仮想航空史(仮)

A39

第1話

 四月十二日、月曜日。


 視界のすべてが、暴力的なまでの蒼(あお)に塗り潰されていた。


 高度三万フィート。大気が希薄になり、空が宇宙の闇を透かし始める境界線。  そこに、ぼくの意識はあった。


 網膜に投影されたHUD(ヘッドアップディスプレイ)が、淡いエメラルドグリーンの光で刻一刻と数値を弾き出している。


 二十年以上前の設計思想に基づいた、頑迷なまでの「重み」が、右手のスティックを通じて脳に直接流れ込んでくる。けれど、それはどこか他人事のように冷たい手応えだった。


「……やっぱり、戻されるな」


 機体をバンクさせ、旋回に入ろうとする。だが、指先に伝わるフィードバックは、ぼくが望むよりも先に「正解」へと滑らかに補正されてしまう。


 かつての極東紛争の時代。高度化された自律制御(AI)が、ぼくの入力を最適解へと矯正していくのだ。


 これは、子供時代に夢見た自由な空じゃない。あらかじめ用意された、生存のためのルールをなぞるだけの作業だ。


 ——これはゲームじゃない。


 視界の端で点灯する『RQ-47B』という機体名称。最大離陸重量二十トン。


 かつてアメリカの指導のもと日本で運用され、空から戦線を見守り続けた無人偵察機。ゴーグルを外すと、網膜に焼き付いた蒼い残像が、現実に上書きされるように消えていった。


 耳に届くのは、サーバーラックの冷却ファンが放つ低いうなり。鼻を突くのは、古いコーヒーの混じった、研究室特有の乾いた空気だ。


「結城、今のセッションのログ、サーバーに上げといて」


 声をかけてきたのは、院生の森本さんだ。彼女の視界にあるARメガネには、ぼくには見えない膨大なデータが流れている。


「了解です。すぐやります」


 ぼくは短く応え、椅子から立ち上がった。


 二十一歳のぼくに与えられた仕事は、今のところ「AIが正しく空を飛んでいるか」を、人間の感覚で事後確認するだけの、補助的なものでしかなかった。




 研究室のモニターに映る『RQ-47B』の三面図を、ぼくは無意識になぞっていた。


 二〇年前、極東の緊張がピークに達していた時代に実用化され、今や枯れた技術の塊。かつての攻撃機型から兵装ステーションを撤去し、高精細な光学・電子偵察用に特化させた全翼機。


 ステルス形状を維持しつつも、内部容積を確保するためにどこか武骨な厚みを持った主翼。実戦投入されていた当時の煤けた航空迷彩は剥がされ、現在は試験機特有の、冷たく無機質な白に塗りなおされている。


 そのマットな塗装の下に隠された、強靭なCFRP(炭素繊維強化樹脂)のスキン、ハニカム構造の隔壁、そして複雑な応力を受け止めるアルミ合金のフレーム。


 紛争という極限の要求に応えるべく設計された物理的な実在感に触れたい。AIの補正越しではない、剥き出しの慣性をこの手でねじ伏せてみたい。


 そんな偏執的な執着を、ぼくはAR広告の氾濫するキャンパスでは慎重に隠し持っていた。


 キャンパスを歩く学生たちの頭上の遥か彼方、天頂から垂直に降りる銀黒の剃刀。ベーカー島の南方、遥か赤道上から伸びる七二、〇〇〇キロメートルのグラフェン製超伝導構造体は、今日も空気遠近法の彼方で白く霞みながら、空を左右に断ち割っている。


 六角形の炭素結晶が完璧に編み上げられた、文明の巨大な脊髄。誰もが見上げることさえ忘れた、史上最大の固定資産。


 自由な空など、あの構造体が設置された数十年前に死に絶えたのだと、その絶対的な不動の影が嘲笑っている気がした。


 だからぼくは、私物のスマートデバイスに詰め込んだ数十年まえのエミュレーターを、密かな救いとしている。


 仮想の空でだけ、ぼくは「管理」から逃れ、自分の意志で翼を飛ばせる。


「今日だけは、ぼくが天使とダンスだ」


 かつてのフライトゲームから引用したその一節が、胸の奥で小さな棘(とげ)のように疼いた。


 あのアナログな空へ、ひとときでもいいから接続したい。


 その歪んだ願望が、これから始まる惨劇の引き金になるとも知らずに、ぼくは自身の「好き」という感情をアンカーにして、現実を繋ぎ止めていた。




 生体認証手続きをして研究室に入ると、空気がわずかに変質していた。部屋の隅には、見覚えない三人の影があった。


 黒崎教授が、いつになく背筋を伸ばし、硬い表情で彼らと対面している。


「……ええ、今回のセッションでは、通信遅延に対する肉体的・精神的なフィードバックの限界値を測定しています。あくまで基礎研究の範囲内ですが」


 教授が言葉を選んでいる。


 見学者のうち二人は、仕立ての良いダークグレーの背広。最後の一人は、糊のきいた濃紺の制服を着用した男性だった。


 制服の男性が微動だにせず、鋭い眼光で研究室の機材を見渡している。その胸元にある銀色の航空き章——二つの翼が中央の紋章を抱く『ウイングマーク』が、LEDライトの光を反射して鋭く輝いていた。


