第一話 婚約破棄と思い出のクリームシチュー

第2話 地元で迎える朝

「待って、ってば!」


 渾身の大声とともに手を伸ばしたところで、ハッと意識が浮上した。夢だ。何度も繰り返される、現実にあった悪夢。

彼と婚約破棄をしたのは夏になってすぐのことで、すでに三か月が経過していた。


 はぁ、と大きな溜息をつく。額に手をあてると、汗をかいていた。起き上がって布団から出ると冷え冷えとしていて、震えが来る。向こうの十月と同じ気持ちでいたら風邪を引く。もう何年もの間、年末しか帰省していなかったから、すっかり忘れていた。


 朝の窓は結露が溜まっている。カーテンを開けると、あいにくの曇り空。夢見が悪いから、こういう日こそ晴れていてほしかった。


 少し遠くに見える、山頂がひらべったくなっている山。牛が寝そべっている山と書いて臥牛山がぎゅうざんとも呼ばれるその山は、この街のシンボルのひとつだ。今は雲がかかってあまりよく見えないけれど、ところどころ紅葉し、秋化粧した姿は美しい。


 北海道・函館はこだて市――……そしてここは、私の実家。十八年間を過ごした自室で、私は目覚めた。




 仕事はもともと辞める予定になっていた。ただそれが早まっただけだ。


 あの夏の日、婚約者の様子がおかしいことにまったく気がつかなかった私は、個室に通され、メニューを開いて浮かれていた。コースで予約しているのではなく、アラカルト。前菜とかメインディッシュとか関係なく、好きなものを好きなだけ食べたい。


 食いしん坊が高じて、冷凍のお弁当やお惣菜の製造を手掛けるベンチャー企業に入社したくらいである。これは研究の一環でもあるのだ、と言い訳をしながら選んでいた。


 繁明は、メニューを開いてすらいなかった。ちら、ちら、とスマホを確認する素振りをしていたから、やり残した仕事があるのかもしれないと思った。


 ――久しぶりのデートだからって、無理をしたのかな。それなら繁明の家に行って私が食事を作るのでもよかったのに。最近辛いものが食べたいって言ってたっけ。中華ならすぐできるし、私は全然、それでもよかったんだけどなあ。


 なんて、彼を気遣うようなことを考えていた私は、本当にいじらしい。我ながら、涙が出ちゃう。


 彼がスマホを気にしていたのは、仕事の連絡待ちなんかじゃない。もっと利己的で、どうしようもない理由だったんだから。


 思い出すだけでムカムカしてきた。今日の晩ご飯はハンバーグにしてやる。玉ねぎのみじん切りで涙を流して強制デトックスして、全力で捏ね、小判型に成型したらパンパンパーン、と空気を抜く。昔からよくやるストレス解消法で、家族はみんな、「いつものか」と、放置してくれる。


 ふああ、とあくびをしながらアラームを止めた。午前六時。まだ薄暗い中、着替えてからそっと階段を下りる。


「お母さん、おはよ。今日も早いね」

「おはよう、まひる。別に寝てていいわよ? 夕飯だけでも、ありがたいし」


 ちゃちゃっと手を洗い、母から朝食の準備を引き継いだ。


「職無しの娘を置いてくれてるんだから、家事くらいさせてちょうだいよ。ほら、お茶でも飲んで座ってなって。今日パートでしょ? お父さんの分のついでだから、お弁当も作るね。卵焼き、甘いのとしょっぱいのと出汁巻きとどれがいい? 私は断然今日は、甘いのの気分なんだけど、お母さんもお父さんも出汁巻き好きだったよね、だから出汁巻きで……」


 冷蔵庫から取り出した味噌を取り出し、適当なスプーンで掬う。たったそれだけの動作をしている間、返答を待たずに喋りかけていたことを、母の表情からようやく気がついて、口を噤んだ。


 また、やっちゃった。本当に、どうしようもない。家族には、自分がやらかしていたら注意してほしいと頼んでいる。けれど、皆に口を挟む隙すら与えないのだから、本当に自分が嫌になる。


「まひる。無理はしないでいいのよ? お母さんはあなたのそれ、大切な個性だと思ってるし。ちゃんと黙るべきときは黙っていられるんだから、気にしなくても」


 個性とは、便利な言葉だ。欠点であっても、その言葉で括ってしまえば、長所にすら見えてくる。


 沈黙は金、雄弁は銀という格言もあるけれど、私の雄弁は、石ころすらの価値もない。だって私は、このおしゃべりが原因で、婚約破棄をする羽目になったのだ。


 ……あの日、レストランの個室に現れた第三の人物は、私のよく知る子だった。


 小雪こゆき? と、彼女の名前を呼べば、びくりと肩を揺らして怯えた。


 小学校、中学校と一緒だった。高校は、彼女が女子校に行ったから別れたけれど、連絡は取り合っていた。親友であった。少なくとも、私はそう思っていた。


 東京の大学に進学することになったけれど、怖い。そんな風に言った彼女が、実際にホームシックだと泣きだす度に、私は駆けつけて、料理を振る舞った。いつも美味しいと言ってくれて、涙の最後の一粒を流し終えたときには、笑ってくれた。彼女のその笑顔が見れたら、材料費だとか交通費だとか、後片付けだとかどうでもよかった。


