東湖麻美が泣いて、如月トーコが泣いた夜【1話のみ完結・カクヨムコン11短編】

ちかあまりく

東湖麻美が泣いて、如月トーコが泣いた夜

「すまん東湖とうこ、急に修正入った。」


その一言が、東湖麻美とうこあさみの「今日は定時で帰れる」という淡い希望を、いとも簡単に折りたたんだ。


17時30分。

パソコンの隅に表示された時計が、退社時間まで残り30分という数字を示していた。麻美はマウスから手を離して、今日は珍しく定時で帰れそうと思った矢先だった。


声をかけてきたのは、斜め向かいの席にいる晴人先輩だ。社内では、営業も制作ディレクションもなんでもやる人。少人数の会社で「なんでもできる」は、そのまま「なんでもやることになる」に直結する。


「……修正、ですか?」


麻美が反射的に聞き返すと、晴人先輩は申し訳なさそうに眉を下げた。


「新築マンションのチラシ。見学会の日程が変更になった。あと、来場特典も差し替えだってさ。」


麻美の視線が、先輩の手元のモニターへ移る。

赤と金。門松と水引。紙面の中央に配置された家族写真。まるで「新年の祝福」をそのまま印刷したみたいなデザイン。


――祝。


大きく踊るその一文字が、画面から浮き上がって見える。


「……新年見学会って書いてあるのに1月7日開始はちょっと変だと思ってたんですよね」


麻美が小さく呟くと、晴人先輩は「そうなんだよ。」と頷いた。


「こっちからも再三日程は確認したんだけどな。先方の社内で情報共有ができてなかったみたいで、1月3日からだと。」


「特典の変更点は?」


「来場者全員に百貨店の商品券1000円分がもれなく。あと、契約者向けの抽選会で家電が当たる」


麻美は息を吸って、背筋を伸ばした。

修正箇所自体は、文字数にしたら数行だろう。でも、文字が変わるだけじゃなくて、写真やイラスト素材も変更しないといけなかったり、注釈の小さい文字にも変更箇所があったりするのだ。


「修正した原稿を先方に確認して、そのあと、印刷会社に差し替え入稿まで……ですよね」


「そう。ごめん。年末で印刷所も混んでるし、今日中にやるしかなさそうで――」


「わかりました。やります。」


言葉にするときの声は、思ったより落ち着いていた。

自分でも驚くくらい、手が勝手に動き始める。一年目の新人デザイナー。焦りを顔に出したら負け、みたいな変な意地がまだ残っている。


けれど心の中では、別のカウントダウンが始まっていた。


(……二十時までに帰りたい)


今日だけは、どうしても。


理由は言えない。絶対に。

実は麻美には、会社には存在しないもう一つの名前がある。


如月トーコ。VTuberとしての名前だ。


VTuberとして活動していること自体、会社には秘密だ。副業禁止がどうこうじゃない。説明した瞬間に「じゃ、こういうのを作ってよ」って変な頼まれごとが増えそうな気がして怖いだけ。面倒ごとは増やしたくない。


ましてや今夜は、さらに説明不可能な理由がある。


VTuberの笹之原シズ。

麻美は如月トーコとしてキャラクターデザインを担当した。Vtuberの世界では、キャラを描いた人は「ママ」と呼ばれることがあるが、如月トーコは笹之原シズの「ママ」なのだ。最近は仲良くなって麻美はシズのことを『シズっち』と呼んでいた。


