神楽坂はあやかしの匣・歳末編 ~ゆく年の灯火と一番星~
御子柴 流歌
ゆくとし、くるあやかし
大晦日の神楽坂はいつもとは違って、何となく浮き足立った静寂に包まれている。
表通りの商店街からは、正月の買い出しを急ぐ人々の熱気や、どこかの店から流れる『第九』の旋律が漏れ聞こえてくるけれど、一本路地裏に入れば空気は一変する。
石畳は冷え込み、湿った冬の匂いが鼻先をくすぐる。
私は白い息を吐きながら、馴染みになりつつあるその場所を目指していた。
雑貨店とも道具屋ともつかない不思議な店、『灯心堂』。
今日は別に、働きに来たわけではない。
大学の冬休みに入って実家に帰省する予定だったのだけれど、レポートの締切に追われて東京に残ることになった。どうせなら、いつもお世話になっている(といっても、不思議なバイトをしたのは数回だけれど)店主のおばあさんに、年末の挨拶くらいはしておこうと思ったのだ。
手には、近所の和菓子屋で買った干支飴の小袋。
あくまで客として、あるいは近所の学生として、顔を出すだけのつもりだった。
つもりだった、のだが。
「あら、良いところに来てくれたね」
からり、という軽い音と共に戸を開けた瞬間、割烹着姿のおばあさんと目が合った。
彼女の手には、煤払いに使うような長い笹箒が握られている。
「あ、こんばんは。これ、お年賀のご挨拶にと思って……」
「それは丁寧だこと。ありがとうね。――ところで、そこの棚の上、手が届かなくて困っていたんだよ」
おばあさんは私の差し出した飴を事もなげに懐へ収めると、流れるような動作でハタキを私に手渡した。
「えっ」
「一番上の段の埃を払っておくれ。それが終わったらお茶にしようかね」
拒否権は、ないようだった。
私は苦笑しながらコートを脱ぎ、鞄を置いた。
まあ、いいか。この店の独特な空気感は嫌いじゃない。むしろ、一人きりのアパートで紅白歌合戦の開始を待つより、よっぽど心躍る大晦日かもしれない。
そうして私は、いつの間にか『灯心堂』の店員としての時間を過ごし始めていた。
古びた棚の埃を払い、商品の配置を少しだけ整える。
不思議なことに、私がハタキをかけると、古道具たちが「くすぐったい」とでも言うように微かに震えるのが分かった。
漆塗りの椀も、錆びた風鈴も、ここで静かに年を越す準備をしているのだ。
一通りの掃除が終わった頃、おばあさんが奥から盆を持ってきた。
湯気立つ焙じ茶の香ばしい匂いが、冷えた店内に広がる。
「お疲れさま。助かったよ」
「いえ、これくらいなら。……でも、今日はお客さん、来るんですか? 大晦日ですよ」
私は湯飲みを受け取りながら尋ねた。
世間は家族団欒か、初詣の準備で忙しい時間だ。こんな裏路地の古道具屋に足を運ぶ物好きがいるとは思えない。
おばあさんは目を細め、湯飲みを両手で包み込んだ。
「大晦日だからこそ、だよ。古いモノたちが一区切りをつける夜だからね」
その言葉の意味を問おうとした時だった。
ゴォォォォォン……。
腹の底に響くような、重く低い音が聞こえた。
除夜の鐘だ。
「あれ、もうそんな時間ですか?」
私は慌てて腕時計を見る。
短針はまだ十時を回ったところだった。除夜の鐘が鳴り始めるには早すぎる。
「早いですね、どこのお寺だろう」
「さあね。この世の寺の鐘とは限らないさ」
おばあさんは悪戯っぽく微笑むと、視線で帳場を促した。
「ほぉら、おいでなすった」
その言葉に、背筋がすっと伸びる。
私は反射的に帳場へ向かい、あの万年筆の前に座っていた。
以前のような驚きはない。ただ、静かな高揚感が胸を満たす。
風もないのに、店先の硝子戸がカタカタと鳴った。
冷たい隙間風とは違う、どこか温かみを帯びた風が、店の中へと滑り込んでくる。
万年筆が、ひとりでに立ち上がった。
滑らかな動きで、帳簿の上を走り出す。
『午後十時十五分』
『来客 送り提灯(火種)』
書き記された文字を見て、私は顔を上げる。
そこには、誰もいなかった。
けれど、目の前の空間が、ぼんやりと朱色に染まっているように見える。
まるで、古い提灯の和紙越しに見る灯りのように、ゆらゆらと。
匂いがした。
雨上がりのアスファルトの匂いではなく、もっと乾いた、藁が焦げたような懐かしい匂い。
おばあさんが、私の横に小さな道具を置いた。
黒っぽい石と、金具。
火打ち石だ。
「火種が欲しいそうだ」
「えっ、私がやるんですか?」
「今年最後の仕事だよ。古い年に別れを告げて、新しい年を迎えるための灯りだ。心を込めておやり」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
火打ち石なんて、時代劇でしか見たことがない。
けれど、迷っている時間はなかった。
見えない客人は、静かに、けれど切実に待っている気がしたからだ。
私は左手に石を、右手に金具を持った。
深呼吸をする。
――良いお年を。
心の中でそう呟いて、石の角を金具で擦った。
カチッ。
乾いた音が響くけれど、火花は散らない。
焦るな、と自分に言い聞かせる。
目の前の朱色の気配が、揺らめきながら私を見守っている。怖くはない。むしろ、応援されているような温かさを感じる。
もう一度。
手首のスナップを効かせて、鋭く、強く。
――カッ!
