返ってくるはずがない手紙
結 励琉
第1話 第一通
商店街の外れに立つそのポストの色を、ある人は漆黒だと言い、またある人は深い紫色だと言う。それは確かにそういう色だと言う人もいれば、見る時間や角度によって違って見えるという人もいる。
形は丸型ポストだということには誰も異論がない。ただし、差し出し口のところには「郵便」という文字も、お馴染みの郵便マークもない。郵便物の収集時刻も表示されていない。
ある人はすでに使われなくなったポストが放置されているだけだと言い、またある人は商店街を彩るオブジェだという。しかし、郵便局の人はそんなポストがあった記録はないと言い、街で長く商売をしている商店会長もそんなオブジェは知らないと言う。
そして、郵便局も商店会も、そのポストに手紙が投函されても、一切関知しないと言う。
それでも、そのポストに手紙を投函する人が後を絶たない。なぜなら、そのポストに出した手紙には必ず返信がもらえる、そう信じられているからだ。
たとえそれが、決して返信があるはずのない手紙であっても。
第一通
その日、私と兄貴は父に連れられてプロ野球の観戦に来ていた。試合はロッジ対阪鉄。
「安達の球には蝶々が止る」と応援団が囃し立てていたことを今でも覚えているので、座っていたのはロッジ側、阪鉄の先発はもちろん安達投手だったのだろう。
球場は1972年限りで閉鎖された東都球場、つまりそんな時代のことで、私もあれから年月を重ねたことになる。
当時の我が家の構成は父と母、小学校二年生の私と三つ年上の信友兄貴の四人家族。とても仲のよい家族だった。どこへ行くにも家族みんなで出掛けていたのだが、私が小学校一年生の終わり頃から、プロ野球観戦などへ父と兄貴の男三人だけで出掛けることが増えた。
プロ野球の試合がない日は映画へ行くことも多かった。特撮物を観ることが多く、男だけで行くことは普通に思えた。
そんなよくあるの家族の、その日もよくある一日だった。いや、そうなるはずだった。
「行ってらっしゃい。楽しんできてね」
いつもと同じように、母は私たちを送り出した。うちは当時としては珍しい共働き家庭だったが、その日の少し前に母は仕事を辞めて家にいるようになった。
優しい母がいつも家にいるので、私も兄貴も無邪気に喜んでいた。その日も家に帰れば、「お帰りなさい。楽しかった?」と母が出迎えてくれる。そんないつもと同じ日になるはずだった。
ところが、家に帰ったら母はいなかった。
「ねえお父さん、お母さんはどこに行ったの?」
当然私も兄貴もそう父に尋ねた。
「母さんはな、ちょっと用事があって何日かお出かけすることになったんだ。急だったからお前たちに言う時間もなかったな」
「岐阜のおじいちゃんち?」
我が家は千葉県にあったけど、父母とも岐阜県の出身だ。父は美濃加茂市、母は岐阜市。夏休みになると両方の実家を訪れていたので、私たち兄弟にとっても馴染みのある場所だ。でも、私が知っている限りでは、母だけで行ったことはなかったはずだ。
「おじいちゃんかおばあちゃんの具合でも悪いの?」
高学年ともなれば兄貴はそれくらいの気が回る。私は横で「そういうことか」と納得しかけていた。しかし、父の答えは違った。
「うーん、そういうことでもないんだけど、まあそんなものかな」
「じゃあ、お母さんはどこへ行ったの?」
私は重ねてそう聞いたのだけど、答えず父は会話を遮った。
「大丈夫、心配しなくていいから。さあ、もう遅いからお風呂に入って寝るぞ」
私は母の不在はたいしたことではないと思い、それ以上聞かなかった。
兄貴も何も聞かなかった。
しかし、何日経っても母は帰ってこなかった。
何週間、何ヶ月間経っても帰ってこなかった。
そして、お母さんはどうしたのと、いつ聞いても父は答えをはぐらかした。
もちろん、悲しかった。ただ、毎日父に聞いていたのが一日おき、一週間おきと間隔が開いていき、いつしか聞くのをやめていた。子供心にも、もう聞いても父から答えは返ってこないと悟ったのかもしれない。
それでも、不思議と父や母を恨む気持ちはおきなかった。母がいなくなった理由はさんざん考えた。父と不仲になって母が家を出たということも考えたが、あの日までの父と母の様子からは、そんなことは全く感じられなかった。