そのシズっちの――生誕一周年記念配信が、二十一時から始まる。


こんな大事な日に残業したくなかったのに……


喉の奥に苦いものが引っかかる。

今日は12月24日、クリスマスイブ。街はきっと、ケーキの甘い匂いで満ちている。なのに自分は、数字の差し替えと文言の調整で、締め切りの空気を吸っている。


麻美は画面を開き直し、修正箇所を洗い出す。

「見学会開催日:1/7〜」になっている部分を「1/3〜」へ。曜日も変わる。注意書きのの文言も、矛盾しないよう整える。来場特典の文章と特典画像も差し替えが必要だ。


チラシを一通り眺めると、中央の家族写真が目に入った。


笑顔。

柔らかくて、完璧で、眩しい。


麻美はその笑顔を見つめ、ふっと鼻で笑った。


……いいな。こういう「祝」の中にいる人たちは


思ってしまった自分に、また苦笑が漏れる。


こんな小さな広告代理店のデザイナーの仕事は、華やかじゃない。

 「祝」の字を踊らせて、誰かの門出を彩っても、自分が祝われるわけじゃない。チラシは、完成した瞬間に次の修正がやってくる。


それでも――今日は帰りたい。

シズっちの一年を、祝ってあげたい。



    ◆



十八時半。


会社の空気が、じわじわと「残業モード」に染まっていく。

外の街がクリスマスイブの色を濃くしていくのとは逆に、ここでは蛍光灯の白さだけが冴えて、机の上の書類がやけに現実的に見えた。


印刷物の修正は、デザインそのものより、確認のほうが大変だ。

麻美は変更した箇所に抜け漏れがないか、正しく修正できているか確認する。日付や金額の間違いは命取りだ。


紙面にある大きな「祝」の字が目に留まる。


新年だから。おめでたいから。「祝」の字が大きいのは当たり前だ。


でも、今の麻美には、その「祝」が少し遠い。


自分には、クリスマスイブを誰かと過ごす予定もない。

ケーキもない。年末年始も実家に帰る以外に予定もない。


東湖とうこさん、コーヒー飲む?ミルクと砂糖はいる?」


斜め前の席で晴人先輩が立ち上がり、給湯室のほうを指さす。

その声が、麻美の思考を現実に引き戻した。


「先輩、ありがとうございます。ミルク入れて、砂糖多めで」


麻美が答えると、先輩は「了解」と軽く笑って、給湯室へ消えた。


甘いコーヒーは、麻美にとって小さな安全装置だ。

気持ちが焦っても、舌に残る甘さが「大丈夫、落ち着け」と言ってくれる。


修正したPDFを添付して、先方の担当者へメール送信。


送信ボタンを押した瞬間、麻美の胸の奥が少しだけ軽くなった。

しかし次の瞬間には、別の重さがやって来る。


返信、すぐ来て……お願い


年末だ。担当者が席を外している可能性もある。


麻美はスマホを机の隅に置き、通知を見逃さないようにする。

心臓が、妙に早い。


そのとき、晴人先輩が湯気の立つマグカップを差し出した。


「ほい。砂糖、入れすぎたかも」


「大丈夫です。むしろ、もっと欲しいくらいで」


麻美がそう言うと、先輩は肩をすくめた。


「甘党だなあ」


「疲れると甘いのが必要なんです」


口に含んだコーヒーは、思った以上に甘かった。

コーヒーの温かさと砂糖の甘さが、喉を通って胸の奥に落ちていく。少しだけ、呼吸が整う。


晴人先輩は自分の席に戻りつつ、ちらっと麻美の顔を見た。


「……今日、なんかある?」


麻美は笑って誤魔化した。


「え、どうしてですか」


「いや、なんとなく。いつもと違う気がして。」


麻美はコーヒーを見つめて、言葉を探した。

真実を言うわけにはいかない。かといって嘘を重ねるのも得意じゃない。


「……ちょっと、楽しみにしてることがあるだけです」


それだけ言うと、晴人先輩は「そっか」と頷いた。


    ◆


十九時二十分。


まだ先方の担当者から返信が来ない。

麻美の指先が、無意識に机を叩きそうになる。


焦るな。私。


麻美は目の前の修正版の原稿をもう一度チェックした。

数字。曜日。全部正しい。正しいはずだ。正しいと思う。でも、人間は自分の作ったものほど見落とす。


紙面は完璧に華やかで、家族の写真は全員にっこりと笑っている。

……それなのに、今の自分の表情はどうだろう。


麻美は、そっとディスプレイの黒い縁に映る自分の顔を見た。

目に疲れがみえる。口元も、笑っていない。


わたし、表情を描くのは得意なのに、自分の表情はうまく作れないな。


麻美は、昔からキャラクターを描くのが好きだ。

キャラクターの目がほんの少し伏せるだけで、感情が伝わる。

口元が僅かに上がるだけで、「強がり」だって分かる。


それが好きで、たまらなくて、夢中になれる。


――如月トーコ。


麻美が自分で作ったVTuberの名前。

大学4年生のときに作った自作のモデル。何百個のパーツを描いて、何百時間もかけて、目の揺れ、口の動き、頬の赤み、息を吸うときの表情まで作り込んだ。


バイトみたいに給料がでるわけじゃない。

でも、バイトよりずっと楽しかった。


その世界に、シズが入ってきた。


   ◆


――最初にシズっちからメッセージが届いた日のことを、麻美は今でも鮮明に覚えている。


Vtuber用のDMに届いた、丁寧な文章。


『はじめまして。歌ってみた配信をしている笹之原シズと申します。

トーコさんのVtuberモデルを拝見しました。もし可能でしたら、わたしのVtuberのモデルを制作していただけませんか』


最初に胸を突いたのは、喜びじゃなかった。


わたしでいいの?


