儚き祝祭

木工槍鉋

砂漠の前夜

 砂漠の夜は冷える。


 リヤドの郊外、万博会場の一角。私は竹の構造体を見上げていた。


 2030年9月30日。開幕前夜。


 明日から半年間、この場所は「結びの庭」として世界中の人々を迎える。日本館だ。私が設計した。


 数万本の竹が組み合わさって、空間を作っている。垂直に立つもの、斜めに交差するもの、緩やかな曲線を描くもの。風を通し、光を濾過し、人々を導く。


 設計図通りだ。施工チームは完璧な仕事をした。


 なのに、満足感がない。


 この竹は、日本各地の放置竹林から来た。里山を侵食し、在来種を駆逐する「緑の災害」。誰も手入れをせず、誰も使わない厄介者。


 それを大量に買い取って、コンテナに詰めて、一万キロ以上離れたこの砂漠まで運んできた。


 なぜか。


 表向きの理由は明確だ。竹は成長が早く、再生可能な資源。軽量で加工しやすく、曲げに強い。しなやかで、有機的な曲線を作れる。日本の伝統的な素材でありながら、現代建築にも応用できる。


 万博のテーマ「変化の時代:先を見据え、ともに」に相応しい。


 そして何より、安価だ。


 厄介者だから、安い。誰も欲しがらないから、大量に手に入る。施工も容易で、曲げ加工も現場でできる。コストパフォーマンスに優れた、理想的な素材。


 だが、本当の理由は別にある。


 半年後、この建造物は解体される。


 パビリオンとはそういうものだ。会期が終われば、すべて撤去しなければならない。


 では、解体後の竹はどうなるのか。


 燃やされる。


 簡単だ。竹は燃える。乾燥させて、火をつければ、それで終わり。バイオマス燃料として使えるかもしれない。灰になって消える。処分費用もかからない。


 つまり、この数万本の竹は、最初から「消費される」ために選ばれたのだ。


 使い捨ての素材。


 祝祭のために消費され、燃やされ、消える。


 私はそれを知っていて、選んだ。


 風が吹いた。


 竹が軋む音がする。中空の筒が共鳴して、低い音を立てる。設計段階で計算していた音響効果だ。風の強さと方向によって、この建造物は異なる音を奏でる。


 明日から、この空間に人々が入ってくる。


 子どもが走り回り、老人が休み、若者が写真を撮る。彼らは竹の起源など知らない。放置竹林の問題も、半年後に燃やされる運命も。


 ただ、この場所を楽しむだけだ。


 それでいい、と思う。


 いや、それでいいのか、とも思う。


 私は何のためにこれを作ったのか。


 日本の環境問題を世界に訴えるため? 持続可能性を示すため? それとも、単に安価で扱いやすい素材だったから?


 どれも正しく、どれも嘘だ。


 本音を言えば、私は「消費される建築」に惹かれたのだ。


 永続性を目指さない構造物。残ることを前提としない空間。半年間だけ存在し、燃やされて消える。


 それは建築家としての敗北なのか、それとも新しい可能性なのか。


 答えは出ない。


 遠くで、他のパビリオンの照明が試験点灯されている。中国館の巨大なLEDスクリーン、ドイツ館の幾何学的なファサード、ブラジル館の緑化壁面。


 どれも最新技術を駆使し、未来を提示している。どれも「残る」ことを前提に設計されている。少なくとも、半年後に燃やされることは想定していない。


 それに比べて、この竹の構造体はあまりに潔い。


 いや、潔いのではない。諦めているのだ。


 最初から「消える」ことを受け入れている。


 変化の時代だからこそ、変わらないものを。先を見据えるからこそ、過去を振り返る。


 そんな綺麗事を並べたプレゼン資料を思い出す。


 偽善だ、と自分でも思う。


 結局、私は自分の美学を押し付けているだけではないのか。「儚さの美学」「侘び寂びの精神」。そんな言葉で飾り立てて、実際には何も解決していない。


 放置竹林は放置されたままだ。この数万本を使ったところで、問題の規模には遠く及ばない。そして半年後、この竹は燃やされる。


 厄介者は、厄介者のまま消費される。


 それでも、私はこれを作った。


 明日、開幕する。


 人々が来る。


 祝祭が始まる。


 そして半年後、すべてが終わる。


 竹は燃え、空間は消え、記憶だけが残る。いや、記憶すら薄れていくだろう。十年後、二十年後、誰がこの「結びの庭」を覚えているだろうか。


 私は竹の柱に手を触れた。


 表面はざらついている。節の凹凸が指先に伝わる。この感触も、明日からは無数の手に触れられ、やがて摩耗していく。


 そして半年後、炎に包まれる。


 冷たい風が、また吹いた。


 竹が鳴る。


 私は会場を後にした。


 明日の開幕式には出席しない。建築家として招待されているが、断った。自分の作品が人々にどう受け入れられるか、その場で見る勇気がない。


 臆病だと思う。


 だが、それでいい。


 祝祭は、作り手のものではない。参加者のものだ。私はただ、舞台を用意しただけだ。


 あとは、彼らに委ねる。


 ホテルへの車の中で、私はスマートフォンを見た。日本からのメッセージが届いている。施主からの最終確認、メディアからの取材依頼、同業者からの祝辞。


 どれにも返信しなかった。


 窓の外、砂漠の闇が広がっている。


 遠くに、リヤドの高層ビル群が光っている。この国は変わろうとしている。石油依存からの脱却、観光立国への転換、文化の開放。


 万博は、その象徴だ。


 そして私の竹の建造物は、その片隅で、ひっそりと存在する。


 半年間だけ。


 祝祭の前夜は、こうして更けていった。

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