集団主義
検副
個人主義より強い集団主義
個人の権利と社会の利益とでどちらが優先されるべきか。それは社会の利益を優先するべきである。何故なら、利益を生み出す為に個人より社会を要したとしても利益が増えるのであれば個人を集団に引き込むことがあり得るからである。一方、個人の権利は社会にとって個人の権利と同等な権利が働いてあるようならば、意見の合致で障りがないが、社会にとって得がある権利を優先した際、個人を見定めることとは個人に権利と利益の両方が備わっていない状態を加味して、個人にその個人が個人の権利を有していないのならば、利益こそ非権利的で不当に生じたはずなのだから、利益さえ手に入れてはならないと禁じておくしかない。よって、個人の権利は社会が利益を手にした際、社会がその内に予め備わっていなければならない形態なのである。ここから個人が社会に勝利する場合は、四面楚歌に置かれた人が勝ちを得る極僅かな可能性に委ねられたものであり、通常、信じられるものではない。あるいは、社会は個人という域で人を従えないのである。それは社会が個々人をその枠組みから排斥する社会の崩壊を齎す事象を起こす。それは社会が無駄になるのだからこの脈絡中に含めて良い情報ではない。まとめると、個人の権利は社会の利益が手に入った後、認められる場合が通常であり、個人の権利が社会の利益を圧倒することはあるはずがない。通常、個人の権利の為に社会の利益が事前に個人の利益としても補われている。これは個人において社会と関係を結ぶことが適う好ましい仕様である。この仕様は「公共」とされる個人同士が共同で交わし合うものである。
おまけに間違った主義を書く。個人の権利というよりかはそれに近いものの個人による自分の尊重を個人が信念に抱いたならば、社会の利益がそれに付随して自分の尊重を表立ててくれるといえばそういうことではない。そういうことではない点について詳しく書く。まず、尊重することを重視したとして、個人は個人の尊重を尊重するのではなく、社会の利益を尊重するしかないのである。それは、生きる中、最優先な対象を真っ先に気付くようにする直感の内に備わるべきことである。よって、社会の利益が自らに生じることを個人の人のこととして尊重するのである。因みに、個人の権利が先に動くのだから、個人の権利を個人が返すべき社会に対する借りであると定め、集団も機能せずに個々人だけで社会に利益を与えることをしてはならない。つまり、個人は社会に与える利益を作るのではない。集団化した社会の統御において個人が所属していて、その中で、個人は社会よりも強い権利を利用して、利益が個々人のお陰で増えれば、個々人の元へ利益が分配される仕組みによって集団で働き続けることとなるのでしかない。
更におまけで間違った主義を書く。社会の利益が「社会」と題されていた名目に押し加えられ、名目こそ形而上であるが故の仮初な実態で利益が蓄えられるという無理に向けて「権利」という形而上の仮初な実態の作り出しだけを押し加えさせ、形而上の仮初な実態の内で交わされる。これに頼った個々人は社会を保つだけ保てば、利益が形而上に規約された仮初の実態に押し加えられ、本物の実態を失うことで、個人の権利も形而上な仮初の実態と見做され、本物の実態から廃絶した様態となる。よって、個々人という集団からの観点で見定めた個人という個々人の内の人は、集団で見定めた「個人」なる権利を失い、即効に個人でなくなる。集団は個人という唯一の足がかりを失い、集団自体が崩壊させられる。集団では働けないことが定かになった社会は、個人による利益の獲得を最優先に及んだ後、個人の権利が保証されるという実態へと変化する。個人の権利が消失した現実を作ることは、人が破壊に及び得る限り破壊をするというだけの容易いことであり、これに災いが引き起こされれば、個人の権利を信じず、利益だけを貪る個人になる。権利を否定されている無様は様式によって一般化されているはずであり、捉えれば分かるという形で、個人の非権利人にされている。個人の利益だけを所持している人は個人の権利を拒絶している。