忘れた君をまだ好きでいる
いすず さら
忘れた君をまだ好きでいる
第一章:春の忘却
春という季節には、始まりの匂いと、終わりの余韻が同時に混ざっている。
風に舞う桜の花びらがどこから来て、どこへ消えるのか、誰にもわからないように。
四月の半ば、僕はその日も眠気と戦いながら教室に入った。新学期から二週間が経ち、クラスの空気も徐々に馴染み始めていた。窓際の席、黒板に一番遠い場所。僕の指定席だった。
カーテンが風に揺れていて、外では誰かがグラウンドを走る足音が響いていた。春の午後は眠気を連れてくる。僕は椅子に腰かけて、頬杖をついた。
「ねえ、宮下。転校生、今日来るらしいよ」
隣の席の佐倉結が、小声で話しかけてきた。相変わらず、クラスの噂に目ざとい。
「へえ」
僕は適当に相槌を打つ。心のどこかで、「またか」と思った。
転校生なんて毎年いる。最初は物珍しさで騒がれて、数週間もすれば空気になる。それが当たり前だった。
けれど、その日は違った。違う空気が、教室に入ってきた。
ガラリ、と引き戸が開いた音。
先生の後ろに、小柄な少女が立っていた。制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめて、目線は床に向けられていた。
「今日からこのクラスに入ることになった、野上藍さんです。みなさん仲良くしてくださいね」
その言葉を合図に、クラスのざわめきが一瞬止まり、それからまた静かに広がった。
彼女の声は、聞こえなかった。軽く会釈をしただけで、そのまま先生に促されて空いている席へと向かった。
僕の、ちょうど斜め前。窓際、僕の視線の先。
その横顔は、まるで窓の外の世界に溶け込んでいるようだった。
その日、彼女は一言も喋らなかった。
昼休みになっても、誰とも目を合わせず、お弁当も出さずに窓の外を見ていた。
教科書の隙間からちらりと見えたのは、薄い青色のノートだった。何かを書いているように見えたが、字は小さくて読み取れない。
「なんか、あの子……ちょっと変わってるね」
結が、僕にだけ聞こえるように囁く。
「そうかもな」
僕は、どこか気になって仕方がなかった。
不思議なことに、その日の授業の内容はまったく頭に入ってこなかった。
次の日、朝の教室に入ると、彼女の姿はまだなかった。
でも、彼女の席の上には、あの青いノートが置かれていた。
無意識に、僕はそれに近づいていた。
名前も書かれていない、無地のノート。その表紙をそっと開いたとき、最初のページに一文が目に飛び込んできた。
「私はいずれ、すべてを忘れてしまう」
息を飲んだ。
日記だった。けれど、そこに記されているのは“日常”ではなく、“確認”だった。
「今日は4月17日、転校して二日目。昨日のことはほとんど思い出せない。机は窓際。隣の男子が名前を聞いてきたらしい。でも、顔も声も思い出せない。私は、病気だ。」
僕はノートを閉じ、手にしたまま教室を見渡した。
ちょうどそのとき、野上藍が教室に入ってきた。
目が合った。
彼女は、僕の手元にあるノートを見つけると、静かに近づいてきた。
そして、何も言わず、そっと手を伸ばした。
「……これ、落ちてたよ」
僕が差し出すと、彼女は小さく頭を下げて受け取った。
そのとき、ほんの一瞬、彼女の目が僕を見た。
けれどそこには、僕を“認識する”光はなかった。
「……ありがとう。えっと……誰、だっけ?」
その言葉に、僕の胸がざわついた。
嘘ではなかった。彼女は、本当に――昨日のことを、僕の顔を、何も覚えていなかった。
それから数日間、僕は彼女を意識するようになった。
授業中、彼女は誰よりも静かだった。
休み時間になると、ノートを開いて何かを記していた。誰とも話さず、誰とも目を合わせず、まるで「世界の外側」にいるようだった。
でも時々、ふとした拍子に、遠くを見るようなまなざしをしていた。
まるで、自分が今ここにいることを確認しているみたいに。
そして、そんな瞬間の彼女が、妙に美しく見えた。
「……俺、きっと、記録するのが好きなんだと思う」
そう呟いたのは、その週末だった。久しぶりに持ち出したカメラを覗きながら、僕はそう感じた。
