ナマエノカタチ

三軒長屋 与太郎

ネーミング・ハラスメント


 1998.10.6


秋の訪れに日本中が少し穏やか心地でいた時分に、その事件は起きた。

日本犯罪史上かつてない程の極悪極まりない犯行は、国内に留まらず世界中を震撼させた。


犯人の名は『相原 十四章(アイハラ トシアキ)』。年齢は当時36歳で、名古屋の銀行に勤めるごく普遍的な男だった。

事件後の十四章は抗う事なく、自首に近い形で素直に逮捕され、捜査にも至極協力的であったという。


しかし、肝心の犯行動機だけはハッキリとしなかった。

十四章が「鬼を退治しただけだ」と繰り返し、明確な意図を避けたからである……。

故に、この事件は『平成の鬼退治事件』として世に広く知れ渡り、その後、都市伝説的に“相原 十四章は正義の桃太郎であった”までとする論調が出始める程であった。


当時大きな事件であった為、弁護士団が組まれ、相原 十四章の精神異常を訴えようとしたが、十四章はそれを頑なに拒み、結果、あえなく死刑が宣告されたのであった。


これもまた、十四章を正義とする少数派の背中を押す要因となった。

とは言え、事件の全貌を把握するには、その動機が非常に重要であり、十四章に課せられた刑は執行される事なく、今年で17年の年月が経った——



◆◇◆



時は2015年を迎えた。


事件当時12歳であった少年も、今は29歳の男となり、明日1月22日を以て、30歳を迎えるところであった。

男は大学時代からの仲である3人に囲まれて、今まさに21日から22日へと移りゆく時刻を待っていた。


〚お誕生日おめでとう!〛


時刻が0:00を指すと、掛け声と共にクラッカーが鳴らされた。

あの何とも言えない火薬の匂いが、小さなバーの中に充満し、男は向け所の無い嬉しさを、不器用な笑みで表した。


「お前もやっと30歳の仲間入りだな」

大柄な男は、バーカウンターに上半身をぐいと乗せ、一際大きなグラスを片手に叫ぶようであった。


右から飛んで来た大声に顔を顰めながら、次に、真ん中に座る小柄で目尻のつり上がった鋭い眼光の女が話した。

「あんたたちとこの歳になっても集まるなんて。

やっぱり、私の名前は呪われているみたい」


深刻な語り口調ではあったが、終始にこやかであった為、それが冗談だという事は理解出来たし、そもそもこの4人の繋がりはまさに“名前”であった。

物静かにクラッカーの残骸を拾い集めるバーテンダーの男を含めた4人は、大学時代に所属していたゴシップサークルの同期である。


大柄な男の名は和幸(カズユキ)、女は絹枝(キヌエ)、そしてバーテンダーの男は鉞 金次(マサカリ カネツグ)と言い、この其々が、過去に起きた凶悪犯罪の犯人たちと同姓同名であった。

特に金次は、ただでさえ珍しい名前な上に、漢字まで一緒であった為、成人後に起こした裁判にて事情が鑑みられ、名前を変えて、今は康司(コウジ)と名乗っていた。

そして、今日30歳を迎えた男の名は、哀原 十四章(アイハラ トシアキ)であり、鬼退治事件の犯人と名字の漢字こそ違えど、名前はピッタリ同じ同姓同名であった。


「それにしてもムギは…」

4人は大学時代から、其々の名前の性質上、それとは全く関係の無いあだ名で呼びあっていた。


和幸は声も体も大きいから“ダイ”で、絹枝は動きが倒れた後の独楽の様に騒がしかったため“コマ”と……そして康司は、名前こそ変えたが昔の名残りのまま物静かな“セイ”。

哀原はというと、四人の初対面時に、何故か麦藁帽子を被っていたインパクトがそのまま採用され、皆に“ムギ”と呼ばれていた。


——この小説も、以後はこの4人目線に呼び名を変えることとする——


 やはり、ダイが口火を切る。

「結局、名前を変えずに30になったな。

セイちゃんは大学在学中には変えたってのに」


「そうね。

私やダイは事件自体が随分昔だし漢字も違うから、特段社会生活に支障は無いけど、ムギは今でも言われるんじゃない?」


ダイとコマを安心させるように、ムギはのうのうとした態度で答えた。

「俺は仕事柄、得する事が多いからね。

名前を覚えられてなんぼな商売だし、なんであれば悔しいけど、この名前のお陰で繋がった仕事もいくつかあるよ」

それも確かだなと2人は納得した。


ムギは有名ゴシップ誌のライターであった。

ダイはやっかむ。

「セイちゃんもムギも羨ましいぜ。

2人は大学時代のまま、生き生きとゴシップを楽しんでる感じだ。

俺たちは今や、低俗で価値の無い芸能ゴシップに囲まれたしがないサラリーマンさ」


これに、すかさずコマが反論する。

「ちょっと、アンタと一緒にしないでくれる?