不安。期待されることの恐怖。


でも、次に続いた一行に目が留まる。


『表情がすごく好きです』


表情。


デザインで言われる「いいですね」は、だいたいレイアウトや色味の話だ。

表情を褒められることなんて、ほとんどない。


麻美はその文を何度も読み返した。

嬉しいのに、怖い。

認められたいのに、失敗したくない。


だからボイスチャットで直接話してみることにした。

逃げずに、向き合ってみようと思った。


初めて聞くシズの声は、落ち着いた声だった。


『……Vtuberのトーコさんの表情は、演出された可愛さじゃないんです。

ほんの少し、ためらう顔とか。照れたときの目線とか。そういうのが、すごく好きで』


麻美は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。


――見てくれてる。


自分がこだわって作った「表情」を、ちゃんと見てくれている。


あの瞬間、麻美の中で何かが、静かにほどけた。



   ◆



十九時四十分。


スマホが震えた。麻美はほとんど反射的にメールを確認する。


先方からの返信。


――内容問題ありません。こちらで進めてください。


「……来た」


声が漏れてしまう。


「来た?」


晴人先輩が顔を上げる。


「はい。確認OKです」


「よし。じゃあ印刷所への差し替え入稿、俺がやるわ」


晴人先輩はすぐに作業に入ろうとして、途中で手を止めた。


「東湖さん、今日はもう上がっていい」


「え……でも」


「いい。俺がやる。今日は……たぶん、大事な日だろ」


理由は聞かれない。

何か見透かされている。


嬉しさと恥ずかしさとの両方が、喉の奥で混ざって、変な熱になる。


「……ありがとうございます」


麻美がそう言ったとき、晴人先輩は、その表情を見て、安心したように笑った。


「いまが一番いい顔をしてる。無理してない感じ」


麻美は、返事ができなかった。

ただ、軽く頭を下げて、荷物をまとめた。


クリスマスイブの残業。

地味で、泥臭い仕事。それでも、こういう「わかってくれる人」がいるだけで、世界は少しだけ優しくなる。



    ◆



会社を出ると、街は光で満ちていた。


イルミネーションが、冬の空気を甘く見せる。

駅へ向かう道には、ケーキの箱を抱えた人、花束を持った人、笑いながら歩くカップル。


麻美はその中を、一人で歩く。


でも、寂しいだけじゃない。

今夜は、帰って「やりたいこと」がある。


電車に乗り込み、窓に映る自分の顔を見た。

疲れた表情。でもさっきより、目が少しだけ元気に見える。


スマホのカレンダーにリマインダー通知。

配信開始まで あと20分


間に合う。大丈夫。

シズっち待っててね。もうすぐ家に着くから。



    ◆



――シズちゃんが麻美に会うために愛知から東京に来た日。

そのとき麻美は大学4年生でシズちゃんは大学3年生だった。


改札前の待ち合わせ場所にやってきたシズちゃんを見て、麻美は固まった。


(……すごい美人)