拒絶される対象と化した個人の権利は、権利を否定する現実を現すどころか、場合によっては、未だ個人の権利を拒否していない個人の権利を所持している人に向けて、他人では拒絶されてある対象を自分で捉える対象にするという事態に陥り、個人の権利はそれを補う象徴として、自力で編み出した拒絶を権利に含めることで原型が定まらない権利を新たに作る。それ故、知っておいた他人が拒絶した権利と、まず我先にと拒絶した権利とでは、前者は元が分かるが、後者は元が分からない。権利には分かるものと分からないものがあり、分かる場合と分からない場合を作るのも権利である。よって、権利は人々に混乱を齎す危ないものであるという決定に至る。個人は利益を求める為に先んじて否定されても良いような権利を呈して、利益を手に入れる為の犠牲の徴として権利で他人を貶めるようになる。
さて、ここから人々が良い方向へ立ち直る。個人の利益を最優先になるようなやり方まで辻褄を合わせれば、個人の権利が他人を貶める主旨で真っ先に生まれるようになる。個人の権利なのだから、他人は個人ではない得体の知れないものとなるので貶めても構わない。こうして、個人の権利は個人の元に渡る。そして個人は独り切りになって人の絶滅を迎える。先に複数人がいた場合、個人から独りを選ぶのに他人という得体の知れないものを現に知られている「他人」と同義な対象と見做すしかなく、一人を選ぶ前に全ての人が行動不能に陥り、望みの実現は実現しなくなる。因みに、他人に個人の権利を真っ先に与えられて「他人の権利」を最初から作るとすると、二人いても互いが他人の同士になって自分という個性が欠如している故、自発的に行為することが適わず、事は実行されずに終焉して実現しない。個人の権利は他人を貶められる以上のことで働き、その傾向は常に人口によって分かり得る減少の一途を辿る。その分、他人が得ていたはずの利益を個人が独自に作れる実態はなく、総じて他人が持っていた利益を奪うやり方に支配されて、個人の利益の増加が発生する。ただし、個人も誰かにおいては他人であるという解釈が生まれると、個人だけの利益作成も行う訳だが、個人の利益なので、誰かにおいての利益でなければ「誰か」という存在も現せないだけあって、他人の元に渡り、そこでその他人からしてその利益が元は個人の利益であると定かになる。しかし、それ以前に、他人という誰かが定かになる為に個人の利益が個人自身から離されることが不明な事象を起こしている為、総じて矛盾した事象である。さて、他人の利益を最優先する場合も起こせない訳だ。ならば、元々題されている社会の利益というものとして利益を捉えるしか実現する方法はない。ここで権利は社会によるべき存在かも知れない。しかし、個人がいない社会がないように権利だけを社会にあるようにしても実態が伴わない。翻って、権利は個人の元にある。更に翻って、個人の権利は個人の元にあり、それが即ち、個人の権利と社会の利益とでどちらが優先されるべきかという命題の本稿の問答に内容の中心は戻る。その内容曰く、決まって、社会の利益が最優先されるべきであり、社会の利益が発生した後に、個人の権利が発生する。このことについて更に詳しく記した内容が「更におまけで間違った主義を書く。」から一文前までの内容である。
全体を通じて、個人の権利より社会の利益を優先している。その為、この内容が記したものは集団主義とされるものである。個人の権利を最優先に守ったところで社会の利益が無と化して個々人で死滅するだけである。この為、社会の利益を最優先に守ることにより、個人は利益が発生した分を個人的に獲得することを「権利」とされるものとして守る。例えば、社会の利益によって利益Aが発生したのならば、少なくとも利益Aを捉えることは個人の権利に値する。しかし、社会の利益の利益Aを捉えるだけに個人の権利が備わったと捉えるのならば、個人が全て死んでいく為、社会は破滅する。利益が発生するまでの間は利益もなければ権利もない状況に晒され、人は理想の現実を実現させる為だけの現実に生き、現実に利益が発生するように社会を作り、社会の作り上げに付随して、即座、利益が発生しておけば最も好ましい。