私は今でも本を読み漁ったりなんかしながら、未解決事件を追ってるわ。

まぁ、確かに趣味の範疇ではあるけどね」


クスクスと2人のやり取りを笑った後、セイがか細い声で話し始めた。

「ムギはそうかも知れないけど、僕は大したこと無いよ。

ただの小さなバーの店主さ。

お客の相手をする為に、しょうもない記事やワイドショーにも目を通さなきゃならない。

いざ仕事となれば、大好きなゴシップも詰まらなくなる。

特に、僕が好きなのが“歴史ゴシップ”だってのは知ってるでしょ?

お客さんが話す時代劇や歴史うんちくの話題なんて、僕からしたら地雷原の真っ只中さ。

それでもグッと堪えて、気持ち良く酔ってもらう。

……思ってるよりも中々に、堪えるものだよ」


コマが納得する。

「確かに、そもそもダイには無理ね。

あんただったらすぐ指摘しちゃうでしょ?

目を輝かせながら、(それは実はこうなんですよ!)って」


コマの皮肉に、ダイは反論せず頭を抱えた。

「やめてくれ……。

つい最近やっちまったばかりなんだ。

良くしてくれてる商談先の社長と呑みに行ってな。

社長がやたらとA教団の話をしてくるから、ランクの話題が出た時、つい親身になって忠告しちまったんだ。

(そこの教団は気をつけた方が良い)ってな。

その呑み以来、音信不通さ……」

ダイは大きく溜め息をついたが、コマは手を叩いて喜んだ。


「ダイの前で、宗教の風呂敷を広げたその社長が悪いよ」

ムギはダイを庇って続けた。

「よりによってA教団なんて……。

御嵩 一順(ミタケ カズユキ)の話はしたんだろ?」


——これは、戦後の日本でその名を轟かした宗教犯罪人の名であり、ムギの“十四章”と似ており、今ではその考え方の断片が抽出され、一部でヒーロー化している人物であり、ダイの同姓同名であった。

更に、A教団とはこの“御嵩 一順”の考えを教訓に取り入れた新興宗教であった為、ダイがその社長に忠告するのはごく自然な流れであった。


「そもそも俺と仲良くしてくれてたのが、この名前ってことさ」と、ダイは悄気て見せたが、すぐに声色を明るくした。

「まぁでも、今日はムギの誕生日だ。

俺の愚痴なんてのはどうでも良いんだよ。

30歳の目標でも話してくれよ」


「目標って訳でもないんだけど…」

ムギは全員を順番に見やって、少し深刻な面持ちで、自らの意を決する様に語り出した。


「実は、次の仕事が決まってね……。

そいつが俺の人生を変えるかも知れない大一番なんだよ」


ここでまた、ムギは全員を順番に見やった。

「極秘中の極秘だから、正式に記事になるまで、黙って要られるか?」


勿体ぶるムギにダイは「言わん!」、コマは「早く!」と焚き付け、セイは静かにムギを見つめ続けた。


「……実は今回、俺の企画が通ってね。

死刑囚の取材に行くんだ。

相原 十四章の……」


三人は目を大きく広げて、同じ顔で驚いた。





ただでさえ、BGMが控えめで静かなセイの店は更に静まり返り、今や隣の店の笑い声が漏れ聞こえる程であった。

皆がムギにどう接すれば良いのか分からず、きっかけとなる一言目を懸命に探し回った。

そんな3人とは対照的に、ムギは、(やっと言えた!)という安堵から、満ち足りた表情で其々の顔を見渡した。


最初に言葉を絞り出したのは、またしてもダイであった。

「ソレってのはつまり、お前のトラウマたる男でもあり、そもそもが死刑囚に直接会うって事か?」

「直接って言っても勿論ガラス越しだし、当たり前だけど、立会人の刑務官もいるさ」


続いて流れる様に、コマが質問をした。

「それを、自分で企画したですって?

