相対時間/絶対時間
月立淳水
相対時間
時間の向きに、意味なんてないと思うの。
彼女は突然そう言った。
僕は思わず興味を覚え、どういう意味だい? と問う。
ゆっくりと振り向く彼女の長い髪が、夕日を反射して茜色に燃える。
みんな、時間は過去から未来に向かって流れてると思ってるけれど、宇宙ってそんな単純なものじゃないんじゃないかな。
彼女のその言葉に、僕は、うなずく。微笑みを浮かべる。彼女の髪と同じ色に燃える夕焼けを瞳の奥に招き入れる。
それは、とても素晴らしい洞察だと思うよ。
過去、時間とは何か、科学者たちはずっと問い続けてきた。
イングランド生まれの偉人は、絶対空間と絶対時間というものを考え付いた。
どちらも、生まれながらに一方向の目盛りを持って、淡々と歩む存在。
彼の、とてもシンプルな方程式は、時間と空間の出生届となった。
第三帝国生まれの偉人は、お互いがお互いに必要不可欠であることを。
時間の長さが不気味に変わることをしめし、空間はものさしとしてさえ機能しないことが分かった。
二者は、二人でひとつだった。二人で一つの、未来に向かう目盛りを共有していた。
彼の、少し複雑な方程式は、時間と空間の婚姻届となった。
でも。
すぐに、たくさん偉人達が、時間を逆行する粒子というものを考え付いた。
マイナスの符号を持つ粒子は、時間の向きに意味がないと二人の目盛りの中で叫んだ。
二人は別の道を歩むべきだと。
それを示した標準模型は、時間と空間の離婚届。
だから、そうだね、時間がどちらに向かって流れているか、なんて、何の意味もないことだと思うよ。
僕らの過去と、僕らの未来は、今の僕らと、同じ距離にあるんだ。
僕が長い説明を終えると、相変わらず、彼女は仄かな笑みを浮かべている。
長い睫にも茜の花が咲く。
そうなんだね。
やっぱり、そうなんだね。
ふと視線を落とした彼女の頬を、東から吹いてきた紺色の風が撫でていく。
だからね、私は、時間は、きっと別のものが決めてるんだと思う。
僕は、再びうなずく。
そうとも。
いろんな説がある。その中の一つでは、時間の流れは、主観でしか決まらない、人間の心理だけが時間を生み出してる、そんなことさえ言われてる。
ええ、それはきっと正しいと思うわ。
彼女は目を伏せる。
時間をさかのぼっていく粒子があるのなら、時間をさかのぼっていく人も、いるかもしれないわね。
そう、もちろんそうだと思う。主観が逆転してたり、時間の終焉から歩いてきた人だったり……。
もしかすると、私はそうなのかも。
ふたたび、そより、と風が、二人の間を吹き抜けていく。
――君が?
ええ。
あなたはきっと過去から未来に向けて歩いている。あなたの時間の中をまっすぐに。
でも、私の主観は逆に見ているかもしれない。
もし、そうだったら、素敵だな、って。
そうかい? 君は、僕と違う時間を歩んでいることが素敵だと思うの?
もし、もしね。私が、時間をさかのぼっているなら。
色褪せた想いだって、ただ過ごしていれば、きっとこれからどんどん鮮やかになるってことなの。
ある日、もう会えなくなってしまった人に会って、さよならを告げて、またそこから、美しい日々を暮らしていけるの。その人がある日、初めまして、って言いながら突然いなくなってしまうその時まで。
最後にはいなくなるって分かってるの。でも、いなくなってしまうその時が、一番、想いが強いその時だもの。
一番大切だと思える思い出が一番鮮やかに残るんだもの。
面白いことを言うものだな、と思ったけれど、僕はそれに何も相槌を打たなかった。
今、あなたに会えてよかったわ。あなたがいなくなるその日まで、よろしくね。
彼女が言ったとき、その瞳に最後まで残っていた茜の花が、ふっと枯れてしまった。
それが別れの言葉だと気づくのにかかった時間を測る目盛りは、もう彼女の目盛りとは別の位置を指していた。
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