 それを見た瞬間、ぼくの胸の奥が、小さな耳鳴りのような音を立てた気がした。


 自衛隊の佐藤中尉。


 彼は、あのグラフェンの構造体が天と地をつなぐ赤道直下の「基部」を知る人間なのだろうか。空気遠近法の彼方に溶けている七二、〇〇〇キロメートルの構造体を、あらかじめ定められた『通路』として受け入れている側の人間なのだろうか。


「結城、準備はいいか」


 教授の声に、ぼくは我に返った。教授の視線はどこか泳いでいて、ぼくと目を合わせようとはしなかった。


「……はい、問題ありません」


 政治的な駆け引きも、軍事的な評価も、ぼくにとっては飛行機以外の『背景ノイズ』に過ぎない。


 そう自分に言い聞かせ、ぼくは実機機リンク用のデバイスへと手を伸ばした。




 リンク開始まで、あと十分。緊張を逃がすように、ぼくは一度研究棟のトイレへと向かった。


 自動ドアが閉まると、研究室のざわめきが断絶された。センサーが反応し、無機質なLEDライトが点灯する。


 ぼくは蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗った。


 その時だった。


 鼻の奥に、甘く乾いた花の匂いが残った。


 ——どこかで嗅いだことのある匂いだ。


 けれど、記憶のどこを探っても名前が出てこない。記憶のどこかを鋭い針で掻き毟るような、場違いな甘く柔らかな気配。


 この場所に、そんな贅沢品を置くような場所ではないはずだ。


 ぼくは、理性的であろうとした。


 鏡の向こう、開いた窓から見える空の端には、今日もあの「超伝導の構造体」が白く霞んで見えている。あの巨大な現実と比べれば、この花の匂いなど、取るに足らない脳のバグに過ぎないはずだった。


 鏡の中のぼくは、驚くほど青白い顔をしている。


 個室を出て廊下へ戻っても、その匂いは粘りつくように航の意識から離れなかった。不意に、廊下のAR案内板が一瞬だけ、ノイズで激しく揺れた気がした。




 コンソールに戻ると、佐藤中尉の視線がぼくの指先に突き刺さるのを感じた。


 ぼくは震えそうになる指を、あえて事務的な手つきでグローブに滑り込ませる。HUDが起動し、網膜に再び「RQ-47B」の機体状況がオーバーレイされる。


「リンク開始。同期率、九八パーセント。安定しています」


 ぼくの声は、自分でも驚くほど冷徹だった。


 意識が、二〇キロメートル先の滑走路上に待機する機体へと、細い神経の束を伸ばしていく。単発のターボファン・エンジンが上げる高周波のうなり。主翼の端を震わせる、冷たく湿った海風。


 それらの情報がデジタル化され、ぼくの脳に『現実』として再構成される。


「離陸許可。航、行け」


 黒崎教授の指示が飛ぶ。スロットルを押し込む。機体が、滑走路を蹴って加速を始めた。


 ほぼ、最大離陸重量ちかくまで燃料と実験機材を積み込んだ、二十トンを超える複合材料の塊が、空気を切り裂き、揚力を味方につけて大地を離れる。その瞬間、ぼくはすべてを忘れた。


 高度を稼ぎ、旋回。機体はぼくの思考に、ごくわずかな遅延を伴って反応する。


 AIのガードレールをギリギリまで剥ぎ取り、不安定な大気の揺らぎを、ダイレクトにその身で受け止める。


 これは実験であり、将来的な運用データの収集が目的だ。だけど、この瞬間だけは、ぼくはぼく自身の「好き」のために、空を支配している。




 ——異変は、高度一万五千フィートで起きた。


 突然、HUDの緑色の文字が赤く激しく点滅し始めた。


「システム・エラー。通信リンク、急激に劣化……!?」


 ぼくの声が、研究室の静寂を切り裂いた。教授の叫び声が聞こえるが、ぼくの脳に流れ込んでくる情報は、すでに工学的な理解を超えていた。


 デジタルノイズ。いや、それはノイズですらなかった。


 何万もの『異なる可能性』が、同期不全を起こして重なり合っている。そんな、混沌とした色彩の奔流。


 鼻の奥に、あの匂いが戻っている。


 甘く乾いた、あの花の匂い。それが、今度は喉の奥を焼くような強烈な圧迫感となってぼくを襲う。


「……っ、教授、これ、同期が……逆流して……!」


 機体のカメラが捉えているはずの風景が、グニャリと歪んだ。


 海のはずの場所に、見たこともない巨大な存在がそびえ立つ。空のはずの場所には、幾何学的な模様が刻まれた『何か』が静止している。


 その歪みの中心から、誰かの視線を感じた。神様でも、人間でもない。


 ただ、圧倒的な合理性を持って、ぼくという個体を『選別』しようとする観測者の目だ。


「結城! デバイスを外せ!」


 佐藤中尉の鋭い警告が、遠くで聞こえた気がした。だが、ぼくの意識は、すでに引き剥がされていた。


 足元の床が消え、重力という概念が崩壊する。


 あの日々の研究室が。ぼくが愛していたはずの、白く塗られた無機質な機体が。  ぼくの意識をはなれ、飛び去っていく。


 最後に、一瞬だけ見えた。


 ぼくのRQ-47Bが、蒼い空の中で、誰の手も借りずに美しく翼を翻す姿を。それは、ぼくの知るどの航空史にも存在しない、けれどあまりにも自由な飛行だった。


 ——ああ、やっぱり。ぼくは、もっと空を飛ばなきゃいけない。


 そんな、どうしようもなく身勝手で、偏執的な一念だけを抱えて。ぼくの意識は、完全な沈黙へと沈んでいった。

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