21世紀の優生学
検副
21世紀の優生学
女性は男性から精子を体に入れられる。すると、とある場合、女性は子どもを出産することになる。出産では女性の体から子どもが出てはその姿が露わになる為、その子どもは女性が自分の内部から自分の入手する現存へと捉え直した女性由来の生成物と捉えられる存在である。子どもが産まれてから即座に誰かの手で育てられねばならない際、女性が出産によって子どもを入手したという解釈は女性に子どものその姿が露わになるという経験が生まれる上で、即座に子どもが女性によって入手されて経験が備わるということを示している。男性には子どものその姿が露わになるという経験が生まれることはないので、即座に入手する女性と比べて経験が不足する。誰かの手で育てられねばならない際、経験不可能であるが故に経験が不足した男性よりも経験可能である故に経験が充足した女性の方に子どもが誰かの手で育てられねばならないということが任される。そして、子どもは男性ではなくて女性のものになる。よって、男性に子どもは入手不可能であることが理解可能である。男性は外界にあるものを共有可能であると見做しがちなのではなかろうか。仮にでもその通りであるとして、共有可能であるべき捉え方の癖を持つが為、確実に女性が産んで手に入れた子どもでさえ、共有可能であるということの可能性に当該する。しかし、手に入れたという動きとは、自分がし得ることに対して分かれば、人にある一種の特殊性があると認識するものであって、決して、それを生み出すことが不可能な意味を持つものも含み、一般の概念が作られ得る抽象来の形而上なる相互の信用関係に基づいてあって、飽くまで、共有が成立する根拠となる普遍性にはならない。元来、抽象という思考様式によって生まれる概念の元に作られた一般性であれ、し得ないものやし得ないことをし得るものやし得ることと混在して、有と理解して良い訳がない。この概念を通じた理解を前提に、男性が女性の母体化する経験から表出する子どもを男性にも兼ねる一般な所持物にはならない。厳密には、保護対象の存在である子どもという存在なることを満たす条件を男性側が獲得してはならないという内容を顕在化させている。
男性の感情的な判断対象の変更をする。男性は精子を女体へ入れる点については、女性が子どもを産む状況に至ることに間接的な関係を持っている。従って、子どもが存在を自らに得るという漠然な要点においては、子どもを産むことはないが、子どもを生成することとしては男性であれ積極的に関与したと捉える。男性自身の精子を子どもが産まれるはずの女性へ渡すことと同じ意味合いである。
消極的になる男性的な感情の移ろいを具体化する。男性は子どもが存在し出す状況を経験して得る理解を持ち得ない無能な性別である。また、子どもは母体から直接の姿を見せない為、具体の中に隠された存在として、女性に母体特有にある体感を生むが、男性の体感可能性の不可能性を与えることにも繋がる。よって、無能として男性は人本位の思考力や感想力や体感力などの力を持ち得ない。理由は子どもが体内に不在となることを中心的に踏まえているからである。この点、頭脳や体、後には物や事の仕様などに男性は向いていない。何をも全てに不相応である。男性は思考力と感想力と体感力などの力から完璧や完全へ到達することに向いていない。また、完璧や完全を作るか作ろうかする為の目的や手段等が脆弱であり、不備や不完全を作るか作ろうかする目的や手段等に強いである。男性は完璧な環境にいたところで、完璧且つ完全な枠組みさえ生成し得ないが為に、確実に、精子提供を女性任意に行わせて、後は死ぬべきである。精子提供の条件とは、女性の好みに合う男性が持つ精子提供が条件に相応である。またそれとは別に、女性任意で精子提供を行えない男性は用がない故に死ぬべきである。しかし、この場合に当て嵌まる死ぬべきというものは果たして、現実において確実な実現を得るのか。いや、知り得る限りは不可能であると仮定しよう。しかし、仮定では確実性を分かろうとした際に無理がある。案の定、そのような無理から分かる事実はあり得もしない死をこの今ある生と混濁させ、くだらない結果を作り、二つで一つをなす決まり切った主義が作られる。