未明ギトウ幕

伏見菫太郎

第一幕

第1話

 舞台の奥、灯りの落ちた回廊に、淡い光が揺れていた。


 生駒光忠は、思わず足を止める。


「……三光?」


 名を呼ぶと、光はゆっくりと形を結び、柔らかな輪郭を描いた。

 三光正宗は、舞台のほうを向いたまま、穏やかに笑っている。


「やあ、生駒」


 声は低くも高くもない。

 耳に残るというより、胸に落ちる声音だった。


「今日も、いい静けさだね」


「……開演前は、いつもこんなものだろ」


 生駒は肩をすくめる。


「騒がしくなるのは、幕が上がってからだ」


「ふふ。そう言えるようになったんだ」


 三光は、どこか嬉しそうに言った。


「前はね、君もこの静けさが怖かったはずだ」


 生駒は一瞬、言葉に詰まる。


「……怖いというか」


 視線を逸らし、舞台の奥を見る。


「誰もいないのに、見られている気がして……」


「それは今も、変わらないよ」


 三光はやわらかく否定する。


「ここは、いつだって“誰か”に見られている」


「来ない客に、かな?」


 生駒の言葉に、三光は少しだけ首を傾げた。


「来ない、とは限らない」


「ただ、今は“まだ”なんだ」


 生駒は笑った。


「随分、都合のいい言い方だね」


「そうかな」


 三光は気にしない。


「物語って、そういうものだろう?」


 ふわり、と光が揺れる。


「主役がいなくても、幕は上がる。

 結末が決まっていなくても、場面は進む」


 生駒は、その言葉を噛みしめるように黙った。


「……俺は」


 口を開きかけて、止める。


 三光は振り返らない。

 続きを待つでも、促すでもなく、ただそこにいる。


「……いや、なんでもない」


 生駒は首を振った。


「今日の舞台、うまく回るといいな」


 三光は、くすりと笑った。


「君は、いつもそう言うね」


「支える側の言葉だ」


 生駒はそう答える。


「舞台が壊れないようにする」


「それも、大切な役だよ」


 三光の声は、少しだけ真剣になる。


「でもね、生駒」


 その名を呼ぶ声は、どこか遠い。


「“支える”っていうのは、“見てしまう”ことでもある」


「……何を?」


「輝きを」


 三光は、舞台の中央を指さした。


「誰が立つべきか。

 誰が、立てないでいるか」


 生駒は、その意味を考える前に、足音を聞いた。


「おーい、生駒ー」


 軽い声が回廊に響く。


「準備、そろそろだぞー」


 振り返ったとき、三光正宗の姿は、もうなかった。


 残っていたのは、わずかな光の余韻だけ。


 生駒は一度だけ、舞台を見つめる。


「……輝き、か」


 その言葉を胸に、彼は歩き出した。


 ――包丁正宗と、日本一則重のいるほうへ。

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