だって貴方、その事件が原因で酷い虐めにあったんじゃない。

張本人である死刑囚に自ら会いに行くなんて、どうかしてるわ……」

 

 ——事件当時、12歳と多感な時期であったこともあり、小学6年生から中学3年生迄の間、ムギは陰湿な虐めにあっていた。

直接暴力を振られたりといった事は数える程しか無かったが、周りの殆どの人間は、ムギの存在を無きものとして無視を貫き、それは教鞭を振るう教師の中にも見当たる程である。


ムギも、最初こそしんどい思いをしていたが、正直言うと、中学2年生になる頃には慣れ始めており、元の性格も相まって、どちらかと言えば楽なくらいであった。

これといった友人も居らず、授業中に先生から名前を呼ばれる事も無いまま、凪のように……ムギの中学生活は過ぎ去った。


しかし、両親は違った。

元々地域活動にも活発であった母は、次第に家に引きこもる様になり、その捌け口は父へと向かい、ムギの家は、日に日に嫌な匂いが立ち込めた。


なんで私たちがこんな目に遭わなくてはならないのか……。

なんで私たちは、ひとり息子に、こんな酷い名前を付けてしまったのか……。


「僕は大丈夫だよ」とムギが何度説得しても、母親の悲壮感は増すばかりであった。


元々仕事人間であった父親は家に居着かなくなり、地域との社交性とマスメディアを遮断した母親は、凄まじい勢いで老け込んだ。

そんな両親を見兼ねたのもあり、ムギは高校から一人暮らしをする事にした。

両親……特に、母親はこれに猛反対したのだが、高校を通信制とし、生活費はバイトで稼ぎ、実家から車で10分程度の所に住むという条件で、何とか了承を得た。

自分がこうする事で、家の中での悩みが減り、更に、母親も外に出掛ける口実が出来る……と、若いなりに考えてのことであった。


実際に、ムギの両親はこれを境に活力を取り戻した。

母親は、掃除洗濯は勿論、食べ物は食べれているかと余計な程にムギの住む家に通い、それがとても楽しそうであったし、父親も、言葉数は少ないながらに、陰気な言葉が失せた我が家を満喫していた。


しかし…、当のムギは余り宜しく無かった……。

通信制高校の少ない登校日数は良かったのだが、問題はバイトであった。

学校教育とは違う“社会”というものにいち早く触れたムギは、そこで初めて、自身の持つ名前の真の恐ろしさを痛感したのである。

落ちた面接は数知れず……受かった勤め先でも、やはり周りとの距離間は変わらなかった。


面接にしてみれば、そもそも特段愛想が上手いといった訳でもなかったし、年齢を鑑みても(全てが名前の所為では無かったであろう)と、大人になった今はそう思えたのだが、同僚との距離間は大きな問題であった。

学校では周りと距離を置き、敢えて独りになる事で耐えられるものもあったのだが、こと仕事場という社会に於いてそれは実務放棄であり、コミュニケーションを取れないムギは仕事が捗る筈もなく、自ずと淘汰されては、職場を変える事を余儀なくされた。


そんなことを繰り返しているうちに、今迄は平気であった疎外感が、将来への不安、そして、自身に向けた疑心へと変貌を遂げ、ムギは、遂に外へ出る事が怖くなってしまったのだ。