何かを見て、それを“忘れないように”残すこと。それが、昔からの癖だった。
藍の姿が、ファインダーの奥に浮かぶ。彼女の横顔。青いノート。かすれた字。
それらは、きっといつか消えてしまうものだ。でも――
「君のことを、僕は忘れないよ」
声に出していないその言葉が、春の風にさらわれていくようだった。
第二章:日記とカメラ
月曜日の朝、教室に入ると、彼女はすでに席にいた。
いつもより少し早い登校だったのに、それでも彼女は先にいて、窓際の光の中に静かに座っていた。
彼女――野上藍は、今日も青いノートを広げていた。
ノートには毎日、新しいページが追加されていた。そこには、日付と、短い文章。そしていつも最後に同じような一文があった。
「今日は忘れたくない日でありますように。」
彼女は、日々を“記録”していた。
それは日記であり、証明であり、記憶の代用品だった。
「なあ、野上さん」
自分でも驚くくらい自然に、僕は声をかけていた。
彼女は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに視線を落とした。
「えっと……ごめん。前にも話しかけたっけ?」
「ううん。昨日は話してないよ。でも、その前は話した。ノート、返したとき」
「……そっか。うん、ありがとう」
彼女は、少し照れたように笑った。
その笑顔は、あまりにもかすかで、触れたら壊れてしまいそうだった。
「もしよかったら、今日の放課後、写真を撮らせてもらってもいい?」
唐突だったかもしれない。でも、僕は彼女を“残したい”と思っていた。
記憶が抜け落ちていくなら、代わりに映像に焼きつけたいと思った。
「……どうして?」
「君のことを記録したい。君が忘れてしまっても、僕が覚えていられるように」
言ってから、自分でも恥ずかしいくらいの言葉だと思った。
けれど彼女は、しばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
「……いいよ。でも、私、きっと明日にはこの会話も忘れてるよ?」
「それでも、いい」
彼女がうなずいたその瞬間、僕の中で何かが動き出した気がした。
淡くて、脆くて、それでも確かな何かが。
放課後、僕たちは学校の裏庭に出た。
春の陽が西に傾き、校舎の影が芝生に長く伸びていた。
「ここ、誰も来ないから、静かで好き」
藍がぽつりと言った。
まるで“好きだったこと”さえ、すぐに忘れてしまいそうな声音だった。
僕はファインダーを覗きながら、彼女を見た。
制服の裾が風に揺れて、髪の間から光がこぼれる。
「笑って」
「……無理。急に言われても、作り笑いになっちゃう」
「じゃあ、自然なままでいい。何か話してくれたら、そっちに集中するから」
「ふふ、それ逆じゃない? 私が話してるあいだに撮るってこと?」
「うん。そうすると自然になるでしょ」
藍は少し笑った。
その笑顔を、僕は一枚、カシャッと音とともにフィルムに閉じ込めた。
「ねえ、カメラってすごいね」
「何が?」
「こうして、今の私を閉じ込めることができる。明日、私がこの瞬間を忘れても、写真の中の私は、ちゃんと“ここ”にいる」
「……ああ、だから僕はカメラが好きなんだと思う」
僕たちはしばらく言葉を交わしながら、何枚かの写真を撮った。
そのひとつひとつが、どこか儚くて、愛おしかった。
その日、藍が書いた日記の一部を、僕は後日見ることになる。
「今日は、宮下透くんと写真を撮った。彼は、私のことを記録してくれると言った。
うれしかった。多分、明日には忘れてしまうけど、きっと、今日は忘れたくない日だ。」
次の日、彼女は僕の名前を忘れていた。
でも、手にした写真を見て、目を見開いた。
「これ……私?」
「うん。昨日の放課後、撮った写真だよ。君が許してくれたから」
「……そっか。そうなんだ。ありがとう」
その声は、確かに昨日の彼女とは違っていた。
でも、同じように優しかった。
記憶は薄れていく。けれど、写真と、言葉と、少しの勇気があれば、
人はまた誰かに出会い直すことができるのかもしれない――そう思った。
第三章:六月の光
