春のあけぼの

水城 真以

春のあけぼの


 ――吉田松陰よしだしょういんには四人の妹がいる。


 一人目は、千代ちよという。歳が近く、松陰の一番親しい妹だ。


 二人目は、寿ひさ。松陰とはちょうど十歳違う。気が丈夫で、松陰も時々引くほど思ったことをハキハキと言う女だ。


 三人目は、つや。幼い頃に亡くなっているが、松陰が起こした騒動で法要が営めなかったらしい。松陰も思うところがあるのか、度々艶のことを弟子達に話して聞かせることがあった。


 そして一番下の妹が、ふみ。松陰の13歳下の妹で、上の姉達と違い、まだ嫁に行っていないので、実家のすぎ家で暮らしている。松陰の身の回りの世話や塾生達の相手などは、この娘が主に担っていた。


 *


 久坂玄瑞くさかげんずいが門をくぐると、文は家の壁に向かって水をかけていた。むわっと鼻をつく臭いに顔を顰めながら、久坂は文に近づいた。

「お文さん、ですか?」

「あ……」

 文は困ったように俯いた。柄杓に入った水は既に空になっていたが、臭いは落ちていない。

 松陰の友人であり、松下村塾の食客でもある冨永有隣とみながゆうりんという男がいる。この男、頭が切れるし優秀であるのだが、何せ変わり者である。……といえば聞こえはいいが、人格に思うところのある人だった。それ故に野山獄に放り込まれていたという前歴を持っている。


 どういうわけか松陰とは仲が良いようで、松陰はこの知人を尊重し、有隣も松陰には心を許していた。


 久坂も有隣のことは尊敬できる面は尊敬し、必要に応じて教えを乞うこともあった。


 ……のだが、その久坂も、どうしても容認できないところがあった。


 その悪癖が、有隣の放尿である。


 家の壁に放尿するという悪癖がある有隣は、厠を使わずにその辺で用を足して回っていた。


 その都度文は水を汲んで流しているようだが、それも一日に何度もとなると、想像に難くない。

「俺からもちゃんと言っておきます」

「…………」

「お文さんだって、嫌でしょう?」

「……別に」

 文は、俯いたきりほとんど喋らない。久坂はため息を殺した。

 文はあまり人と関わろうとしない。陰気で、話しかけても返ってくるのは短い返事のみ。

 まるで植木鉢に話しかけているようだ、と久坂は文に背を向けた。ちらりと振り返ると、にした髪がぴょんぴよんと揺れている。まるで猫の尻尾のようだ、と遠ざかる小さな体に、久坂は思った。


(それにしても、冨永殿の悪癖はどうにかしたいな)


 いい加減、塾生達の間でも問題になっていた。

 とはいえ年下の青少年が何か言ったところで、有隣が聞き入れるとも思えない。実際、これまでに提示してきた苦言は全て梨のつぶてに終わっていた。


(……そうだ)


 久坂は手を叩いた。


(聞き入れてもらえないなら、従えば・・・いいじゃないか)


 *


「あの!」

 久坂が文に呼び止められたのは、一週間後のことだった。

 夕方、寄宿舎へ帰ろうとした久坂の袖を、震える手で文は掴んでいる。

 いつも玉結びにしているだけの髪は既に結わえられておらず、長い髪はふわふわと背中に流されているだけだった。

「ど、どうしたんですか?」

 珍しく話しかけてきた女幹事に驚いていると、文は「と、冨永さま……」と呟いた。

「ああ」

 久坂は合点がいった。

 近頃、冨永有隣は放尿して歩かなくなった。

 それには久坂の策が絡んでいる。


 冨永有隣という人は、意固地だ。年若い者達に「やめろ」と言われたところで、受け入れるわけがない。

 だったらいっそ、従ってみた、というわけだ。

 さすがに塾生達が「冨永殿がやるんだから、それは良いことに違いない」と真似したのを見たら、有隣も思うところはあったらしい。


 ……のだが、さすがに年頃の娘である文に仔細を説明するのは気が引けた。

 文は、久坂に「ありがとうございます」と小声で言った。

「あの、これ……」

 差し出されたのは、薄紫の布の包みであった。受け取ると、文は勢いよく頭を下げた。

「ありがとうございましたっ」

 頭を上げるなり、文は母屋に走って行った。




 寄宿舎で包みを広げると、入っていたのは面桶めんつうだった。

 蓋を開けると、豆と一緒に炊いた麦飯の上に、梅干しと胡瓜の味噌漬け、それに椎茸を味噌で煮たものが添えられている。

 椎茸を指で摘むと、味噌の味と共に、椎茸の香りが鼻腔をくすぐった。

「……うま」

 久坂は、面桶を包んでいた布を見た。

 薄紫の布に、桜の刺繍が施されている。普段は桃色だの赤だのを基調とした着物ばかり着ているのに……と意外に思いながら、久坂は梅干しを齧り、思わず顔を顰めた。


 *


 2日後、久坂は朝早くから松下村塾に向かっていた。

 人目がつかないうちに、面桶を文に返したかったからだ。

 まだ塾生達が起き出して来ないのを確認してから、久坂は母屋にある台所を尋ねた。

 台所では、前掛けを付けた文が包丁で大根を切っている。久坂に気づくと、文は目を丸くした。

「これ。ありがとうございました」

 久坂が差し出すと、文は前掛けで濡れた手を拭いてから駆け寄ってきた。

 米の炊ける匂いを嗅ぎながら、「早起きなんですね」と久坂が言うと、文は「皆さんの朝餉を作らないと……」ともごもごと言った。


(年頃の娘らしい遊びもせず、真面目な娘だ)