当初の約束のうち、(生活費をバイトで稼ぐ)を破ってしまったのだが、母親はそんなムギを変わらず支え、父親は仕送りを稼いでくれた。

そんな優しさがムギには耐え難く、この高校在学中の3年間が、消えないシミとなって心にへばりついた——


それでも気持ちを受験勉強へと向ける事で、何とか事なきを得ると、大学に入学後、直ぐに自分と似た悩みを持つ者たちと出会えた事で、ムギは救われるのであった。

そんな過去を全て知っている面々だからこそ、ムギの発表は驚くべきことであり、コマの「どうかしてるわ」と言った心情も、なんら可怪しくなかった。


「そうだね……。

どうかしてるのかも知れない。

でも実は、三年位前から編集長には相談していたんだ。

自分の中でどうしても決着が付けたかったし、自分だからこそ出来る取材、『哀原 十四章』が『相原 十四章』に聞くからこそ、書ける記事があると思ったんだよ。

勿論、俺たちと同じ悩みを持つ人たちの為になればとも、思ってはいる」


「とんだジャーナリズムだわ」とコマは呆れ、ダイも小刻みに首を振った。


しかし、セイだけは真正面から応援した。

「なんだよ二人とも。

とても凄い事じゃないか。

そりゃ、ムギの心が心配なのは勿論だけど、きっと途轍もない話題になるよ。

我がゴシップサークル自慢の出世頭間違い無しさ。

なんなら僕も喜んで取材協力するよ。

名前を変える手続きだったり、何でも聞いてくれて構わない」


セイはいつになく興奮気味に舞い上がっていたが、ダイとコマは相変わらずであったし、2人の心配の種は別にあるようであった。

「そりゃ私たちだって応援するし、いくらでも取材協力するわよ。

でも『平成の鬼退治』はね…」

コマは言葉尻を濁すと、アンタが適任でしょと言わんばかりにダイを見た。


そして、ダイはそれに応えた。

「良いか、セイ。

お前が好きな歴史ゴシップや俺の宗教ゴシップ、それに、コマが調べてる未解決事件なんかと、今回の『平成の鬼退治』は、全く以て、毛色も性質も違うんだよ」


「なんでさ?」

セイは不満気な顔をしながら、ダイの緑茶ハイを注いで出した。


「例えばだぜ。

本能寺の変の黒幕が豊臣であったとして……」

「その説はもうだいぶ薄まってるよ」

「例えばだって言ってるだろ!」


ダイの大きな声に押されて、セイはまた元通り静かになった。

「それが真実だとしても、今を生きる俺たちにはなんら変化をもたらさない。

どんなに有名な宗教家の化けの皮を剥いでも、信仰心の前には爪痕も残らない。

未解決事件だってそうだ。

ただ未解決だった悪が、確実な悪に変わるだけさ。

でも……『平成の鬼退治』の様な、既に解決している“近代ゴシップ”ってやつは訳が違う」


「そうよ。

良く分かってるじゃない」と、コマはダイを褒めて往なすと、大事な大トリは見事に掻っ攫った。

「つまり、私たちが心配してるのは、ムギの心よりも命そのものよ。

それこそ例えば、私たち国民には“謎”とされている犯人の動機が、実は公に出来ないものであり、警察や裁判所の公表が捻じ曲げられたものであったら?

それが、日本の国政を揺るがしかねない正義の信念だったら?

しかも、よりによって『平成の鬼退治』なんて。

セイちゃんも知ってるでしょ?