六月の風は、どこか湿り気を帯びている。
夏の匂いと雨の気配を抱えた風が、教室の窓から差し込んでくるたび、季節の移ろいを肌で感じた。
文化祭の準備が始まったのは、その週の月曜日だった。
クラスの出し物は「映像展示」。クラスメイトたちが出すテーマに沿って、写真や動画を編集して流すらしい。
僕は、当然のように「映像係」に回された。何も言わずにカメラを持ち込んでいたからだ。
「ねえ、宮下くん、あのさ」
文化祭準備の放課後、誰かが僕の背中を叩いた。振り返ると、野上藍がいた。
彼女が自分から話しかけてくるのは、数日ぶりのことだった。
「これ、昨日の分」
彼女が差し出したのは、例の青いノートの一部だった。コピーされた数枚の紙。
それは、彼女の日記を僕に見せるために抜粋したものだった。
「六月二日。今日は曇り。放課後、透くんに“風が気持ちいい日だったね”と話しかけられた。
その言葉に、少しだけ心があたたかくなった気がする。」
「……ありがとう。でも、無理して見せなくてもいいのに」
「ううん、違うの。こうして、誰かに読んでもらえると、私の中で“その日”が確かになる気がするの。
たとえ私が忘れても、“誰かが覚えててくれる”ってことが、救いになるんだ」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
彼女の笑顔は穏やかだったけれど、その奥には、いつも一抹の不安が張り付いているように見えた。
文化祭の準備は、想像以上に大変だった。
みんながワイワイと飾りつけをしている中、僕と藍は廊下に面した壁際で、写真を選別していた。
「これは……ちょっとブレてる」
「でも、それが逆に“動き”を感じさせるかも。ねえ、この写真って、誰を撮ったの?」
「それ、君だよ」
「……ほんとに? なんだか不思議な気分。
“私”が、こうしてちゃんと残ってるって、まるで他人みたいで……でも、嬉しい」
彼女は、写真の中の自分をじっと見つめていた。
桜の下で、笑っている横顔。忘れても、そこにいる“藍”。
「この写真、展示に使っていい?」
「……いいよ。もっと“私”を、展示してくれていい」
その言葉には、冗談のような響きがあった。でも、目は本気だった。
それからの数日、僕と藍は放課後の準備で顔を合わせるようになった。
彼女は決して中心にいるタイプではなかったが、必要なところには静かに手を貸し、控えめに場を支えていた。
「君って、意外と気が利くんだな」
「でしょ? 忘れっぽいけどね」
ふたりだけの小さな笑いが、準備の忙しさのなかにぽつりと咲いた。
そして文化祭当日、朝から雨が降っていた。
校舎の窓に水滴がつき、生徒たちは傘を差して続々と登校してくる。
僕の担当する映像展示のブースにも、思っていたより多くの生徒や保護者が足を運んでくれた。
スクリーンには、季節の移ろいを記録した写真が次々と流れていく。その中には、藍の写真もいくつかあった。
観客の誰かが、「この子、すごく自然でいい顔してる」とつぶやいた。
それを耳にした藍は、照れたように僕を見た。
「……ねえ、私って、そんなにいい顔してた?」
「うん。少なくとも、僕のカメラはそう思ってる」
「じゃあ、もう一度撮って」
そう言って、藍は展示ブースの隅で小さくポーズを取った。
僕はカメラを構えて、シャッターを切る。
その瞬間、窓の外から雨が止み、淡い陽が差し込んできた。
六月の光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。
その日、藍が書いた日記のコピーを、僕は後日また受け取った。
「六月十日、文化祭。雨だったけど、透くんと写真を撮った。私は、あの日のことを忘れるだろう。でも、
彼が残してくれた“光の中の私”を、私は信じてみたいと思った。」
忘れることは、決して“無かったこと”にするわけじゃない。
そこに確かに存在していたと、誰かが信じる限り――。
第四章:欠けていく輪郭
それは、ほんの些細な違和感から始まった。
六月の終わり、午後の強い日差しが教室に射し込む時間。