シズちゃんは、黒髪が綺麗で、背が高くて、白い肌が駅の光を柔らかく跳ね返していた。目元が穏やかで、でもどこか色っぽい。


「……顔出しして配信しないの、もったいなくない?」


麻美が思わずそう言うと、シズちゃんは少しだけ頬を赤くして笑った。


「……VTuberが好きなんです。あと、親から顔出しはNGって言われていて……」


言葉の端が曖昧になる。麻美もVTuberであるので、それ以上深入りしなかった。


その日は、表情資料用にシズちゃんの表情の撮影をした。

笑った顔、困った顔、照れた顔。


「目線、少し右に……うん、その感じ」


「こう、ですか……?」


「今の、めっちゃ良い。『言いたいことあるけど飲み込んでる顔』」


「……そんな顔してました?」


「してた。シズちゃん、それ得意かも」


麻美がそう言うと、シズちゃんも小さく笑った。


それからカラオケ。


シズちゃんの歌は、上手かった。

声の出し方も、息の混ぜ方も。そして、歌っているときの表情が、すごく『本物』だった


この人、ちゃんと積み重ねてきたんだ


麻美はそう思った。

練習してきた人の見せる表情。続けてきた人が持っている表情。


VTuberの制作の話になると、二人とも熱が入った。


「ここ、口角の上がり方をもう少し抑えたい」


「わかります……可愛いより、“ふふ”って余韻が欲しいです」


「うん。余韻、大事」


発注する側と発注される側の関係じゃなかった。

どっちかが偉いわけでもない。


“わたしたちで作る”。


その感覚が、麻美には心地よかった。



    ◆



家に着くと、麻美は靴も揃えずに部屋へ滑り込んだ。


玄関の静けさ。

一人暮らしの部屋の空気は、やっぱり少し冷たい。


でも、迷う暇はない。


パソコンを立ち上げる。シズっちの配信チャンネルを開く。


配信開始まで、残り数分を切っていた。

麻美はゲーミングチェアに座り、息を整える。


……一周年だ


たった一年。

でも、一年続けるのも簡単じゃない。


麻美自身も分かっている。

VTuber個人勢として、一人で配信を続ける大変さ。

視聴者が少ない日も、落ち込む日も、やる気が湧かない日もある。


それでも、続けてきた。


シズっちも。そして、自分も。


麻美はスパチャの入力欄を開き、短い言葉を打ち込む。


――シズっち、生誕1周年おめでとう。


金額を確認し、送信。


画面が切り替わり、配信が始まった。


「みなさん……よろしず~。笹之原シズです」


いつもの挨拶。

でも、今夜は少しだけ声が弾んでいる。


チャット欄が流れる。

おめでとう、の嵐。

花の絵文字、ケーキの絵文字、祝の絵文字。


シズっちが少しずつコメントを拾う。


「……ありがとうございます。こんなに……」


そのとき、シズっちの目が少しだけ大きくなった。


「……あ」


麻美の送ったスパチャに気づいたのだろう。

シズは一瞬だけ言葉を探すように間を置いてから、ゆっくりと笑った。


「トーコちゃん、ありがとう」


その声が、麻美の胸を一撃で撃ち抜く。


「……シズを描いてくれて、ありがとう。この身体で、この表情で……一年、がんばれました」


麻美の喉がきゅっと締まる。


そして次の瞬間、チャット欄の流れが変わる。


トーコママありがとう。

ママも一周年おめでとう。

シズちゃんの表情が好き。

シズちゃんの笑顔、トーコママのおかげ。


トーコママありがとう。

トーコママおめでとう。


祝福が、画面いっぱいに溢れる。


麻美は、しばらく動けなかった。


祝うつもりで来たのに。

祝われる側になるなんて、思っていなかった。


クリスマスイブも残業だった。

年末は地味な仕事ばかりだった。

華やかな「祝」の字を作っているのに、自分は祝われないと思っていた。


でも、今は違う。


麻美がこだわった表情。

麻美が積み重ねた時間。

麻美が続けた一年。


それが、ちゃんと誰かに届いている。


涙が、頬を伝った。


――――続けてきてよかった。シズに会えてよかった


画面の中のシズは、まだ笑っている。

その笑顔は、作り物じゃない。確かに、ここにある表情なんだ。



    ◆



配信がひと段落し、部屋に静けさが戻る。


麻美は、ゆっくりと立ち上がって冷蔵庫を開けた。


奥に、一本のビールが転がっている。


会社に届いたお歳暮のビールだ。

 「一人一本ずつ持って帰っていいぞ」と言われて、なんとなく持ち帰ったもの。


独りで飲むビールは、どこか寂しくて。ずっと、そのままにしていた。


でも――今は違う。


「……今日は、お祝いだよね」


麻美は小さく呟き、プルタブを引いた。


ぷしゅ、という音が、静かな部屋に響く。

それは、思っていたよりずっと軽やかな音。


グラスに注ぐと、泡が立ち上がる。

麦の香りがふわりと広がり、胸の奥が少しだけ緩む。


麻美は一口飲んだ。


少し苦い。でも、その苦さが嫌じゃない。


部屋には一人だけれど、孤独じゃない。

画面の向こうの「おめでとう」が、今も胸を温めてくれる。


麻美は、グラスを軽く持ち上げた。


「おめでとう、シズっち」


そして、少しだけ照れくさくて、でも確かに言いたくて。


「……おめでとう、如月トーコわたし


今日は祝日なんだ。

麻美は卓上カレンダーを手に取ると、赤いペンで大きな丸を描いて12月24日を修正した。






――――

あとがき


ちかあまりくです。

年末の深夜に書いた短編です。いかがでしたでしょうか?

みなさん、仕事で泣くことありますよね。私もよくあります。


この短編ではトーコとシズちゃんの出会いのシーンも少し触れることができました。カクヨムコン11短編にエントリーしていますので、レビューいただけたら幸いです。


「トーコ」と「シズちゃん」と「晴人先輩」は下記の作品にも登場しています。

テイストがちょっと異なる甘々ラブコメです。こちらもご覧いただけたら嬉しいです。


美少女Vtuberが近くて甘い!防音マンション管理人の配信者生活♡【ぶいあま】


https://kakuyomu.jp/works/822139840068342239/episodes/822139840068633067



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