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楼きがり

私とわたしと

(……ん……ここは……)


深い眠りから覚醒した私は、ここを“ブラックホールの腹の中”だと結論づけた。


そう思うに至る要因として、この空間は見渡す限りを闇――というよりも「黒」と表現したほうがしっくりくるほど、漆黒に包まれていた。

あまりにも黒すぎて、境界も、輪郭も、奥行きさえも判然としない。

いくら2.0を誇る自慢の視力を駆使しても、結局のところ、光がなければ最も役に立たない器官と化していた。


そして、要因がもう一つある。

本来あるべきはずの重力というものが、まるで感じられないのだ。

ゆえに上下左右の認識など到底不可能で、もしかしたら今の私はひっくり返った体勢でいるのかもしれない。

「地に足がつかない」が、まさか物理的な意味で適用されるとは思わなかった。

三半規管が弱い自覚はあるが、眩暈や吐き気といった異常は今のところ見られないのがせめてもの救いだ。


それでも、変わらぬ孤独を前にして、ネガティブな感情が徐々に頭を支配しつつあった。


もしこれが単なる悪い夢ならば、現実ではうなされていること間違いなしなので、近くに人がいるのなら遠慮なくぶっ叩いてほしい。

そして、これが無常にも現実ならば、自ら息の根を絶つことさえいとわない。

そう思うほどに、私は冷静さを欠いていた。


そのときだった。


「ねえ、おねえさん」


りん、と鈴の転がるような声が、どこからともなく響いた。

私は、はっと息を呑む。


気づけば、二本の足は地についており、確かに私の体重を支えていた。

私の身を包む淡い青色のパジャマと、そこから伸びる白い手足が、光のない世界に「色素」という概念を生み出している。


まだ声の主の姿は確認できていなかったが、この絶望的な漆黒を共有する仲間がいたのだと知り、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

ああ、これが幻聴ではないのだとしたら、私はまだ神に見放されてはいなかったのだ。


すがる思いで、必死に首を四方八方へ振る。

方向感覚のない黒の中で、やがて小さな少女の姿を捉えた。


少女は、真っ黒な世界とは対照的な、真っ白いワンピースを柔らかな肌にまとい、癖一つない黒髪を腰までさらりと垂らしていた。

整った顔立ちに、まるでビー玉をはめ込んだかのような瞳。

その視線は、私の瞳孔を、真っすぐに射抜いていた。


「わたしは誰でしょう」


少女の小さな口から放たれたのは、意味深な問いだった。

だが、その問いはあまりにも単純で、だからこそ私を十分に困らせた。


私は彼女に見覚えがない。

ゆえに、その問いに対する答えを持ち合わせていないのだ。

もし彼女が私と面識があって、なぞなぞクイズのようにして私を楽しませようとしているのなら、非常に申し訳ない話である。


しかし、次に少女の口から放たれた言葉は、虚を突くものだった。


「それは、お空から水が落ちてきたときによく見る道具です」


空から水?

謎かけだろうか。

一般的に考えれば、それは「雨」を指しているのだろう。

だが、彼女が何を意図し、私にどのような答えを期待しているのかは、いまひとつ理解できない。

困惑を深める私をよそに、少女はさらに言葉を重ねた。


「それは、わたしの身体が濡れないように守ってくれます」


なるほど。

どうやらこれは、「私は誰でしょう」という形をしたクイズのようだ。


いくつかの特徴を挙げ、それらを手がかりに答えを導かせる。

ちょっとした脳の体操になる、子どものお遊びというわけだ。


「それは、上から見たらまん丸お月様みたい」


相変わらず、なぜこの状況でそれを始めたのか意図は読めない。

だが、答えを求められている以上、無視する理由もなかった。


「それは…“傘”だね?」


そう告げると、少女はほんのわずかに微笑んだ。


次の瞬間だった。


少女の目から、鼻から、口から。

赤い液体が、溢れるように流れ出した。


理解する暇もなかった。

血のようなそれは止まることなく零れ落ち、少女の足元から周囲へとみるみる赤い水溜まりを広げていく。

黒の世界にまた新たな色が生み出されていく。


声が出なかった。


少女の身体は、まるで溶けるように崩れ始める。

頭部から、びちゃびちゃと音を立て、形を失い、肉とも臓物とも判別できない有機物の塊へと変わっていく。

それが、もはや“人”だったとは認められないものになるまで、そう時間はかからなかった。

呆然と立ち尽くす私の耳に、


コトン。


乾いた音が響いた。


視線を落とすと、そこには先ほどの謎かけの“答え”が一本、倒れていた。

児童が手にしていそうな安っぽいビニール製の傘。

小刻みに震える手でそれを拾い上げると、無意識に金具のボタンを押す。


バッ。


勢いよく開かれた傘は、レモンを薄めたような淡い黄色をしていた。


そして。


ポツリ。

また、ポツリ。


ビニールの表面を小さく叩き始めたのは、雨と呼ばれる水の群れだった。


黒一色だったはずの世界に、確かに“天”が存在し、そこから雨が降っている。

その事実を、私は傘越しに、嫌というほど思い知らされていた。

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