僕がプリントを届けようと藍の席に向かうと、彼女はまるで僕を知らないかのような顔でこちらを見た。
「……あの、どちら様?」
その言葉が冗談でないことは、彼女の表情からすぐにわかった。
目には不安が浮かんでいて、それを隠すように小さく微笑もうとしていた。
「……僕、宮下透。君とは、文化祭の準備で……」
「文化祭……あ……あの、すみません。何も思い出せなくて……」
静かに謝る彼女の声は、どこか震えていた。
僕は笑って「気にしなくていいよ」と言ったけれど、胸の奥に冷たいものが流れ込んでいた。
その日の放課後、僕はひとりで中庭にいた。
手にはカメラ。だけどレンズの先に映る風景が、今日はやけに色褪せて見えた。
「……探したよ」
後ろからかけられた声に、振り返ると、そこに藍がいた。
「あ、君……あれ、えっと……」
「宮下透、だよ」
「……そうだ、ごめん。今日のこと、ちゃんと書いたのに、どこかで飛んじゃったみたい」
そう言って彼女は、青いノートを見せてきた。
そのページには、午前中の出来事が丁寧に綴られていた。そこには僕の名前も、文化祭のことも、すべて記されていた。
「最近ね、“飛ぶ”ことが多くなったの。ページが途中から抜け落ちるみたいに。
書いていても、どこかで記憶に穴が空いてることに気づくの」
それを告げる彼女の声は、とても静かだった。
まるで“仕方のないこと”のように語るその様子が、かえって胸に刺さった。
「怖くないの?」
思わずそう尋ねていた。
彼女は少し考え込むように目を伏せ、そして呟いた。
「怖いよ。でも、それよりも……何も感じなくなっていくのが怖い。
“今日が大事だった”って思えないまま過ぎていくことのほうが、もっと」
僕は黙ってうなずいた。
そして、そっとカメラを持ち上げた。
「……撮っていい?」
「……うん、お願い」
シャッターを切った。
藍は、光と影の間で、かすかに笑っていた。
その翌日、彼女は僕の名前を覚えていた。
ノートの効果かもしれない。あるいは写真が“きっかけ”になったのかもしれない。
けれど、三日後にはまた白紙の表情で僕を見つめてきた。
そういう日が、交互にやってくるようになった。
記憶は、確実に彼女からこぼれていた。
それでも、僕は日々カメラを構え、彼女の姿を撮り続けた。
忘れてもいい。その代わり、僕が全部覚えていると、何度も何度も心の中で繰り返した。
七月のある日、彼女がこんなことを言った。
「ねえ、私さ、このまま全部忘れていったら、どうなるんだろうね」
「どうって?」
「“私”って、どこまでが“私”なんだろう。記憶が全部なくなったら、それはもう“私”じゃないのかな」
問いに答えることはできなかった。
だけど僕は、それでも口を開いた。
「君がどれだけ忘れても、僕が君を“君だ”と思い続けてる限り、君は“君”だよ。少なくとも、僕にとっては」
その言葉に、藍はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
「何を?」
「私が忘れてしまうその日まで、“君にとっての私”を残して」
僕はうなずいた。
カメラのシャッターは、またひとつ、今を刻んだ。
失われるものを止めることはできなくても、その輪郭を守ることなら、きっとできる。
第五章:名前のない花
七月に入ると、蝉の声が一斉に教室の外から聞こえてくるようになった。
暑さと湿気が増していく中で、生徒たちは期末試験の話をしながら、どこか浮ついた空気をまとっていた。
そんなある日、昼休みに屋上で弁当を食べていた僕は、ドアの向こうから誰かが来る気配を感じた。
「……やっと見つけた」
風に髪を揺らしながら、藍が立っていた。
でもその表情は、どこか戸惑っていた。
「ここ、で……よかったのかな。あの、えっと……」
彼女の視線が泳いだ。僕の顔を見つめながら、何かを探すように。
「“君の名前”、思い出せなくなっちゃった」
その一言に、僕は少しだけ目を閉じた。
覚悟していたつもりだった。でも、やっぱり、痛かった。
「宮下透。君は、前に何度か書いてくれてたよね」
「ああ……そっか。ノート、見返せばよかった。でも……たまに、“見返す勇気”が出ない日もあるんだよ」