『俺、お前じゃなくて小雪と結婚するから』


 口約束を反故にするのとまったく同じテンションで、お互いの親にも報告しあって、婚約指輪も贈られて、式場も何もかも決めて滑り出していた私との結婚を、なかったことにすると言われた。


 信じられなかった。


 繁明のことを「婚約者だ」と紹介したのが、彼らの初対面だったはずだ。数か月前のことだった。小雪はいつになくはしゃいでいて、「素敵な人ね。幸せにしてくれそう」と褒めてくれた。今思えば、「かっこいい」「その年齢で部長さんなんですね、すごい」など、私の存在抜きで、小雪は彼を誉めていたのだ。


『小雪が妊娠したから、責任を取らないとな』

 

 うろたえる私に、追い打ちをかける繁明の一言。小雪を見ると、涙をぽろり零して、ただ俯く。大学時代、その涙を見ると、「小雪のことは私が守らなければ!」と、奮起していたものだが、この愁嘆場で泣くということが、どういうことなのかわからない彼女に、幻滅した。


『お前、小雪を泣かせるなよ』


 知らない。勝手に泣いたんだもん。


 思えば彼女の涙に、いつもたいした理由はなかった。辛いのもしんどいのも本当のことだったのだろうけれど、田舎から都会に出て、大学に知り合いのひとりもいなかったのは、私だって同じだ。


 なんの努力もせずに、「東京の人は冷たい」とボロボロ泣いていたことを思い出して、今さらながらに腹が立つ。


 小雪に対してじゃない。そんな女に騙されて、こうして婚約者まで寝取られた自分に対して、だ。


 小雪は涙腺が壊れたかのように泣き続けている。泣きたいのはこっちだ。なのにショック過ぎてか、涙が一切出てこない。強張った顔のまま、私に投げかけられたのは、これまでの私を否定するかのような、繁明の辛辣な言葉だった。


『お前はおしゃべりすぎるんだよ。俺が仕事でちょっとしたミスをしたときとか、放っておけばいいのにいつも話しかけてきてさ。あれ、本当にウザかった。その点、小雪は――……』


 新たな女を褒める言葉は、頭に入ってこなかった。今もまだ一応は婚約者のままだった私に、鼻高々に女の肩を抱く男。


 ――『雨宮あまみやさんが、元気づけてくれて本当に嬉しかったよ』って言ったのに。それで告白してきたのは、そっちじゃない。


 きれいな思い出であった交際のきっかけを、彼はなかったことにした。真逆の感情を今は抱いていると罵った。最低だ。


 いや、最初は確かに、私のおしゃべりに救われていたこともあったのかもしれない。でも、もう彼にとっては私の声は雑音以下の不愉快なものに過ぎないのだ。


「……うん。無理はしてないよ。たださ、大人の女になるには、こう、言葉じゃなくて仕草で語るみたいなことができたらいいな、とは思うんだよね」

「まひる……」


 湿っぽい空気になってしまった。ああ、やだやだ。あの男の夢なんか見たせいだ。


 出来上がった出汁巻き卵の端っこを切って、味見をする。口の中でふわっとほどける。熱くてはふはふと火傷しないように口を動かしていたら、余計なことを言わずに済む。出汁巻き卵は、会心の出来だった。


 ごくん、と飲み込む。喉元過ぎれば熱さ忘れるとは本当で、婚約破棄の苦い思い出もいつか、忘れたみたいに生活できる日がくるんだろうか。間違っても、「懐かしい」だとか、「あれもいい経験だった」にはならないだろうが。


「うーん。最高の出来! 百点満点中百二十点だよ! ほら、食べよ!」


 婚約破棄をして、仕事を辞めて地元に戻ってきて。まだまだ空元気だが、ご飯は美味しいから、大丈夫だ。つくるのも好きだし、大好きな家族に食べてもらうのも楽しいと感じる。うん、平気。私はもうちょっとで、立ち直ることができる、はず。


 食卓に出来上がった朝食を並べるのを母に手伝ってもらいながら、今日の晩ご飯のことを考えるのだった。

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