あの事件の被害者となってしまった方……政治家、病院理事、ホステス、みぃ〜んな事件後に黒い噂が絶えないわ。

それだから、相原は一部都市伝説界隈で、桃太郎としてヒーロー化してるんじゃない。

世間が許し得ない結果が出たら、そりゃ記事は売れるでしょうね。

でも、もし都市伝説が事実であってしまった場合、相手は国よ。

ムギなんて塵も遺されないわ」


コマは熱のこもった長台詞を言い終え、つり上がった目尻を更に尖らせて全員を見渡した。



 どこまでも深く沈みゆく空気を払拭するかの如く、「明日は金曜日だぜ」とダイが合図を出し、一同は解散することにした。

其々が店を出るのを見送ったセイは、そのまま入り口の看板をひっくり返して「Closed」とする。

時刻は深夜2時を回る頃であった。


「少し早くないか」と尋ねるダイに、セイは「こんなニュースの後に店なんてやれないよ」と返しながら手を振った。

店を後にした3人はそのまま、路地裏から大通りへと向かった。

特に誰も言葉を紡ぐことなく、夜の冬空に凍えた。


大通りへと出ると、ダイはその恵まれた体格を大いに生かしてタクシーを2台止め、先の車両に乗り込むと、それにコマが続いた。

「このまま真っ直ぐ。

言問橋(ことといばし)を渡って下さい」


運転手に行き先を告げると、ダイは真剣な表情でムギに忠告した。

「取材の件、俺たちに逐一、報告しろよな。

分かってるだろうけど、どこにもリークしないし、早く知りたいからじゃない。

俺たちは——」


言葉を遮ってタクシーの扉は閉められ、そして発車した。

ムギは、後部座席であたふたと悶えるダイと、手を叩いて笑い転げるコマのシルエットを見送りながら、その優しさに感謝した。



 ——日付変わらず朝8時、ムギは東京駅にいた。

今回の取材は編集長同席で、共に仙台へと向かう為だ。

自分から言い出した事とは言え、ムギは少々緊張していた。


新幹線ホームの改札で待っているムギの所へ、編集長が現れた。

「いやいやお待たせしたね。それでは向かいましょうか」

編集長は、恰幅の良い大柄な男だったが、それを感じさせない程、猫背且つ低姿勢であった。


東北新幹線に乗り込んだムギの緊張は、車内でも治まる事は無かった。

それどころか、仙台が近付くに連れて、より身体は強張り、何を飲んでも喉が渇いた。

編集長はというと、軽くいびきを掻きながら、だらしなく口を開いて眠っていた。


編集長の丸い身体のフォルムから覗く車窓の田園風景を眺めながら、ムギは自らの脈拍が落ち着くのを願った。

しかし、結局仙台に着くまで、ムギの心拍数が正常値に戻ることは無かった。


仙台へと降り立つと、編集長は徐ろに提案した。

「仙台と言えば、昔からの思い出の店があるんですよ。

時間もあるし、ご飯でも食べてから行くとしましょう」


真ん丸な身体を揺らしながら、編集長はひたすらに長い商店街を歩いて進んだ。

そして、この男の言う“思い出の店”『半田屋』に到着した。

様々な品々が並ぶショーケースに、よりどりみどりな思惑溢れる人々が集う大衆食堂。


悔しくもムギは、編集長の店選びが大好きであった。

せっかくの仙台だと気張らず、地元チェーンで腹を満たす。

ムギも、立派な牛タンをご馳走されるより、不思議とその方が落ち着いた。

自分のよく知らない、この街に住む人々の“日常の吐息”が感じられたからである。


半田屋は、好きなおかずを選び集める和製カフェテリアスタイル。

其々の選り好みな小鉢を集め、オリジナル定食を創り上げると、それをまた、其々の好きな配分で突っつき、そして完食した。


「ご馳走様です」

ムギが店を出る折に編集長への感謝を告げると、男は振り返ることなく右手を軽く上げ、背中越しに返答した。

「相手が死刑囚だろうがチンパンジーだろうが、強化硝子の向こう側です。

未知の生物でもゴジラでも無い。思想は違えど、たかだか一人の人間です。

“無”になりましょう哀原くん。

どんな“有”も、“無”にはまさに無意味ですからね」


盛大に笑って見せる男に、一人の社会人として、ムギは心底惚れていた。

いつも男の見せている“無気力”の奥深さを、節々で理解させられた。

相変わらず真ん丸な編集長の背中は、いつにも増して、やけに大きく見えた。



 ——この度、ムギの企画を通したのは、紛れもなく編集長であり、この男の中では年々、日本の死刑制度に対する疑念が膨れ上がっていた。


それは“死刑”に対する疑念ではなく、“制度設計”に対する疑心であり、死刑を宣告された者が、“死刑自体”を罰とし、“執行されるそれまでの経過”を刑に含めない形に対してである。

編集長としても、今回の企画は温めに温めた懐刀であった。


いつぞやとは思っていたものの、俗な週刊誌の中でも禁忌の部類であり、中々踏み出せずにいた。

3年前にムギがこの企画を上げて来た時、男は心の底から歓喜した。

しかし、当時まだ編集長ではなかった男に、その裁決は出来なかったのだ。



商店街を抜けてタクシーを捕まえると、二人は“相原 十四章”の待つ仙台留置所へと向かった。

車内は沈黙し、空気は重かったが、ムギの心は不思議と、新幹線の時よりは穏やかだった。

それが、再び横でいびきを掻く男のおかげなのか、半田屋のサバ味噌のお陰なのかは判別出来なかった。


 目的地に着き、順々に手続きを済ませると、二人は面会室へと入った。

強化硝子と願いし硝子の向こうには、既に一人の男が座っていた。


ムギは先ず、その男の佇まいに驚愕した。

硝子の向こうに座る男は、齢50を超えているとは思えぬ程健康的であり、ガッチリとした体格に、しっかりとした筋肉を纏い、何よりも、先程まで歩いていた仙台の街中ですれ違った誰よりも、満ち足りた表情を浮かべていた。


ムギは、心臓を一発蹴り上げられた気分であった。

ムギの中では、死刑囚というものを勝手に想像し、骨と皮だけの身体で、全身に卑屈と後悔の影を纏っていると思い込んでいた。

その真反対の生物が今、目の前に堂々と座っているのだから、畏怖の念を抱くのも無理はなかった。


しかし、編集長はそれに怖気づかなかった。

堂々と対面の椅子へと腰を降ろすと、早速質問を始める。

普段部下たちには見せない鋭利な瞳の輝き。口調も変わる。

ムギは慌てて後を追い、先程聞かされた“無”をイメージした。


「相原 十四章で間違いないな?」

編集長の問い掛けに、十四章は静かに頷いた。

「早速だが……事件当時の事は今でも覚えているか?」

「はい。1人1人、1日たりとも忘れた事はありません」

淡々と返答をする十四章は無表情であったが、ムギにはどうしても陽気に見えた。


編集長は質問を続けた。

「その1人1人を思い出した時に生まれるのは、快楽感か? それとも懺悔の気持ちか?」

この質問に、十四章は一瞬悩んだ様に見えたが、ムギが想像する“悩む”とは方向性が違ったらしい。


違和感の正体は、“概念の乖離”だった。

「快楽も懺悔も無いです。

有るのは必然であり、今、私が死刑囚である事もまた、必然だと思っています」

「それでは、死んでいった者たちは、必然的に死んだだけであると?