藍は、苦笑するように言った。
そんな自分を責めるでもなく、ただ静かに、あるがままを受け入れているようだった。
「名前なんて、忘れてもいい。君が、“ここに来てくれた”ってことが、大事だから」
僕のその言葉に、彼女は少しだけ目を潤ませた。
「……優しいんだね。君は、たぶん」
「いや、たぶんじゃなくて、そうありたいだけ」
笑い合ったその瞬間、夏の風がふたりの間を通り過ぎていった。
その日から、僕は藍に名前で呼ばれることが少なくなった。
代わりに彼女は、よく僕を“君”と呼んだ。ときには「ねえ」としか言わない日もあった。
それでも、何かが崩れたわけじゃなかった。
むしろ、それによって“言葉を超えた関係”が生まれ始めた気がした。
「君と一緒にいると、安心するの。……理由は、わからないんだけど」
彼女はそう言った。名前も記憶もあいまいになっても、感情だけは変わらず残っていた。
ある日、彼女が僕に“花”をくれた。
小さな、白い野草のような花だった。
「なんて名前の花?」
「わからない。でも、君に似合いそうだなって思って」
その言葉に、僕はなんとなく、胸の奥が温かくなった。
名前がなくても、その花は確かに“そこに咲いていた”。
そして僕も、きっと――彼女にとって、そんな存在でありたいと思った。
その夜、僕は藍から一通のメッセージを受け取った。
『今日は、たぶん大切な日だった気がする。理由はうまく言えないけど、
あなたと話していたとき、心が穏やかになったから。
名前が思い出せなくても、そういう記憶はちゃんと残るんだね。ありがとう。』
スクリーンに映るその言葉を、僕はそっと写真に撮った。
忘れないように。何があっても、彼女がどこかで自分自身を見失わないように。
「記憶」は、言葉や映像と同じくらい、感情にも宿る。
それが証明されたような気がした。
名前のない花のように、彼女の中で、僕という存在が“名づけようのない優しさ”として根づいていくなら。
それだけで、十分だと思った。
第六章:風にほどける日々
夏休みが始まった。
制服を脱いで、蝉の声に包まれた季節の中で、僕と藍は頻繁に会うようになった。
学校という枠がなくなっても、彼女は僕の前に現れた。ときにはノートを手に、またあるときには、何も持たずに。
ふたりで訪れた図書館、駅裏の古い喫茶店、河川敷の夕暮れ――
そのどれもが、藍にとっては“その瞬間限りのもの”になっていくのを、僕は知っていた。
「昨日のこと、覚えてる?」
僕がそう訊ねると、藍は少し困ったような顔をして、笑った。
「ううん、でも……君が笑ってくれた気がする。あったかい日だったよね?」
“君が笑ってくれた気がする”――
それは事実ではなく、たぶん感覚の残りかす。でも、確かにそこにあったもの。
彼女の記憶は、今や“点”でしか存在していない。
それらは線にならず、物語を持たない。
けれど、そのひとつひとつが、今この瞬間に生きている証だった。
八月のある日、ふたりで遠出をした。
電車に乗って、海の見える町へ。
「この駅、どこかで来たことある気がする」
電車を降りると、藍は不思議そうにあたりを見渡した。
実際は、初めてのはずだ。けれど、彼女はそこに“既視感”のようなものを抱いていた。
あるいは、記憶が残っていなくても、体が覚えているのかもしれない。
そう思うと、僕は少しだけ安心した。
浜辺でスニーカーを脱ぎ、波打ち際まで歩いた。
藍は白いワンピースを風に揺らしながら、海の向こうを見つめていた。
「透くん」
急に名前を呼ばれて、僕は振り返った。
「……今、名前で呼んだ?」
「うん。なんか、突然思い出した。口が勝手に言ったみたい」
彼女は笑った。
それは、ほんのわずかの記憶の点が、奇跡のように浮かび上がった瞬間だった。
帰りの電車で、彼女はうとうとしていた。
その寝顔を見つめながら、僕は静かにシャッターを切った。
何かを残したかった。
忘れることが彼女の“運命”なら、僕はそれに抗うための“記録”になりたかった。
藍は、記憶を少しずつ“ほどいて”いた。
でもその一方で、僕は、彼女の“感情”という糸を束ね直していった。