それになにより、愛情込めて育ててくれていた私たち兄弟を置いて、母が姿を消すことは考えられなかった。
例えば母とのこんな思い出がある。兄貴と違って食の細かった私のことを、母はとても心配していた。
幼稚園に入り、初めてお弁当というものを持っていくことになったとき、母は家で「予行練習」をしてくれた。
たらこを混ぜ込んだ俵型のおむすびを作り、幼稚園へ持っていくのと同じ、その頃人気があったテレビ番組のキャラクター、子ブタの三兄弟が描かれたお弁当箱に詰めてくれた。
それを家で母と一緒に食べた。もう六十年近くも前のことだが、今でも鮮明に覚えている。
そんな母が黙って家を出ざるを得なかった理由が、何か、何かあるはずだ。その理由がわからない以上、恨みという感情が湧かなかったのかもしれない。
あの日から二十五年ほど経ったときに、今度は父が急病でこの世を去ってしまった。今から三十年前のことだ。つまり、母がいなくなって五十五年も経つことになる。
もしかしたら、父はいつかは私たちに真実を話そうと思っていて、それを果たさずに急死してしまったのかもしれない。
母が姿を消したとき、父は三十八歳だった。
父が亡くなったとき、兄貴は三十六歳、私は三十三歳だった。兄貴と私があのときの父の年齢を超えたら、つまり、あと数年経ったら、父は真実を話してくれていたのかもしれない。
私も人生の残りを考える歳となった。残りの時間は、なるべく思い残しのないように過ごしたい。母が突然姿を消した理由を知りたい。父に教えてもらいたい。しかしそれはもう果たせないことだ。
ずっとそんなことを思っていたときに、あの商店街の外れのポストの噂を聞いた。決して返信があるはずのない手紙に返信があるという、あのポストの噂を。
もしかしたら、父に手紙を出したら、父から返信があるのではないか。母が突然姿を消した理由を教えてくれるのではないか。
もちろん、単なる噂に過ぎないかもしれない。
それでも、私は父に手紙を書いた。
「父さんへ
父さん、お元気ですか。という書き出しも変ですね。でも、返事を貰う前提で手紙を書くとなれば、どうしてもそんな書き出しになってしまいます。父さんがどこかで元気に暮らしている、そんなつもりでこの手紙を書いています。
私は元気にやっています。馬齢を重ね、父さんが亡くなった時と同じ歳になりました。娘たちも学校を卒業し手が離れましたが、その分、自分の人生の残りの時間を意識するようになりました。
どうして手紙を書いているか、父さんは察しているかと思います。そう、母さんのことです。
いきなり聞いて申し訳ないとは思いますが、あの日、母さんはどうして私たちの前から姿を消したのですか。
普通だったら、父さんも慌てふためき、母を探したはずです。でも、父さんはそうしなかった。いや、そうしなかったように見えました。あんなに仲がよかったふたりだったのに。
つまり、父さんは母さんが姿を消した理由を知っていたことになります。
母さんは私と兄貴を愛してくれていました。父さんと母さんの仲もよかったと思います。何か家族の問題があったとは思えません。だから、どうしても、母さんが姿を消した理由がわからないのです。
そして、私が尋ねても尋ねても父さんは答えずにはぐらかしていましたね。ということは、どうしても答えられない理由があったと考えるのが普通です。
でも、子供相手では答えられなくても、大人相手なら答えられたのかもしれません。もしかしたら、いつか教えてくれるつもりではなかったのですか。
例えば兄貴と僕が、あのときの父さんの年齢を超えたときとか。つまり、あと数年経てば理由を話してくれていたのではありませんか。
もしそうだったら、理由を教えてもらえませんか。何を聞いても驚きはしません。ただ、真実を知りたいのです。
一縷の望みを込めてこの手紙を書きました。私も人生の思い残しを少しでもなくしたいのです。返事を貰えると嬉しいです。
則光」
封筒には宛先の住所を書けるはずもなく、ただ「父さんへ」と書いて、私はそのポストに手紙を投函した。
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