大晦日の夜に、

稲富良次

第1話 朱の盤

六甲、朱色の洗面器


六甲山に入ったのは、日が完全に落ちきる直前だった。

空はまだ青を残していたが、風は夜の匂いを運んでくる。掬星台から見える街の灯りが一つ、また一つと点き始める頃、この山が「人の時間」と「そうでない時間」の境にあることを思い出す。


バーベキューは和やかだった。炭火の赤、肉の脂が弾く音、盃が触れ合う乾いた音。妖怪も宇宙人も、笑えば同じ顔をする。洗面鬼のことも、その時点ではただの余興のように語られていた。

「この辺りには、頭に洗面器を被った鬼が出る」

そんな話は六甲では珍しくない。


だが、夜半を過ぎ、テントに入ってから空気が変わった。


風が止み、音が消える。

山の夜に慣れた者なら分かる。これは静寂ではない。何かが近づく前の間だ。


最初に気づいたのは、金属の匂いだった。古い水と鉄が混ざったような、洗面所の奥に残る匂い。次に、ぴちゃり、と湿った音。

テントの外で、誰かが歩いている。


入口のジッパーが、内側から触れられた。


「……来たな」


誰かが低く言った瞬間、朱色が視界に割り込んだ。

頭に被っているのは、古い洗面器。だが新品のように赤い。縁から、とろりと何かが垂れている。血だと分かるまでに、時間はかからなかった。


洗面鬼――女。


顔は見えない。洗面器の内側が暗く、そこに何があるのか想像できないのが、何より恐ろしい。

彼女はゆっくりと一歩、踏み込んだ。テントの中の空気が一段冷える。


「返して……」


声は耳元ではなく、頭の中で響いた。

返す? 何を?


次の瞬間、洗面器が傾き、赤黒い液体が地面に落ちた。音はなく、ただ吸い込まれるように消える。

その液体が触れた場所から、草が一瞬で萎れた。


逃げ場はない。背後は山、左右は闇。

ここで向き合わなければ、夜は終わらない。


「奪った覚えはない」


そう告げると、洗面鬼は首を傾げた。

洗面器が、きい、と軋む音を立てる。


「……なら、思い出せ」


彼女が一歩近づくたび、胸の奥に違和感が走る。忘れていた記憶、流してきた感情、洗い流したつもりの何か。

洗面鬼は血を奪うのではない。人が捨てたものを集めている。


ここで逃げれば、彼女は消えない。

だから、こちらから踏み出した。


「思い出す。だが、返すのは血じゃない」


そう言って盃を差し出した。中身は清酒。白く濁り、湯気が立っている。

洗面鬼は動きを止めた。


朱色の洗面器が、ゆっくりとこちらを向く。

一滴、二滴と垂れていた赤が止まり、代わりに洗面器の内側で何かが揺れた。


長い沈黙の後、彼女は盃に触れた。

その瞬間、山の風が戻った。


洗面鬼は何も言わず、洗面器を正し、静かに後ずさった。闇に溶ける直前、かすかに笑った気がした。


翌朝、掬星台のテラスで改めて火を起こし、肉を焼いた。

洗面鬼はそこにいた。朱色の洗面器は乾いていて、もう血の匂いはしない。


盃が交わされ、肉が焼け、笑い声が上がる。

昨夜のことを誰も詳しく語らないのが、この山の流儀だ。


六甲は、何も奪わない。

だが、向き合わなかったものだけは、いつまでも返してくれない。


街に戻るケーブルの中で、振り返ると、山は静かにそこにあった。

また来い、とも、来るな、とも言わずに。

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