人生を始める日のアライアンス
ゴオルド
ワンちゃん
冷たい海風の吹きつける湾岸エリアにある弊社の赤茶けた倉庫は、暖房が入っていないわりに暖かい。
私はダウンコートを羽織っていて、ニット帽をかぶっている上に、おなかにはカイロを貼っているのだが、それらを差し引いても、やはり風が入ってこないせいなのか、素手で検品作業を行っていても指先がかじかむようなことはなかった。
今日は十二月二十七日。
目の前に山と積まれたミニスカートの検品と梱包作業が終われば、正月休みだ。
ミニスカートの山は、一緒に働いている中国人女性たちによって手際よくさばかれて、みるみる削られていっている。あと一時間もすれば今日の仕事も全て終わり、日の落ちる前に帰れることだろう。
「どうしようかなあ」
思わず呟くと、隣にいた中国人女性が、ミニスカートのファスナーを引っ張りながら、視線で問うてきた。
「ああ、いや、不動産屋さんに行きたいんだけどさ、もう年末でしょ。まだ営業してるのかなあって」
ダメ元で行くだけ行ってみようか、どうしようか、そう悩んでいるのだと私が言うと、
「大手チェーンの不動産屋は営業はしてるんじゃない。引っ越すの?」
別の女性が会話に加わってきた。
「そりゃ引っ越しをしたくもなるよねえ?」
ファスナーを引っ張っている女性が、笑いながらお尻をぶつけてきた。少し離れたところで作業をしている女性たちが、ああなるほどと言いたげな顔で頷く。
「ユカって同棲してた恋人に振られたんだっけ。じゃあ、過去を忘れるためにも引っ越したらいいね」
「うう……」
私の恋愛事情はこの倉庫内の全従業員に共有されている。私としては共有するつもりはなかったのだが、一人に打ち明けたら、その日のうちに全員に知れ渡ってしまったのだった。
「尽くして尽くして尽くしまくったのに浮気されて捨てられたんでしょ。可哀想に」
「か、可哀想……」
事実が胸にグサグサ刺さる。やっぱりあれかな、親から愛されずに育った女っていうのは、愛されるのがヘタなのだろうか。だから職場の人たちに可哀想って思われるような人生になってしまうのだろうか。
「RESTARTだね、心機一転だね、引っ越しおめでとう」
「いや、あの、確かにみんなの言うとおりなんだけど、でも引っ越し先はまだ決めてないし、というか不動産屋さんがやってるのかどうかも……」
その時、倉庫のドアをノックする音がした。そちらを振り返ると、大柄な男が、ドアの外で笑みを浮かべて立っていた。
「あ、パクさんだ」
誰かがそう言うと、在日コリアンのパクさんはますます笑みを大きくした。
「みんなお疲れさま! あのね、お正月に、知り合いの女の人のお祝いパーティーをすることになったんだよ」
パクさんは、がっしりした肩を大きく動かして手招きした。
「あなたたちもパーティーに来てよ」
唐突な招待を受け、私たちは顔を見合わせた。
「パーティー? お正月に?」
「そう。お正月なんてどうせ暇でしょ。家で寝てるより楽しいよ」
私はつい反論したくなった。
「こう見えて忙しいんですよ、私たち」
「またまた。ユカさんは恋人と別れたって聞いたよ。お正月に人と会う予定もないでしょ」
パクさんはうちの従業員じゃないのに、私の恋愛事情が伝わっているようだ。きっと倉庫の誰かが彼に話したんだろう。
彼はつるつるしたダウンジャケットを着て、デニムパンツのポケットに両手を突っ込んでにんまりしている。なんだか草野球にでも誘いに来た小学生みたいだ。私より十歳近く年上で、もう三十歳を過ぎているのに、口調や仕草が妙に子供っぽい人だった。
「ほかの皆さんも、家族と離れて暮らしてるんだから、お正月は暇でしょ」
そう言われて中国人女性たちは苦笑した。実際そのとおりなのだろう。この倉庫で働いているのは、ほとんどが単身赴任中の中国人女性だった。
私のような日本人女性であっても、実家とは縁を切っているようなタイプで、なおかつ休日に会うような友達がいなくて恋人もいないような者は、お正月は暇だろうと言われると、図星すぎてちょっと反論したくなるのだった。
「恋人と別れたばかりだからといって暇とは限らないのですよ」
「暇だよ、暇暇! ユカさんは寝正月だよ、絶対そうだよ」
パクさんは即座に断言した。
彼は翻訳事務所に勤めており、いろんな貿易会社から仕事をもらっている営業職の人だ。今日は年内最後の文書の納品に来たのだろう。そのついでに、いつものようにあっちこっちの倉庫に寄って、おしゃべりをしているようだ。そのためパクさんはこの湾岸エリアでは歓迎されてたり迷惑がられてたりする。評判は倉庫ごとに分かれる。うちの倉庫では、まあ、歓迎されているのだろう。中国人女性たちのパクさんを見る目は優しい。
「その、女の人のお祝いっていうのは何ですか」
不良品のスカートをダンボール箱に詰める作業をしていた女性が、もっともなことを聞いた。
「ある女の人に、とても良いことがあったんだ。だからそのお祝いなんだよ。彼女はできるだけたくさんの人に祝ってほしいんだって」
それ以上のことはパクさんは教えてくれなかった。パーティーに来ない人には詳しくは言えないよ、彼女にとってデリケートなことだからね、言いふらすのは良くないでしょ、とのことで、それもまたもっともだと思った。思ったけれども、私の失恋事情を言いふらしてみんなで共有するのは良いのか? 矛盾してないか。まったくもう。