お前は、法の代わりに裁きを下したと?」


「挑発になるような質問は謹んで下さい」


これは十四章の後ろで書記を取る警務官からの言葉であった。

編集長は警務官をチラリと見やると、頭を下げながらひとつ咳払いをした。

「質問を変えよう」

ギシギシと空気を軋ませながらインタビューを続ける。

「この中での暮らしはどうだ?」


この質問に対して十四章は、隠す素振りも見せずに満足気に答えた。

「何不自由無いです。むしろ有意義でもあります。

貴方たちも目で見て分かる通り、私は実に健康的に過ごしていますので……」

ムギは、憎らしく思う自分の気持ちを、何とか“無”へと引き摺り込もうと、歯を食いしばった。


「いつ来るかも分からない刑の執行が怖く無いのか?」

十四章は一瞬目線を逸らしたかと思うと、上半身ごと前にぐいっと首を伸ばし、その大きな2つの瞳で、編集長をじっと見つめながら答えた。

「逆に質問したいのですが、貴方は何故、自分が明日も当たり前に生きていると思っているのですか?

ハッキリ言って、貴方のその身体を見ていると、私より先に死んでしまうのではないかと心配になってしまいます」


ここで初めて、ムギは自分が対面している相手の恐ろしさに、臓物を握られる感覚を覚えた。

この返答にムギは悔しくも悩んでしまった……。

心の何処かで「確かに」と思ってしまった……。

彼は日本国内有数の頑丈な壁の中で、栄養管理された食事と、適度な運動を怠らず、規則正しく生活をしている。


編集長は確かにではあるが、自分だってそうではないか?

自分は外でいつ車に轢かれるかも分からない。

彼に交通事故という心配はない。

自分はいつ心臓発作で倒れるかも知れない。

彼にはすぐ刑務官が助けに来る。

自分の場合は……?

一人暮らしの風呂場で、突如倒れてしまったら……?


一瞬ではあるが、ムギは、目の前の死刑囚と同じ道の上に立ってしまった感覚に襲われた。

突く穴の見当たらない正論に、喉が鳴った。


「これも違うな……」

編集長は動揺の素振りを微塵も見せず、ただ自分の質問の方向性を悔いてねじ曲げた。

「自分は正義だと思うか? それとも悪だと思うか?」


この質問に、十四章はまたしても一瞬だけ目線を逸らしたが、今度は先程の様に、じっと見つめてくる事はなく、何となくぼんやりとした目線で答えた。

「私の中では正義であり、貴方たちから見ると悪。

それ以上でもそれ以下でもないと思います」

「それはやはり、君の中に懺悔の気持ちは無いということかな?」

「先程も言いましたが、必然でしかありません。

貴方たちが筆を握る様に、私はあの時、日本刀を握りました。

それだけです」


「そうか……」と編集長は零すように話を途切り、次なる質問……今回の取材の本題を提示した。

「私の横にいる彼の名はアイハラ トシアキという。

何か思うことはあるか?」


編集長の質問に、十四章はゆっくりと目線をムギへと移し、微動だにしなくなった。

その突き刺さるように鋭利で、擂り潰されるようにざらつく目線に、ムギは吐き気を催した。



 次の瞬間、目の前で起きた現象に、ムギは、感情の居場所を失ってしまった。

ムギの目をじっと見つめる相原の瞳から、ひとすじの涙が零れたからだ。


この事実を、自分はどう捉えればよいのか。

そもそも自分は、相原 十四章に会って、何を言って欲しかったのだろうか。

どんな思いでいて欲しかったのだろうか。

床に張り付く皮と骨を、望んでいたのではないか?

自分と同姓同名の人間と対面し、後悔の涙を流して欲しかったのではないか?