弾ける音と共に、眩しい火花が散った
。
その瞬間だった。
散った火花が床に落ちず、ふわりと宙に浮いたのだ。
火花は小さな星のように輝きながら、目の前の「見えない空間」へと吸い込まれていく。
ボッ、と小さな音がして、空中に焔が灯った。
何もないはずの空間に、蝋燭の火だけがぽっかりと浮かんでいる。
いや、よく見れば、その周りには薄っすらと提灯の骨組みの輪郭が透けて見えた。
古びて破れかけた、けれど手入れされた提灯だ。
焔は一度大きく揺らめくと、安定した優しい光を放ち始めた。
ゴォォォォォン……。
再び、あの鐘の音が響く。
今度はさっきよりも近く、そして澄んで聞こえた。
おばあさんが満足げに頷く。
「いい火だね。これで無事に年を越せるだろうよ」
帳簿の上で、万年筆が最後の仕事を終えるように走った。
『お代 古年の埃』
書き終えると同時に、店内の空気がふっと軽くなった気がした。
さっきまで私がハタキで払った埃っぽさが、完全に消え去っている。
それが、お代だったらしい。
提灯の灯りが、ゆっくりと硝子戸の方へ移動していく。
扉が触れてもいないのに開き、灯りは夜の神楽坂の路地へと溶け込んでいった。
まるで、道行く人々の足元を照らすように。
「……行っちゃいましたね」
「ああ。あの子が神楽坂のあやかし達を先導していくんだよ。初詣の行列の先頭さ」
おばあさんは立ち上がり、割烹着の紐を解き始めた。
その下には、深い紫色の着物を着ていた。いつの間に着替えていたのだろう、それとも最初から着ていたのだろうか。
「さて、そろそろ店じまいだね」
おばあさんの言葉に、私は店の外を見上げた。
空には厚い雲がかかっていたけれど、その切れ間から一つだけ、鋭く輝く星が見えていた。
シリウスだろうか。
「一番星が消えた時が、閉店時間でしたよね」
私がそう言うと、おばあさんは外の星を見つめ、ふっと息を吹きかけるような仕草をした。
その瞬間、雲が流れ、星が隠れた。
「ほら、消えた」
「ええっ、そんなのアリですか!?」
「あやかし相手の商売だもの。これくらいの融通は利かせないとね」
おばあさんは少女のようにクスクスと笑うと、店の灯りを消した。
ちろちろと燃えていた奥の灯りが消え、店内は静かな闇に沈む。けれど、不思議と暗くはなかった。路地の外から漏れてくる街灯の光が、店の中の古道具たちを優しく照らしている。
私たちは店を出て、重い引き戸を閉めた。
カチリ、と錠を下ろす音が、一年の終わりを告げる音のように響く。
「さて、初詣に行こうか。善國寺にするかい? それとも赤城さんまで足を延ばそうか」
「そうですね……せっかくだから、赤城神社まで歩きましょうか。あそこの坂からの景色、好きなんです」
並んで歩き出す。
表通りに出ると、人通りはさらに増えていた。
遠くから聞こえる本物の除夜の鐘の音と、人々のざわめき。
その隙間に、時折、シャンシャンという鈴の音や、下駄の音が混じっている気がする。
私の隣を歩く小柄なおばあさんの横顔は、街灯に照らされて優しく微笑んでいる。
「今年も一年、お疲れさま」
「はい。来年も……また、手伝いに来てもいいですか?」
「ふふ、一番星が光っているうちなら、いつでも歓迎するよ」
冷たい夜風が吹いたけれど、ちっとも寒くはなかった。
私のコートのポケットには、見えない提灯が残してくれた温もりが、まだ微かに残っているような気がしたからだ。
神楽坂の坂道を上る私たちの背中を、新しい年の気配が優しく押していた。
神楽坂はあやかしの匣・歳末編 ~ゆく年の灯火と一番星~ 御子柴 流歌 @ruka_mikoshiba
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