笑った日、泣いた日、名前を呼んだ日。
それらが積み重なって、“彼女が彼女であった証”になるのだと、信じていた。
やがて、夏が終わる足音が近づいていた。
葉がゆっくりと色を変えはじめるように、藍の記憶も、また別の色を帯びていく。
第七章:ここにいた証明
八月の終わり、風に混じる空気がどこか冷たくなっていた。
蝉の声も聞こえなくなり、代わりに秋の虫たちが足音のように夜を包んでいた。
その日、僕は久しぶりに藍と会った。
「……はじめまして、ですか?」
彼女の第一声だった。
名前も、顔も、思い出せない――そんな瞳だった。
僕は、もう驚かなかった。けれど、やっぱり少しだけ、痛かった。
「ううん、君は前にも僕に会ってる。たくさん、何度も」
「……そうなんですね。でも、覚えていないんです。ごめんなさい」
彼女は深く頭を下げた。
その仕草が、まるで“初対面の人”に向けるそれであることが、残酷なほど丁寧だった。
その後、ふたりで喫茶店に入った。以前も何度か訪れた場所。
けれど、彼女にとっては“初めて”だった。
「ねえ、どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
カップを両手で包みながら、彼女が訊いてきた。
僕は少しだけ黙ってから、答えた。
「君が忘れても、僕は覚えているから。
僕にとっての君は、今ここにちゃんといるんだ。……だから、大丈夫」
「……“君にとっての私”かあ。ちょっと、不思議な感覚」
藍は微笑んだ。
記憶がない彼女と、記憶でつながっている僕。
まるで、片方のページだけが書かれた本みたいだった。
夜、彼女からメッセージが届いた。
『今日はあなたに会えてよかったです。
名前も思い出せないし、過去もないけれど、
“今”だけは、確かに幸せでした。
明日も、会えたらいいな。』
僕は返事を書かずに、その文章をただ静かに眺めた。
言葉ひとつひとつが、まるで“彼女が彼女である証”のようだった。
それから数日、僕は日々、彼女に会いに行った。
何度でも、何回でも。
名前を思い出せない日もあれば、少しだけ覚えている日もあった。
けれど、彼女の“中の僕”は、もう継続した存在ではなかった。
それでも――
彼女が笑うとき、僕を見つめるとき、その目の奥には“何か知っている”気配があった。
言葉では伝わらなくても、記憶にはなくても、感情がそこに残っていた。
ある日、僕は彼女に一冊のアルバムを渡した。
「これ、なに?」
「君と僕の“記録”だよ」
ページをめくると、そこにはふたりの写真が並んでいた。
笑っている彼女、驚いた顔の彼女、眠っている彼女。
そして、その横には毎回、日付と短い言葉が添えられていた。
『君は今日、僕の名前を忘れた。でも、一緒に笑った』
『君は僕に花をくれた。名前のない白い花』
『君が名前を呼んだ。それだけで世界が輝いた』
藍は静かにページをめくり続け、やがて顔を上げた。
「……わたし、ここにいたんだね」
「うん。間違いなく、いた。僕の中に、君はちゃんと生きてる」
彼女は涙をこぼした。
そして、何も言わずに僕の手を取った。
記憶がなくても、存在は消えない。
それを伝えるために、僕は今日も、彼女のそばにいる。
名前を忘れても、過去を失っても、“今”という一瞬が、僕たちをつないでいる。
第八章:また会えたら、
八月の終わり、蝉の声も消えて、街はゆっくりと秋へと向かっていた。
その日、僕は藍と約束をしていた。
「今日は、どこに行くの?」
待ち合わせ場所に現れた藍は、いつものように微笑んだ。
けれど、その目には僕の名前のかけらすら、もう宿っていなかった。
「海に行こう。前にも、一緒に行ったことがある場所なんだ」
「……覚えてないけど、いいね。君と一緒なら、きっと素敵なところ」
そう言って、藍は僕の隣に立った。
電車に揺られながら、藍は窓の外を見つめていた。
その横顔は、静かで、どこか切なげだった。
「ねえ、君は……」
言いかけて、言葉を止めた。
「ううん、なんでもない。ただ、今日が“特別な日”のような気がして」
「うん。僕もそう思ってる」
僕たちはそれ以上言葉を交わさなかった。
