厄落としは、真っ赤なスポーツカーに乗って ——最後から二番目の恋は、カレーの香りと共に——
比絽斗
第1話 厄落とし、あるいは、空っぽになったガソリンタンク
結婚三年目。 石の上にも三年というが、俺が座っていたのは石ではなく、時限爆弾だったらしい。 それも、記念日の前夜にきっちり爆発するようにタイマーがセットされた、最高に悪趣味なやつだ。
九月二十三日。 秋分の日。昼と夜の長さが同じになるその日に、俺の人生の「光」と「影」のバランスは見事に崩壊した。 郊外の国道沿い、古びた城のような外観のラブホテル。 そこへ、俺がローンを払い続けている愛車が、吸い込まれるように消えていったのだ。
運転席には、寿退社をして「家庭という聖域」を守っているはずの妻。 助手席には、俺ではない男。 おまけに、妻が俺の車を運転している。 これ以上に完成された皮肉が、この世にあるだろうか。 俺の稼ぎで買ったガソリンで、俺以外の男を乗せて、俺が一度も連れて行ったことのないホテルへ行く。 もはや、怒りを通り越して、脚本家の構成力に拍手を送りたくなった。
翌日。本来なら記念日のディナーで乾杯していたはずの指で、俺は弁護士事務所の呼び鈴を鳴らした。 紹介された調査会社の報告書は、実に「健康的」なものだった。 不倫相手は、妻が通うフィットネスクラブのインストラクター。 週に一、二回。 なるほど、筋肉を鍛えるついでに、夫婦の絆は完膚なきまでに破壊していたわけだ。 プロの指導による不倫。道理で、俺への態度は日増しに柔軟性がなくなっていたわけである。
十一月中旬。 冬の入り口で、俺たちは「現場」で再会した。 ホテルの回転扉から出てきた二人の顔は、まるで運動したあとのような爽やかな表情で、それがまた俺の神経を逆撫でした。 「……あ、お疲れ様」 咄嗟に出た自分の言葉に絶望した。 会社の後輩じゃないんだ。そこは「ふざけるな」と言うべきだった。
そこからの師走は、まさに文字通り「師」だけでなく「夫」も走り回る羽目になった。 慰謝料の算定、財産分与、そして「愛車をどうするか」という不毛な議論。 協議離婚が成立したのは、十二月二十六日。 世間がクリスマス・ツリーを物悲しく片付け、門松の準備を始める頃、俺はようやく「元・夫」という肩書きを手に入れた。
一月一日。 元旦。 予定では、独り身の侘しさを噛み締めながら、賞味期限の怪しい餅でも焼いて寝正月を決め込むつもりだった。 だが、窓の外の太陽が、これでもかというほどに「おめでたい」光を放っている。 その能天気な明るさが、今の俺には救いというより、むしろ「さっさと動け」という無言の圧力に感じられた。
「……厄除け。そうだな、厄落としが必要だ」
俺は重い腰を上げ、クローゼットから一番厚手のコートを引っ張り出した。 向かうは、近所の神社。 神様。 もし本当に八百万も神様がいるのなら、そのうちの一人くらいは、自分の車で不倫現場に乗り込まれた男のケアを担当してくれてもいいはずだ。
参道の砂利を踏みしめる。 ザッ、ザッ。 この音が、今の俺に残された数少ない「確かなもの」だった。 賽銭箱に放り込んだ五円玉が、妙に軽い音を立てる。 ご縁がありますように? 冗談じゃない。 しばらくは、縁なんてものは、おみくじの「待ち人」の欄を眺める程度で十分だ。
手を合わせ、目を閉じる。 願うことは一つだけだ。 (神様、去年の汚れはすべてあのホテルに置いてきました。今年の俺の人生には、せめてハイオク満タンくらいの幸運を注いでください。……あと、もう愛車を不倫に使わせるような真似はさせないでください)
パンパン、と二回。 冷たい空気に響く柏手は、どこか空虚で、それでいて清々しい。 おみくじを引くと、結果は『中吉』。 【旅行:さわりなし。失物:出がたし。縁談:急ぐな】 「……急ぐわけないだろ。こっちはまだ、ブレーキ踏みっぱなしなんだから」
自嘲気味な独り言を吐き出しながら、俺は境内の脇で売られている甘酒に目を向けた。 人生二度目の独身生活。 そのスタートラインは、どうやら麹の甘い香りと、冷え切った指先の感覚から始まるらしい。
悪くない。 少なくとも、あのラブホテルのネオンよりは、ずっとマシな光だ。
【to the next】
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