いや、涙なら今、流れているじゃないか。

それでは何故、自分の心はそれを否定しようとするのか……。

自らの人生を賭してでも憎まなければいけない相手の涙を直視出来ず、ムギはギュッと目を閉じた。


そんなムギの様子を心配して、編集長が何かを言い掛けた時、面談室に全くもって相応しくない、甲高い笑い声が響いた。

笑い声の主は相原であり、これには冷静を貫いていた編集長も不意を突かれ、大きく丸い身体を強張らせた。


ムギはゆっくりと瞼を上げると、畏怖と憎悪の入り交じった目線を、相原へと向けた。

「長年暇をしていると、こんな芸当も出来るようになる。

人間とは斯くも素晴らしい生物だよ」


込み上げる怒りに従い、立ち上がろうとするムギを、編集長が何とか御したのだが、吐き出される言葉までは、止めることが出来なかった。

「僕はずっと、自分の名前に苦悩し続けて来た。

それは僕の両親も同じだ。

お前には、他人の人生を歪めてしまったという謝意や、懺悔の気持ちが微塵も無いのか?」

小刻みに震えるムギに対し、十四章は即座に、そして、最も簡潔に答えた。

「無いな」


どうにかなってしまいそうだった……。

心の何処かで願っていた。

自分が憎み続けた『相原 十四章』の正体が、真の聖人君子であり、巨悪に立ちはだかった勇敢な戦士であることを。

この日をきっかけに、自分の名前に誇りを持てることを。

そうでなくても、自分の犯した罪を心の底から悔いて、ムギの憎しみすら掻き消す程に、衰弱しきっている事を。


しかし、現実はそのどちらでもなく、そもそもに、相手はムギの考えが及ぶような生物では無かった……。


冷たく温かい沈黙が続く中、編集長が問い掛けた。

「せめて、この青年に謝って欲しかった。

お前という存在が歪め続けるこの青年の人生に、ひとつの句読点を打ってあげたかったのだが。

どうやらお前は、巷が想い馳せているような、正義の味方では無いようだな」


これに、十四章は含み笑いを浮かべながら応えた。

「名前が嫌なら変えれば良いだけだ」

再び口を開こうとするムギに、相原は言葉を被せた。

「態々言わなくても想像出来る。

君は自分の名前を変えない事で、己の宿命みたいなものと闘おうとしているとでも言いたいのだろう?

実に馬鹿馬鹿しい理念だ」

自らの思考を見事に言い当てられたムギは、次に紡ぐ言葉が思い付かず、ただ硝子越しの死刑囚の言葉を待った。


 十四章が、世にも珍しき“死刑囚の説法”を説く——

「名前とは“サイン”だ。

名前とは、個々を判別する為の目印だ。

囚人番号よろしく、それ以上でもそれ以下でもない。

私が付けている番号と、貴方たちが崇高に掲げる名前と……何が違う?


違わないね。どちらも只の記号だ。

その為に人生を賭すなど、甚だおかしな話だと思わないか?

現に、私はここへ来てから、“アイハラ トシアキ”などとは呼ばれてはいない。

私の今の名は“33番”だ。

今や名前も違うのに、勝手に引き摺り続けたのは、貴方たち世間の問題だ。

それに、仮に私の名前が全く違ったのであれば、私の犯した罪とこの青年の人生が交わる事もなかった訳だ。

ただの偶然の為に、何故そこまで必死になる必要があるのか……。

理由はひとつ。


【君に、それ以上の個性が無いからだ】


そもそも、凶悪犯罪者と同じ名前を背負って生きるという苦悩が、そのままアイデンティティになってしまっているのだよ。


人間とは波のようなもの。

自らと同じ悩みを抱く者と、より親密な関係を築き、其処に安堵を見出す。

皆が平穏を望む一方で、人間は不思議と人生に波紋を欲する。

殆どの人間は、波ひとつ立たぬ静水面に幸せを感じ得れないし、そもそも自分ひとりでは小さな波すら起こせない。


それ故に、人間は必死に人生を波立たせる。

苦悩を愛し、同調を求め続ける。

親、学校、仕事、家庭、更には、犯罪や芸能ゴシップ。

他者が起こしてくれた波を、無理矢理に自分の人生と結び付け、さも自分自身の人生が豊かであると想いたいのだ。


だからこそ、1度も会った事も無い、なんなら本名すら知らない“何処かの誰か”のスキャンダルに、一喜一憂する。

何故なら、自分ひとりでは波ひとつ起こせないから。

所詮、羨ましいのだ。

波乱万丈が妬ましいのだ。

波が立たねば他人との関係も築けない程に脆弱だから。


そんな連中の人生に波を起こして金に変えるのが、正しく貴方たち週刊誌の仕事じゃないか。

だからこそ貴方たちは、既にその答えを知っている。

世間が欲しているのは波そのもの。

その波が高ければ高い程に熱狂する。


人気歌手の脱税の金額。政治家が料亭で使った金額。

浮気の人数。死者の数。

大事なのは数字の大きさではない。

“一般庶民との乖離”だ。

この“乖離”こそが、貴方たちの胃袋を膨らませるのだよ。


波が落ち着いた後の“凪”な日常など、1円にもならんだろ。

それが週刊誌の本質であり、理念である以上、今日私から貴方たちに話せる事など何も無い。

私の起こした波は、もう既に静まろうとしている。


もし、貴方たちがそれでも謝って欲しいと言うのなら、幾らでも謝ろう。

そして記事にすると良い。

日本史上最悪とされる事件の凶悪犯の謝罪と銘打って、小さなさざ波を起こせば良い。

だが、そこの青年が名前を変えない理由は私ではない。

いざ名前を棄てた時に、全てを失ってしまうかもしれないという、自分自身への恐怖だ。

己の人生が“凪”に戻ってしまう事への拒絶反応だ。

故に、私がこの青年に謝る事は何もないし、人とは違うアイデンティティを持ち、常に水面を揺らし、人生に於いて最も重要な“苦悩”という名の“幸福薬”を捧げた事に、感謝をして欲しいくらいだよ。

きっと今まで、その名前の御蔭で築き上げることが出来た素晴らしい人間関係があるだろうからな。

君は心の何処かで、その関係を築き上げたものが、自分自身ではなく、自分に付けられた“名前”である事に気づき、嫌悪と共に、胸の奥で大事に護っているのだよ」



 「そろそろ時間です」

立ち会いの警務官の冷めた台詞を合図に、編集長は最後の質問をした。

「貴方が死刑を宣告されてから、実に17年の時が過ぎた。

何故まだ自分に刑が処されないのか分かるか?