けれど、それだけで十分だった。
海に着いた。
数ヶ月前と同じ浜辺。
藍は波打ち際まで駆けていき、スニーカーを脱いで、砂の上を歩いた。
「気持ちいい……。ねえ、君も来てよ!」
僕も彼女の隣に立った。
空は高く、風が潮の匂いを運んできていた。
「透くん」
突然、藍がそう言った。
僕は驚いて、彼女の顔を見た。
「どうして、その名前……?」
「わからない。急に、ふっと浮かんできたの。……不思議だね」
彼女は笑った。
それは、記憶の奇跡だった。
たぶん、彼女の心の奥に、ほんの少しだけ残っていた“何か”が、今、花開いたのだ。
「ありがとう。名前、呼んでくれて」
「ううん。……ありがとうって、わたしの方だよ」
その日、僕は彼女に手紙を渡した。
「これは……?」
「僕の思い出。君の思い出。忘れてもいい。けど、いつか、またふと開いてくれたらいいなって思って」
彼女はゆっくりと受け取り、胸に抱えた。
「また、会えるかな」
「うん。きっと、また会える。たとえ、名前を忘れても、顔を忘れても。
きっとまた、心が思い出すよ。……“君を好きだった”ってことを」
その言葉に、藍は少しだけ泣いた。
「バイバイ、じゃないよね?」
「うん。“またね”だよ」
日が暮れる浜辺で、僕たちは小さく手を振った。
風が吹いて、藍の髪を揺らした。
そして、彼女は歩き出した。
何かを、そっと手放すように。
僕はただ、その背中を見送った。
思い出は、きっと残らない。
でも、“ここにあった想い”だけは、風のように、彼女の中に吹き続ける。
そう信じた。
そう願った。
第九章:きみの知らない君へ
それから、数年が経った。
僕は大学生になり、街も、景色も、少しずつ変わっていった。
だけど、心の奥に残るある記憶――いや、“想い”だけは、今も色褪せずそこにある。
藍とは、それきり会っていない。
いや、正確に言えば、“僕は彼女を見かけた”ことがある。
だけど、彼女は僕を見ても、何の表情も浮かべなかった。
あのときのまま、彼女は“すべてを忘れたまま”生きていた。
でもそれでいい、と思った。
覚えていなくても、彼女が笑って生きているなら、それだけで十分だった。
ある日、久しぶりにあの海辺の街を訪れた。
季節は夏。潮風の匂いが、あの夏の日を思い出させた。
昔と同じ道を歩き、あの浜辺に出ると、どこか懐かしい人影が見えた。
白いワンピースの女性が、ひとり、波打ち際を歩いている。
後ろ姿しか見えなかった。でも、僕はすぐにわかった。
藍だった。
静かに、彼女の横に立った。
風が吹き、彼女の髪が揺れた。
「こんにちは」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを見た。
そして、少し驚いたように目を見開いた。
「……えっと、どこかで……」
そう言ったまま、言葉を飲み込む。
「君は、きっと僕のことを覚えていない。でも、いいんだ。
またこうして、同じ場所に立てただけで、僕は嬉しい」
彼女はしばらく黙ってから、ふと微笑んだ。
「名前……透くん?」
僕は、心臓が止まりそうになった。
「どうして……思い出したの?」
「わからない。ただ、ここに来たら、ふっとその名前が浮かんできて。
たぶん、体のどこかが覚えてたんだと思う。“あなたが、大切な人だった”って」
僕は何も言えなかった。
言葉の代わりに、ゆっくりと頷いた。
藍は空を見上げた。
「……ねえ、もしまた、忘れちゃってもいい?」
「うん、何度でも思い出させるよ」
「そっか。じゃあ、また会えたら……名前、呼んでね?」
「もちろん」
ふたり、並んで海を見た。
その光景は、あの夏の続きのようでもあり、新しい始まりのようでもあった。
記憶は、いつか消える。
でも、想いは残る。
たとえ名前が消えても、時間が過ぎても、
“誰かを好きだった”という気持ちは、きっとどこかに残り続ける。
これは、君の知らない“君”へ贈る物語。
そして、また始まる“僕たち”の物語。
忘れた君をまだ好きでいる いすず さら @aeonx
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