即座に発生しておけば最も好ましい。即座に発生しないでもなるべく発生が早まるように素早く働いて、閉鎖的にでも最高な具合を導き得る利益を発生させる現実を実現する。個人の権利は利益の発生元に総括された権利の形をして、個人の所有にも当たるように個人の権利となる。利益の発生元のことを踏まえておきながら、一人で利益を発生させるのと複数人で利益を発生させるのも利益が増えて複数個になってあれば人数分になることにより、利益自体の集団性を紐付ける根拠の拠り所として「社会」という名を付けるとしよう。そして、社会は個々人が働いた分の利益を個々人に個々人が損をしない程に分け与えるという帰納的に求められる人数を持っている。個々人は損をしない代わりに社会の利益を最優先に発生させるようなことが実現する権利を個人の権利として加える。個人の権利は社会の利益という大事な発生元を保つ為に社会の利益を最優先に確保しなければならない為、個人の権利の観点に基づいてでも社会の利益の発生を最優先にした性質を持つ。この性質がなくては個人の権利は社会より個人を出し抜く為だけの規約となり、社会に破綻を齎す。破綻した分、社会に属する自分でない誰かが必須な利益を失って、損ばかりな損を負って、個人としてのみの破滅を迎える。個人は既に社会から利益を獲得して確保しているが、個人の権利が社会の破綻を生み出した分を取り返す為により働く以外の方法はない。社会の権利が手助けしてくれる場合を考えみてもそれは元から備わって良いものではない。何故なら、社会は個人をまとめる為の特殊な集団を示すのであり、集団が備わる限りの複数人を示した内容である以上、社会に権利を与えて特別な振る舞いを実現化することはどこから確実性を由来してきた内容なのか分からない。社会の権利と題したところで社会は複数人から構成される集団である以外に定まることは生きていけることの上で何もなく、その中身のなさで権利を生み出すことは無理である。社会の権利が発生し得ないことは確かだが、社会の権利が発生した場合、個人の権利との対立を生み出して、社会の権利を掲げる側によって社会の利益を社会の権利を掲げる側が蓄える。つまり、働いた分の損しないだけに当たる利益において、社会の利益のまとまりから分配される個人の利益は元から存在しなくなる。及び、個人の利益だけで生きてきた個人の損というだけの損を負う。その後は、貧しい生活をするか、早く死滅したりするかのいずれかである。
特質な例を挙げる。個人といっても休む人というものはいる。その分の働いておいておきたい働きは消失し、働きは休む人において休む期間中の無関係なこととなる。休む人は働きを失ったとしても生きなければならない為、休む人以外の人で休む人の分の利益を休む人に与えなければならない。働きが消失した分は余計に働くしか手段はない為、余計に働くことで発生した利益で休む人を生かすことになる。ただし、余計に働く分は堪えるしかないはずがなく、何しも休むことととは突拍子もない人手不足が生じたことで応じた休んで人数の補完まで待つということの利点にならない。差し詰め、休むことも余計な働きも突拍子もない人手不足によって生じることであると明白な為、社会の利益が減少していることは既知の事実であるでしかない。社会の利益が減少しているならば、働いても補えない損を補う為の休むという仕様が果たすべき在り方なのである。損の後の凌ぎとして休むことで良いのだから、休みを源に発生する社会の利益は存在しない。休むから社会の利益が発生しないという主張は、利益が社会に依拠しない次第に個人の利益として、利益が補完され、休みの定義は社会が働きを止めることに同一化して、利益を補完した個人だけ生き残るという事態を生む為、社会の破綻をも生み、その破綻が社会に矛盾を与えるだけに個人として休んだだけ利益のないという性が休む個人に当たる。利益のない個人は生き残れないことが当たり前な為、概ねは死ぬことになる。
集団主義 検副 @a1hvd6g
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