また……いや、もう答えは分かっているが、この17年にも及ぶ刑を待つ時間が、貴方の心に何か変化をもたらし、死刑よりも重たい刑に変貌したと感じはしまいか?」


十四章は淡々と答えた。

「私を刑に処すと、与党の支持率に影響でもあるんじゃないか?

何れにせよ、国にとっても触れられたくない事件なのだろう。

私の刑の執行は、きっと政治的意図の上で処されると思っている。


もうひとつの質問に関しては、もう分かっている通りだ。

“何も無い”よ。何も感じない。

至って平穏な“凪”そのものさ

今これから、刑が執行されようとも、それは変わらない。

私は自分の人生に、誰にも真似できない大きな波を起こした。

その自負がある。」



 警務官に誘導されながら退出していく十四章の背中を、2人は静かに見つめた。

帰りのタクシーの中でも、殆ど会話は無かった。

2人共に、想像を絶する虚無感に襲われていたからだ。


移動手段を新幹線に移し、東京へと帰る途中、ほんの少し形式的な会話をした。

今回の取材についてや、東京の編集室に戻ってやる事など、会話はすれど、2人の心が元あった場所に戻って来ることはなかった。


東京駅での別れ際、編集長は実に彼らしい言葉をムギに送った。

「今回、この取材を取り上げる決定を下したのは私です。

哀原君にとっても、良きものになると確信していました。

しかし、実際は違いました。

哀原くんにより強い心労を掛けてしまった事を、後悔しているよ。

本当に申し訳ない。

明日、明後日と、しっかり休んで、実際記事にするかどうかは、月曜日の哀原君に任せるよ。

それまでは一旦、今日の事を忘れましょう。

良いですね?」


必ず記事にしますし、大丈夫ですよと微笑みと共に返しながら、ムギは編集長と別れた。

そして、そのままその足で、セイの店へと向かった。


仙台での取材で相原が言った台詞を、セイにも聞かせてやった。

ムギは、セイが“静”でなくなることを望んでいた。

相原の言葉を強く否定するのを願っていた。


実際には違った。

「確かに、僕も名前を変えた時、解放感と共に、妙な喪失感に襲われたんだ。

今思えば、それからは必死に、何者かになろうとしていた。

そして僕は、小さいながらにバーを開き、此処で“バーのマスター”と云う新たな自分の名前を手に入れた。

実際、僕のことを康司(こうじ)と呼ぶのは家族くらいだしね。

お客さんの話す苦悩に応える事で幸福を得ている点では、僕も、相原が言うように、自分では波ひとつの立てられない人間なのかも知れないな」



家に帰ってもムギの虚無感は消えず、どんよりと曇っているはずなムギの心の海原は、何故か、驚く程静かな“凪”であった。

このまま一生、波が起こる事はない気がしていた……。


後日ムギは、相原への取材の記事を無事に脱稿し、次週の週刊誌で見事なさざ波を起こした。

民放2社も、報道番組で軽く触れてくれた。

しかしその翌週には、おしどり芸能夫婦の壮絶離婚と、人気ミュージシャンの大麻使用という大波に、呆気なく呑み込まれ、ムギの記事は只の泡(あぶく)と化した。

少しずつ波打ち始めていたムギの心の海原は、またしても、どんよりと曇った“凪”へと戻ったのだ。


それからというもの、ムギの心が波打つことはなかった。

ただ無心に政治スキャンダルを追い、その結果や行く末などには興味が無かった。


ある日、ムギが手に入れた特大の政治スキャンダルによって、世間の水面は荒れに荒れた。

ムギはそれをただ傍観していた。

遂には、ムギの起こしたこの波を利用して、野党第一党は政権交代を成し遂げ、前政権の諸悪の根源として……また、その象徴として、相原 十四章への刑を執行した。


あの日硝子越しに取材した男が死刑に処されたニュースを耳にしても、ムギの海原は晴れることも荒れることもない。

何故か行方知れずとなった編集長の代わりにやって来た男に、「良くやった!」と声を掛けられても、政治デスクの仲間にこれでもかと褒め称えられても、むしろより一層に、ムギの心は“凪”となった。


あの日吹き止んだ風が、再びムギの穂を揺らすことはなかった。

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ナマエノカタチ 三軒長屋 与太郎 @sangennagaya_yotaro

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