主体離脱
@AIokita
第1話 優秀な子
夕方、Tの家のリビングはいつも同じ匂いがあった。湯気の立つ味噌汁と、入浴用に畳まれたバスタオルの香りが混ざり合って、どこか「正しい家庭」とでもいうような空気だった。
その空気の中で、Tは机に向かっている。シャーペンの芯が紙に文字を綴る音だけが響いていた。問題集の余白には、解き方のメモがびっしり書き込まれている。だが、そこに熱は感じられない。書かなければ優秀な自分が崩れてしまうから、ただやっている。その顔に表情はなかった。
背後でテレビの音が小さく鳴り、母親が台所から声をかける。
「今日も頑張ってるわね」
返事をしようとしたが、喉が乾いていて声が出ない。Tはうなずくだけで、シャーペンを持つ指に力を入れ直した。
母親は、Tが「頑張っている」姿を見るのが好きだった。姿勢の良さ、机の上の整頓、机の端に置かれた単語帳。そういうものを見れば、安心できた。父親も同じだった。仕事から帰ってきてネクタイを外し、台所に寄って「どうだ、勉強は」と聞く。その問いには、答えが最初から用意されている。
「ああ、大丈夫だよ」
Tが答えると、父親は少しだけ目元を緩める。母親は「そうでしょう」と頷く。二人にとって、Tは「優秀な子」だった。だから、その言葉が成立するような生活の形が維持されていれば、それでいい。
Tは、優秀ではなかった。
少なくとも、T自身はそう感じていた。学校の成績は悪くはない。むしろ平均より少し上くらいにはある。ただ、それは「少し上」でしかない。解ける問題と解けない問題の境目がはっきりしていて、解けないときは、いくら時間をかけても掴めない。試験のたびに胃が縮むような感覚があり、結果が出るまでの時間が、いつも長かった。
それでも、両親は言った。
「あなたはやればできる子だから」
「ちゃんとした大学に入れば、将来が安定する」
「頭のいい子なんだから、大丈夫」
Tは「頭がいい子」という言葉が嫌いだった。言われた瞬間、その言葉が自分の身体に貼られて、剥がせなくなる気がしたからだ。もし失敗したら、自分は「頭がいい子」ではなくなる。そうなったとき、両親は自分をどう見るのか。あるいは、見ること自体をやめるのか。その想像が怖かった。
受験が近づくにつれ、Tの一日は短くなっていった。学校から帰り、塾へ通い、夜遅くに帰ってくる。風呂に入って、机に向かい復習と予習を済ませて。寝る。朝になれば起きる。繰り返し。休日も同じだった。机にかじりつく時間だけが積み重なり、昔のように友達と遊んだりゲームをしたり、他のことをする時間が削られていった。
Tは、「削られていく」感覚に気づいていた。それが、何か大事なものを奪っている予感もしていた。だが、何が奪われているのかは、うまく言えなかった。
ある夜、Tは布団の中でスマートフォンを開いた。時間は午前二時を過ぎていた。目を閉じようとしても、変に頭が冴えてしまって眠れなかった。
ナイトモードのスマートフォンを眺めて、SNSやニュースサイトや掲示板を巡る。指を動かせば、別の世界に入っていける。指を動かすだけでいい。考える必要はない。ぼんやりと画面を眺めていれば考えるのをやめられる。
Tは広告に誘導されて、あるサイトを開いた。
カジノの画面。カードとルーレット。派手な色。音。勝利の演出。そこには、受験とはまったく違う時間が流れていた。何が正解で何が間違いかを考える必要もない。運任せにしても結果がすぐに出る時間。勝つか負けるか。ルージュかノワールか。
サイトの広告には初回ポイントの配布があり、電子マネーやクレジットカードは必要なかった。
「一回だけ」 Tは自分にそう言って、最初の賭けをした。
勝ったり負けたりを繰り返したが、ポイントは減るようで減らなかった。何度もやっているうちに時間が過ぎていく。だが授業のように頭を使う必要もない。ただベットすればルーレットやダイスが答えを出してくれる。Tにはそれが心地よかった。自分で何かを決める必要がない。勝っても負けても運次第であることは、いつも自分が責められているような感覚を遠くに置くことができた。