結局、そのお祝いのパーティーに参加を決めたのは私だけだった。みんな案外忙しいらしい。
私は学生時代からずっと付き合っていた恋人と別れたばかりだったし、気分転換になればいいなと思っていた。パクさんが参加するパーティーなら身の危険もないだろうという安心感もあった。また、そのパーティーとやらで、あわよくば素敵な人と出会えたらいいなという下心もあった。ちょっぴりだけど。うん、ほんとちょっぴり。
「一月一日、夜に迎えにいくね」
パクさんはハンドルを回すみたいな動きをしながらそう請け負うと、口笛を吹きながら帰っていった。口笛て。子供じゃないんだから。
お祝いパーティーは、とある個人居酒屋で行われた。パクさんの後について店に入ると、大きな個室に通された。
室内には十人ぐらいいた。全員がパクさんの知り合いだそうだ。韓国人に中国人に日本人に……みんな大人しくてまじめそうな雰囲気だった。パクさんの交友関係が手に取るようにわかる。国籍問わず派手でやんちゃな人とは仲良くしないのだ。
その部屋の上座、奥の席で、ニコニコと人懐こい笑みを浮かべているのが、本日の主役女性なのだろう。私より幾つか年上に見えるが、まだ三十歳にはなっていないのではないか。ふっくらした頬と丸い目をした愛嬌のある顔立ちだ。着ている服はシンプルなワンピースで、化粧はしていない。髪は後ろで一つ結びにしている。無防備なほど自然な姿でそこに座っていた。パクさんの知り合いなら悪い人じゃないだろうとは思っていたが、予想以上に地味な感じがして、私はどこか親近感のようなものを抱いていた。
彼女は立ち上がった。
「みんな、来てくれてありがとー。私は中国人で、ワンちゃんっていいます」
みんなが拍手すると、彼女は照れたように笑って、腰を下ろした。
パクさんは私をワンちゃんの隣に座らせると、自分は真向かいに座った。彼は嬉しそうに、にこにこしている。
私は本日の主役にひとまず挨拶することにした。
「きょうはパーティーにお招きいただきましてありがとうございます」
「うふふ、タメ口でいいよお」
こういう場で固持するのはかえって失礼だ。言われたとおりにしようと思った。
「ところでワンちゃんっていうのは名字なの? それとも名前のほう?」
「名字だよ」
彼女は口角をきゅっと上げてみせた。
「ワンちゃんって、犬みたいでしょ?」
「まあ、うん」
「だから、気に入ってるの」
店員が生ビールの注がれたジョッキを持ってきた。私たちはジョッキを胸元に掲げ持ち、ワンちゃんの言葉を待った。彼女が乾杯の挨拶を言うだろうと、そう期待して。
「ハッピー」
ワンちゃんがそう言いながらジョッキをぶつけてきた。思ってた挨拶とちょっと違った。お祝いの理由を教えてくれると思ったのだけれど。でも、それは今聞かなくてもいいことなのかも。みんなハッピーと言いながら、それぞれ乾杯して、ビールを飲んだ。パクさんだけウーロン茶なのは、帰りも運転するつもりなのだろう。
料理が運ばれてきて、参加者たちのおしゃべりが弾み、室内は賑やかになった。ただ、ワンちゃんに話しかける人はいない。ワンちゃんも、話しかけない。知り合いはパクさんだけなのかもしれない。そうなると、自然と話し相手はパクさんと私ということになる。
「それで、今日はどんなお祝いなの?」
私はワンちゃんと、目の前に座るパクさんを交互に見ながら尋ねた。
「私のお祝いだよっ」
ワンちゃんが自分の頬を人差し指で突いている。
「良いことがあったんだ?」
「うん。私ね、日本に来たのが今から十二年前なの。中国から船で来て、売春小屋に入れられたんだあ」
ぎょっとする言葉が飛び出してきたから、思わず周りの人々の様子を窺ってしまった。こちらに注目している人はいない。参加者同士のおしゃべりに夢中で聞こえなかったようだ。
「え、えっと、風俗のお仕事をしていたっていうことなのかな、いや船? なんで船? 飛行機ではなくて」
我ながら変な質問をしていると思うが、とにかく時間を稼ぎたかった。この会話にうまく対処する方法を考える時間が欲しい。
ワンちゃんは律儀に説明してくれた。
「えっとね、お金がなくて飛行機に乗れなかったの。船に「荷物」として乗ったほうが安いんだよ。ごはん抜きになるけど。あ、もちろん密入国じゃないよ。ちゃんと手続きして、荷物と一緒に乗るだけだから。私ね、日本に来るためにヤクザにお金を借りたんだよ。その借金を返すために売春小屋に入れられたんだあ」
刺身の盛り合わせがテーブルに並んだ。体を切られた鯛がじっと私を見ている。墨を垂らしたような真っ黒な瞳を見つめながら、私は必死に頭を動かす。ヤクザとか聞こえた気がするけど、気のせいかな……いや気のせいじゃないな……。何て相づちを打てばいいんだろう?
「苦労したんだねえ」
パクさんが痛ましいと言いたげな声で呟いた。あ、なるほど、そういう感じで返せばいいわけか。ヤクザに借金して苦労したね……いや、どうだろう、話の内容に対して、あまりにコメントが軽すぎないだろうか。
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