戦うのは怖いので、黒猫《クロ》と一緒に薬師ヒーラーとしてスローライフを謳歌しますっ!
烏羽 楓
第1話「引きこもりの元研修医」
夜の東京は、いつも静かだ。
いや、正確には――外は車の音も人の気配もあるはずなのに、私の部屋だけは時間が止まったみたいに静まり返っている。
六畳のワンルーム。机の上には飲みかけのペットボトルと、空になった栄養ドリンクの瓶。
カーテンは閉めっぱなしで、昼夜の区別もほとんどつかない。
窓の隙間から漏れる街の明かりさえ、どこか遠い世界のものみたい。
スマホの画面をぼんやり眺めながら、SNSをただスクロールする日々。
タイムラインには、知らない人たちの笑顔。
「友達とご飯!」
「新しい仕事が決まりました!」
誰かの「今日も頑張った!」という投稿に、親指が止まった。
テレビでは、有名な冒険者の活躍が連日報道され、世間での出来事がフィクションように感じる。
頑張るって、どうやってやるんだっけ。
もうわかんなくなっちゃった……。
かつて、私は研修医だった。
白衣を着て、患者の命を救うために走り回っていた――はずだった。
あの頃は、それが“当たり前”で人の痛みに向き合うのが怖くても、医者として前に進むしかないと信じていた。
でも、あの日を境にすべてが変わった。
深夜の救急。
眠る時間もなく、ぼんやりとした頭で呼び出された。
救急搬送の無線が鳴り響き、救急室のドアが開く。
ストレッチャーの上には、交通事故の急患。
血に染まったシーツが目に入り、鉄と薬品の混じった匂いが鼻の奥を刺す。
鳴り続けるモニター音が、やけに遠くに聞こえた。
私は、必死に手を動かそうとした。
けど……出来なかった。
“必死にならなきゃ”と思っても、思うように手が動かなかったんだ。
喉の奥がひりついて、視界が滲む。
赤い血の色が、目の奥に焼きついて離れない。
ペンライトを握る手が震えて、止血も縫合もまともにできない。
――怖い。
目の前で誰かが死にそうなのに、私の判断一つでその人の全てが終わると思ったら、途端に手が震え出した。
意識の底で、「助けなきゃ」と何度も繰り返す。
でも、足は鉛のように動かず、心臓の鼓動だけが痛いほど響いていた。
そのあとどうなったか、正直あまり覚えていない。
ただ、主治医に怒鳴られた声と、冷たい視線だけが脳裏に焼き付いている。
「人の命を扱う覚悟がないなら、医者になる資格はない!」
その言葉が、胸に突き刺さったまま抜けなくて。
私は病院を辞めた。
寮も出て、実家にも戻らなかった。
姉のアヤには「少し休む」とだけメッセージを送って、それっきり。
“休む”なんて言葉でごまかしたけど、本当は逃げたんだ。
そして気がつけば、こうして――東京のアパートに引きこもっている。
昼は寝て、夜に起きて、スマホを見て。
ネットで頼んだ冷凍弁当を温めて食べる、そんな日々。
時々、窓の外から笑い声が聞こえると、無意識にカーテンを閉めた。
世界から切り離されて、自分だけ別の時間に取り残されたみたい。
部屋の片隅には、医学書や薬学のノートが積まれて今では開くこともなく、ただ埃をかぶっている。
“努力の証”だったはずのページは、いまや失敗の象徴にしか見えない。
「……私、なにしてるんだろ」
思わず口にした言葉が、虚しく響いた。
誰も答えない。
答えてくれる人も、もういない。
ただ、冷蔵庫のモーター音と、外を走る救急車のサイレンだけが響く。
赤い光がカーテンの隙間から漏れて、部屋の中を照らした。
その一瞬、胸の奥がズキッと痛む。
「……また、誰かが運ばれてるのかな」
あの時も、サイレンが鳴っていた。
過去を思い出して喉がきゅっと詰まる。
今の私にとって、サイレンの音は不吉の象徴でしかない。
フラッシュバックして、私は思わず顔を枕に埋めた。
すると突然、スマホの通知が鳴り一件のメッセージが届く。
こんな時間に誰だろう……?
通知を見ると、差出人のところには――“アヤ”と表示されていた。
お姉ちゃんからの数か月ぶりのメッセージに、胸がぎゅっと締めつけられる。
開くのが怖い。でも、見ないふりもできない。
私は恐る恐るメッセージを開く。
〈みお。元気にしてる?〉
〈いつまでも逃げないで。あの子の分まで、生きて頑張らないと〉
〈誰かを助けたいなら、自分が強くなるしかないよ〉
そんなことわかってるよッ!
どうしようもない感情が私の心の中を埋め尽くす。
――“あの子”。
脳裏に浮かぶのは、あの夜、救えなかった患者の顔。
名前も、声も、全部覚えている。
まだ十代だった。
手を伸ばして、私の袖を掴んで「助けて」と言っていた。
でも私は、その手を掴めなかった。
思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
私は、そっとスマホを伏せた。
心臓がドクドクと鳴って、呼吸がうまくできない。
お姉ちゃんはきっと、励ましてくれてるだけなんだろう。
でも、その優しさが痛い。
お姉ちゃんは昔から、泣いてる私を抱きしめながら、「泣いてもいいけど、前は向きなさい」って笑う強い人だった。
だけど今の私は、その言葉さえ怖い。
前を向く勇気なんて、もうどこにも残ってない。
「……無理だよ。私なんかに、もう助けられない」
かすれた声が、部屋の中に溶けていく。
誰もいないのに、声に出さずにはいられなかった。
言葉にしなきゃ、押しつぶされそうで。
私は布団に潜り込み、目を閉じる。
眠りたい。でも眠れない。
代わりに、頭の中であの心音モニターの音が鳴り続ける。
ピッ、ピッ、ピッ……と、やがて途切れる音。
手のひらに、まだあの時の冷たさが残っている気がした。
――もう、二度と、あんな音を聞きたくない。
だけど、それでも。
どこかで微かな願いが残っていた。
もし、やり直せるなら。
もし、誰かをもう一度、救えるなら――。
そんな都合のいい奇跡が、この世界にあるなら。
「……そんなわけ、ないか」
かすかに笑って、私は背を丸める。
笑っているのに、なぜか涙が滲む。
頬を伝うそれを拭わず、目を閉じた。
時計の針が、カチリと小さく音を立てる。
日付が変わり、また同じ夜が始まる。
私の中では、昨日も今日も変わらない。
世界が動いているのは知ってるのに、私は置いていかれたままだ。
ふと外のどこかで、猫の鳴き声が聞こえた。
細く、儚く、それでいて不思議と温かい声だった。
「……猫?」
思わず、布団の中で顔を上げる。
窓の外は、相変わらず真っ暗だ。
でも、その声は確かにもう一度、短く響いた。
にゃーん。
……なんだろう。少しだけ、胸が軽くなった気がした。
私はまだ知らなかった。
その鳴き声の主との出会いが、私の人生を大きく変える“始まり”になるなんて。
次の更新予定
2025年12月31日 21:03 毎日 21:03
戦うのは怖いので、黒猫《クロ》と一緒に薬師ヒーラーとしてスローライフを謳歌しますっ! 烏羽 楓 @kaede_karasuba
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