そうしてTは「少しだけ」を繰り返し、気づけば夜が明けそうになっていた。
翌日、Tは学校で眠かった。授業の内容は頭に入らない。ノートの端に意味のない線を書き続ける。塾でも集中できない。帰宅して机に向かっても、問題が紙の上で滑る。
消えない眠気にイライラする時間が続く。こんなことなら昨夜もほどほどに寝ておけばよかった。眠くて仕方がない昼間の間は、そう後悔していた。
そんな一日を送っても夜には再びスマートフォンを開いて、昨日のサイトを訪れていた。そこには変わらないトップ画面がある。すでに何かその画面に安堵を感じるようになっていた。
昨夜のように無心で賭けていき、特に大きな勝ちを得るでもなく、負けて熱くなるでもなく時間を過ごした。そこにいる間だけは、自分が「優秀な子」である必要がなかった。運に揺られて勝ったり負けたりしているだけでいい。誰からも評価されない。評価を気にしなくていいということが、こんなにも楽なのか、とTは思った。
それは「楽しい」というより、自分がカジノという空間に溶け込んでいく感覚だった。自分の輪郭が失われ、カジノの音や光の中に溶け込んだまま時間が過ぎる。その感覚が心地よかった。いつの間にか最初のポイントは溶け、Tは親の財布からクレジットカードを持ち出してサイトに登録していた。
数週間後、母親がクレジットカードの明細を見て、顔を青くした。
「これ、何?」
母親の指が紙の明細をなぞり、ガサリと鳴った。
母親の声は低かった。怒鳴ってはいない。だからこそ、余計に怖かった。父親も呼ばれ、明細を覗き込み、眉間に皺を寄せた。
「お前、これ……」
Tは、言い訳を探した。だが、言い訳が出てこない。言葉が喉の奥で固まって、舌が動かない。手が震えた。心臓が早く打った。胃がきりきり痛んだ。
母親の目には、失望が浮かんでいた。父親の目には、怒りよりも、理解できないものを見る戸惑いがあった。
Tは、その二つの視線の間に立っていた。そこに立つ自分が、急にとても小さく見えた。小さくなって、消えたくなった。
消えたくなったから、さらに喉が詰まった。
「ごめん……」
やっと絞り出した声は、情けないほど細かった。
母親は涙が浮かびかけていたが、それを押し込むように言った。
「……このことは受験が終わってから話そう」
父親は手に取ったクレジットカードの明細を細かく畳みながら深く息を吐いた。
「……そうだな、いまは受験に集中しろ」
瞬間、Tはほっとしたように感じたが、それと同時にもっと深いところで何かが壊れた気もした。
「不問にされる」というのは、許されることではない。問題がなかったことにされることだ。まるで、Tの中で起きていたことも、Tという子自身も、受験という大きな目的の前では気にする必要もない。そう言われているようだった。
父親の手の中で小さく折りたたまれ、見えなくなった明細がどこか自分のことのように思えた。
その夜、Tは机に向かった。問題集を開き、ペンを走らせた。両親はいつもより静かで優しかった。母親は「頑張ろうね」と言い、父親は「お前ならできる」と言った。
Tはうなずいてみせた。「優秀な子」を取り戻すための生活をもう一度歩み始めた。
頭の中にはカジノの画面が残っていた。心地良い光と音の刺激。勝っても負けても、努力も評価も求められない場所。そこへ行けば、自分は溶けて消えてしまえる。背もたれに体を預けるように楽になれる。
スマートフォンの画面を閉じても、親指だけがトップ画面へ戻ろうとしていた。
あそこが「戻りたい場所」だとTは知っていた。それでも、Tは再び受験という一本の道を歩きだす。
今のTは両親から背負わされた期待の中に収まっている。
机に向かうTを見て両親は安心したのか、「やっぱり、うちの子は優秀だ」と口にしていた。あるいは自分たちに暗示でもかけるように言ったのか。それはTにもべったりと張り付いた。
Tは問題を解き続けて、家の中の「正しさ」に溶け込んでいった。
それなのに、シャーペンとノートの中で不安が消えることはなかった。
主体離脱 @AIokita
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