ひかり
chacha
ひかり
希望があると信じていたかった。
朝は希望だと、幾程の人が歌っただろう。明けない夜はないと、何度言い聞かせられただろう。無意味に、軽薄に重ねられ続けた言葉には、もはや希望なんて見出だせない。
朝なんて、そんなに良いものではない。究極に美しいものでもない。
コートの裾を握りしめ、冷た過ぎる冬の風に逆らった。砂粒のうっすら積もったコンクリートを歩く。この坂道さえ越えれば、ひかりがあるはずだ。
刻々と冬は深まっていた。薄雲に溢れた空は何も示さない。
都心から外れた街で、ひとり鼻を赤くした。どこからか聞こえる、ごうごうとした音と、遠い波音が聴覚を埋める。
平日の早朝は訳もなく高揚する。幼い頃に、遠足や旅行のために早く家を出た時の感覚に似ている。街が目覚めていない時間に、ぱっちりと目を開き外に出る。それだけでわくわくできるなんて安上がりだった。そんな幼い高揚なんてとっくに失ったと思っていたのに、今さら気まぐれに顔を覗かせてきた。
寒風が頬を撫で、つと顔を上げる。
海が見えた。
あの人がいないことが、やはり嬉しくて、なのに寂しかった。
砂浜に降り、波打ち際に近づく。ざぁざぁと、かまびすしい。
昔はこの景色が好きで仕方がなかった。否定も肯定もされずにただ揺れる水と、メランコリー。快晴の日よりも、雲のある日の方がいい。眩し過ぎるひかりは、戻れないほどの闇をも生んでしまう。
開けた世界を前に、感傷に浸る。あの時はよかった。昔は輝かしかった。
その時、視界の端を気配が掠めた。
あの人かもしれないという未練がましい思考に腹が立つ。それがたとえ一瞬でも、自分が嫌になる。同時に、その思考が杞憂に終わったことに安堵する。
こんな時間に、それも海に腰まで浸っているその人影は、天使の姿そのものだった。
海に涙を注ぎ、足を食わせる。白い衣を纏い、ひかりと共にたゆたう。その羽で、悪い方向にも、良い方向にも軽々と飛んで行ってしまいそうだ。
天使が水面に揺れた。
こちらに気付き、やわく笑う。
その表情の人間らしさに、現実を思い出す。真冬の海でひとり佇む姿は、入水してしまいそうだった。
「通報しておきましょうか」
思わず声をかけた。自分で助けるつもりなんてなく、他人任せな言い方だったな、と頭の隅で思った。
「大丈夫ですよ。死なないんで」
天使は鈴のような声で言った。落ち着いた調子が、逆に危なっかしい。そして、ざぶざぶと水を弾き、こちらに向かってくる。砂浜に降り立ったその足には、白いワンピースが重たくまとわりついている。
「陸に上がると寒いなぁ。あ、濡れてるからか」
「当たり前でしょう」
「ふふ。でも、ちゃんとタオル持ってきてるんですよ」
砂浜に投げ出されていたスーツケースを開け、タオルを取り出した。長い黒髪を絞り、体を丁寧に拭く。顔から首、腕にタオルを運ぶ。そして、足首から段々と上がる。裾を捲し上げ、脚の付け根まで外気にさらされる。
「私の脚、綺麗ですか」
「……え?」
突然の問いに驚いたが、確かに天使の脚は絵に描いたように白く、ふくらはぎの曲線は艶かしく、締まった足首は美しかった。
私の答えを待たずに、天使は続ける。
「前にねぇ、好きだったひと。なんか、脚の曲線? が好きだったんです。ふぇち、ってやつ。だから、私も毎日マッサージして、ボディークリーム塗って、いっぱい気を付けてました」
天使はワンピースを脱ぎ捨てる。その脚がより一層綺麗に見えた。
「もうその人には会えないのに、こうやって、その人のせいで変わった自分の一部だけが、遺産みたいに残るんです」
指先は、何かを思い出すように曲線上を踊る。この人もまた、過去に縋っているのだろうか。
天使はスーツケースから取り出したブラウスに袖を通した。ありふれた姿に化ける。
「私は天使なんてきらきらしたものじゃないです。ただのぺーぺー」
こちらの思考が透けてしまったのかと思ったが、そうではないらしい。天使は続けた。
「朝は眠いし、お腹は空くし。家を出たら、今日も会社行くのかぁ、って溜め息ばっかり。満員電車も乗りたくない」
