。
本物の朝だった。
空には雲が流れ、子どもたちの声が響き、店のシャッターが開く音がどこかで聞こえた。
いつも通っていた図書館にも、淡い日差しが差し込んでいる。
だけど――何かが、決定的に違っていた。
「……心結って、知ってる?」
そう尋ねたとき、司書の女性は首をかしげた。
「ごめんなさい、その名前の利用者記録はないわね」
学校の教室でも、コンビニでも、駅のホームでも。
誰に尋ねても、**“心結”**の名を知る人はいなかった。
まるで、最初からこの世界に存在していなかったかのように。
だけど、僕の手にはまだ残っている。
彼女が遺していったペンダントと、そこに挟まれていた言葉。
「また、夜が恋しくなったら、私を思い出して」
それを胸に握りしめるたび、心のどこかで、彼女の声が聞こえる気がする。
夜に咲く花のような声。
光を知らなかった少女の、ささやくような笑み。
“朝を売った僕”と、“夜に生きた彼女”。
すれ違いと記憶の狭間で、たしかに僕たちは出会っていた。
今ではもう、誰も知らない。
彼女の名前も、存在も、言葉も。
でも僕だけは――忘れない。
「明けない夜なんて、本当はなかったんだ。
ただ、僕が朝を閉じていただけ。
そして、彼女は――夜の中で、ずっと朝を待っていてくれた」
第10章:夜を知る者として
季節がひとつ、過ぎた。
駅前の桜はすっかり散って、今は緑の葉が風に揺れている。
あれから僕は、誰にとっても変わらない“朝のある日々”を生きている。
学校に通い、笑い合い、時々うまく息ができなくなる。
それでも僕は、もう逃げない。
あの夜の記憶を、胸にしまっているから。
心結のことを話すと、皆は笑った。
「夢でも見てたんじゃない?」とか、「小説の読みすぎだよ」とか。
……それで、いい。
誰にも信じてもらえなくていい。
だって、僕が知っている。
あの夜の静けさを。彼女の手の温度を。
そして、“朝”が訪れることの重みを。
机の引き出しには、今もペンダントが眠っている。
開けば、彼女の筆跡がある。
「また、夜が恋しくなったら、私を思い出して」
夜を嫌っていた僕が、今では夜になるのを少しだけ楽しみにしている。
ふとした瞬間、窓の外に影を見かけることがある。
それはたぶん、風のいたずら。光の反射。
でも、もし――もしもあれが、
まだ“夜のどこか”で、心結が見ている景色の断片だとしたら。
僕は、ちゃんと笑える。
「夜は終わった。
でも、夜を覚えていることは、きっと誰かのためになる。
たとえば――僕が、いつか誰かの“夜”を照らせるように」
エピローグ:最後の夜に
その夜は、妙に静かだった。
風もなく、街灯の明かりが少しだけ滲んで見えた。
僕は、いつものように寝る前、窓を開けて夜を見た。
何も特別なことはなかった。ただ、月がいつもより大きかった。
そして――その月の下に、ひとつの影が立っていた。
小さな姿。白いワンピース。風もないのに、髪が揺れていた。
僕は思わず窓を開けたまま、息を呑む。
声をかけようとして、やめた。
もしそれが幻なら、壊してしまいそうで。
でも、その影はゆっくりとこちらを向いて、
ほんの少しだけ、手を振った。
それだけだった。
でも僕には、わかった。
彼女は、まだ夜のどこかに“いる”。
完全に消えたわけじゃない。
きっと、僕が夜を忘れないかぎり、彼女も消えない。
僕はそっと、胸のペンダントに触れる。
「また、夜が恋しくなったら、私を思い出して」
心結。
君のいた夜は、もう明けてしまったかもしれない。
でも、最後のこの夜だけは――僕のために、君が来てくれた気がした。
ありがとう。
僕はもう、夜を怖がらない。
そして、夜が静かに、朝へと溶けていった。
心結の名前だけが、ほんの少しだけ光を帯びて。
あとがき:夜に置いてきたものたちへ
この物語は、
“夜”に閉じこもった少年と、“夜”しか生きられなかった少女の話です。
誰かの痛みは、誰かには理解できないかもしれない。
朝が希望であると同時に、残酷な現実でもあるように。
夜が逃げ場所でありながら、静かな牢獄でもあるように。
それでも、“僕”は朝に歩き出すことを選びました。
なぜなら、誰かがその夜の中で、ずっと待っていてくれたからです。
心結という存在は、幻想かもしれない。
でも、“存在しない”とは、僕は言いません。
夜にしか見えないものは、確かにあるから。
そしてそれが誰かの心に残り続けるなら――
それは、きっと真実のひとつだと信じています。
あなたの夜が、もしも“明けない”と感じるとき。
この物語が、小さな光になれたなら幸いです。
思い出してください。
夜を歩いたあなたも、ちゃんと朝に向かっていたということを。
そして、あの名前を――
心結(みゆ)という名の、夜の中の光を。
あとがき:夜の端にて/心結より
ねえ、君がこの言葉を読んでいるということは、
朝はもう、ちゃんと届いたんだね。
あの夜の中で出会えたこと、私は後悔していないよ。
君が手を伸ばしてくれたから、
私は、夜の片隅で光を持つことができた。
本当は、朝が怖かった。
変わることが、忘れられることが。
君が先に歩いていってしまうことが。
でもね――それでも、行ってほしかったんだ。
君には、夜を越えてほしかった。
私ができなかったその先へ、君だけはちゃんと辿り着いてほしかった。
だから、もしもまた夜が怖くなったら、
もしもひとりで眠れない夜が来たら、
この名前を思い出して。
明けない夜の思想犯 いすず さら @aeonx
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