 確か久坂より三つ年下だと聞いたから、文は14歳。


 お洒落もとんとせず、指先を真っ黒にして働いているのが印象的であった。

 文は面桶を開けると、目を丸くした。

「これ……」

「昨日、町で買ってきました。寄宿舎の仲間に聞いて。よかったら召し上がってください」

 弁当の返礼として、面桶の中には饅頭を詰めている。

 仲間達から美味いと評判の店を聞いて詰めてきたのだった。

「寅兄ではなく、わたしに……?」

 久坂は首を傾げた。

「その面桶は、お文さんのものでしょう」

「そうですけど……わざわざ買ってきたということは、寅兄に渡したかったからですよね?」

「そんなわけないでしょう。お文さんに渡したいから、買ってきたんです」

 松陰に渡したかったら直接渡している──と、久坂は呆れた。

 文は饅頭と久坂の顔を交互に見た。まるで水を浴びせられた猫のような目をしながら。

「その……えっと……本当に……?」

「だから、そうですって。先生には渡さないで、お文さん一人で食べてください」

「で、でも、お弁当は冨永さまの件のお礼ですのに……」

 文は面桶の蓋をしながら、薄紫の布をそっと握り締めた。

「冨永殿のことは、俺達も困っていた。それに何より、美味かったので」

「え……」

「お文さんの弁当、美味かったので」

 文は蚊の鳴くような声で俯いた。

 少し濃いめの味付けや、少しでもお腹が膨れるように、と豆を混ぜて炊いた飯は、亡き母の手料理を思い出して懐かしくなった。

 外を見ると、雲がうっすらと紫色に染まっていた。

「綺麗だな」

 久坂が外に出ると、文もついてきた。

「春は、あけぼの……と言うけれど、いつだって早朝が1番です」

「枕草子か?」

 文は俯くように頷いた。


「春はあけぼの ようよう白くなりゆく山際 少しあかりて 紫だちたる雲の 細くたなびきたる──」


 玲瓏な声が朝焼けの空に吸い込まれていく。

 俯いた顔ばかり見ていたせいか「陰気な小娘」と思っていたが──こうして見ると、思ったよりも綺麗な目をしている。

 文は小さな声で「私は、朝が好き」と言った。

「特に、春の……少しだけ暖かい香りがするようになった時の、夜明けが好き」

「てっきり……お文さんは、桃色とかが好きなのかと。いつも着ているから」

 文は小さく首を横に振った。

「姉上達のお下がりです。……私が好きなのは、紫」

 文はそれだけ言うと、久坂に背を向けた。また台所仕事を再開している。邪魔しないように、久坂はそっとその場を離れた。


(お文さん、もっと話したらいいのに)


 普段口数が少ないだけで、彼女なりに秘めたものはあるのだろう。

 久坂はあけぼのの下を歩きながら、素通りするのも何なので松下村塾に立ち寄った。

「やあ、久坂君。今日は早いですね」

「ええ、まあ……」

 冨永有隣と目が合った。有隣は「ふんっ」とそっぽを向いて幽囚室を後にした。

 松陰と話し込んでいるうちに、泊まり込んでいた塾生が続々と起き出して、久坂達を囲んだ。

 そうこうしているうちに、文がお膳を持ってくる。山のように積み上がった握り飯に塾生が群がり、お椀に味噌汁がよそわれ、一人一人に配られる。

 久坂がその光景を見ていると、文が久坂の前に座った。そして、お椀と握り飯が久坂の前に置かれた。

「どうぞ」

「え、俺も?」

「あ……朝餉は、お済みでしたか?」

「まだ、だが……」

「でしたら遠慮なく召し上がってください。いっぱいありますから……」

「いや、でも……」

 そもそも塾費も収めておらず、勝手に出入りしているだけだ。正直手をつけていいものか……? と首を傾げていると、文はお椀を床に置いた。そして、皿に乗せられていた握り飯を取ると、それを久坂の口に押し込んだ。

「……!?」

 目を白黒させる久坂に「朝餉はちゃんと召し上がってください」と、文はぴしゃりと言った。

 仕方なく握り飯を咀嚼している間に、文はもうひとつ握り飯を持ってきて、久坂の皿に置いた。

 文は久坂が握り飯2つと大根の葉の味噌汁を全て平らげるまで、じ……っとその様子を見ていた。

 そして2人のやり取りを、塾生達もじ……っと見ていた。


「……まるで夫婦のようじゃのう」


 誰とはなしにそんなことを言い始める。

「ば、バカを言うな!」

 久坂が思わず反発しても、文は顔色ひとつ変えない。それどころか久坂に「明日もどうぞ」などと言い出す始末。

 呆気に取られている間に、文は食器類を片付け、塾を出て行った。


(……もう少し喋ったら……とは思ったが……)


 久坂はむう、と唸った。

 文はその日以来、何かと久坂の世話を焼くようになった。お焼きを焼いて差し入れしたり、握り飯を久坂の分だけ大きく握って持たせたり、久坂が履物を脱ぎ散らかしていると「揃えてください」と叱ったり。

 そんな文の様子を、周囲は「お文は久坂に好意があるからだ」と冷やかしたが、当の久坂は、まるで懐かなかった野良猫を手懐けたような、そんな気持ちの方が強かった。


 だから一年後──まさかその野良猫のような娘の夫になるなどと、この時の久坂は想像すらしていなかった。

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春のあけぼの 水城 真以 @mizukichi1565

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