髪を結い、真っ直ぐに、凛と海を見つめる。
「それでも今日も生きている」
私と同じようで、全く違う人。この人は氷のような絶望の中でも、きっと、絶対的に美しいものを信じ、心を燃やしていられる。
対して私はどうだ。いつまでも現実を忌み嫌い、かつて美しかったものを追いかけている。価値観が更新されないまま、盲目的に過去を美化している。
「わたし、だって……」
答えはないと、正しさなど存在しないと、誰か叫んでくれ。
今まで生きてきたことだって、無駄にはならないと信じる他なかった。諦め方も教わらないままに歳だけを重ね、若さばかりを羨んだ。そして、自分の選択は正しいのだと言い聞かせ、やり過ごしてきた。
「今何時かな」
突拍子もなく、天使は小さなラジオを点けた。FMラジオが、波音に重なる。周波数を合わせ、ノイズが遠のく。音は澄んだ。
たまたま流れていたのは、ひと昔前の流行歌。バブル崩壊後の、希望のような、諦めのような歌詞が明るく弾ける。
聞き古したはずの歌に、何故だか絆されてしまう。飽きるほど聴かれ、何度となく消費され、言葉が安くなってしまった歌なのに。
「何かあったんですか?」天使は口を開く。
「昔のことです」
「じゃあきっと、私たち似た者同士だ」
天使は私のすぐ隣に腰を下ろし、ラジオの音量を上げた。
「日にち薬って効くんですかね」
その呟きに、胸の奥が痛んだ。
彼もまた、日にち薬が効いてくれる、と言っていた。
また彼が恋しくなってしまう。ただふらっと現れて、最近どう? と訊いてほしかった。それでも、これを最後にする。
「きっと、日にち薬はひっそり治してくれるんです」
自分に言い聞かせた。波が引くように、じんわりと心が落ち着いた。ようやく彼を失えた気がする。
傷が癒え、かさぶたが剥がれるまで、きちんと日にち薬は効いていた。
「私も、いつかは平気になっちゃうんだろうなぁ」天使は貝殻をかちゃかちゃと弄ぶ。
「たぶん」
「そう。勝手に、頼んでもないのに、ある日痛みを感じなくなる。きっと無くなったことにも気付けない。痛みにも、温かさにも、理由なんてないから」
「なるほど」
「だからこそ、人は美しさを生み出せる」
「その美しさはどうなるんですか」
「一瞬だけ輝いて、そのあとは日常に溶けるんです。その時には、もう特別じゃなくなってる」
今美しいと思ったものを、一年後にもそう思えるとは限らない。昔は、その瞬間が、すべての時間が美しかった。ありふれた言い方をすれば、宝物だった。そう、昔は。
ならば今の私は、どうしたいのか。
「綺麗なままでいたい」
「じゃあ、綺麗なものを捨てなくちゃ」
天使が擦り寄ってくる。その身体は想像通り冷たく、やわらかかった。猫のように頭を撫でつけ、首筋に鼻を寄せてくる。初対面のはずなのに、不思議と安心してしまう。
「生まれ変わったら、アーティストになりたい」
天使の吐息に胸が高鳴る。この人もまた、過去を諦めている。
「間に合うなら、今からでもいいんじゃないですか」
「もう遅いの」
私は動くこともできず、かけっぱなしのラジオに耳を傾けた。それはよく知っている番組だった。彼と一緒にいた部屋に溢れていた、あのラジオの音。ジングルが新しくなっていて、すぐには気付けなかった。この音だって、かつては美しかった。
声は朝六時を告げる。段々と世界は動き出してしまう。世界は私たちを見つけてしまう。過去に浸ることも、青写真を掲げることも許されない。天使も、街の景色をほんの少しだけ担う人間に化けてしまう。
その前になにかを残したい。
満たされることがないのなら、せめてひかりの朝を。
「もう行かなくちゃ」
うつくしかったものを諦める。
醜いものに沈んでいく。
ただ、うつくしいものを手の中に留めておくために。
そうしてでも、私は、この世界は綺麗だと信じたままでいたかった。
<終>
ひかり chacha @cancer_chacha
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