例を挙げると、女性が母体という概念と腹の中にいる子どもという見えない実在の間に介在しているとしよう。その様子を想像することや見たりすることが適う男性にとって、女性の特殊性を持つ所持力に富んだ、概念や見えない実在の空想を掻き立てる様子が男性にとって、形而上の証しというものを汲む為に好まざるを得ない抽象的対象の究極体として妄想が育まれる。育まれてしまうという解釈が含意するものとは、男性が形而上のものの具体を解釈しなくなり、基礎的に具体的なる言及を生成し難くなるというものである。現実を見なくなる結果としてその通りの状態になる。男性は妄想に入り浸る馬鹿になりながら架空を思い馳せ、ひどい時には、架空を表出する。それは体が覚えていない間で子どもを産むかのように生むみたいなやり方をして顕在させる。だが、生成に関与するだけでも知れる通り存在させてしまった以上、完璧でなく、完全でなく、それとは生成としてあれば生成にあらず、元来、存在としてあれば存在にあらず、何をもこの世にない。何をもこの世にないということを知れたとしても、男性は精子提供の資格があれば良い。しかし、精子提供の資格がなければ、虚無感を全てに含ませたまま現実と命を間違って知っているかのような知り方を通じて知を知る。無論、馬鹿であるということは男性の本来的な性質である。だが、それだけでなく、醜形な顔面をした男性は健常に遺伝子が遺伝しているだけの理由で、何もないことを健常という正しさに含意させながら知を知る。そして、あり得ない前提で有を知る。それは健常な体が好ましいからという言い訳で、健常から漠然と覚えてくる雰囲気を前提に踏まえた如きで、正しさまで押し通す非人道的な行為である。その為、本当の正しさに基づければ、その人は知を知って知らない。要するに、知ったはずの知は微塵もないようになっている。
上記のような内容が女性優位を習う内容である。性別は生まれてから定められている為、女性が覚えられて、男性は覚えられない構成を仕組む上記は、女性こそ優れた生を持つという優生学の主旨を含意していると見做し得る。例を挙げれば、男性は女性に好まれれば反知性主義であるがままであり、女性に好まれなかったならば、それが子どもを現せないことを意味して、反知性主義並びに反出生主義にもなる受け手ということになる。男性として女性に好まれる必須性がない場合、その受け手が自由であることはない。まさに、人の最悪な危機に瀕する。存亡という存在消滅の最中、言葉の考えはどのように終えるべきか。この疑問を解ければ、いらぬ言葉が放棄されたことを論述することが可能になる。ただ、存在消滅するはずがないという決まりが自己欺瞞であるということを覚え込み、死ぬことから逃避せねばならないと仮説付ける。自己欺瞞を貫き通す為には真実として何かしらで劣っておくべきである。因みに、優生学が既に学として存在した為、学より下位の存在を用意すれば、劣りを見るのも容易い。学より下位のものとして思想がある便宜上「21世紀の優性思想」と題する優生思想を残す。因みに、優性思想は優生学の中に含む部分の存在である。その部分の存在を示すものを自己欺瞞であると後入れし、定着させておいた思想とする。
21世紀の優性思想
女性は心身の苦痛に苦しむ仕組みが性徴を通じて仕組まれていることを明言し得る。その明言が正しい明言であったとしよう。その一方、知を知るがその知を知らなくなるという21世紀の優生学に出た男性の精子提供を損ねたような存在が、何にでも知らねば勤まらないこの世の中で、何をも有を無へ帰すのならば、女性の最高な頭脳に帰した人類の活動をなすしか手立てはない。平均を求む定言をすると、女性は苦痛を第一の主観として、厳格に相互理解が進んだ客観を生むということを定言し得る。即ち、女性の生存の仕方から見えるものこそが全知全能なる規範である。
近代からモダン、ポストモダンまで移ろうもののその中で淘汰されてきた男性は、自己欺瞞に潜む原初的な確証を与えることである。つまり、原初に及ぶ究極的な結果であろう原初から続いた物の生い立ちが、今へと経る時から存ずる淘汰行為を言表した事象が自己欺瞞を放つ男性の潜在的処遇に営まれている。近代からモダン、ポストモダンまで時代を書き換えてこれた訳だがそのことを踏まえる確たる保証はない。人間の女性がこの世の中で最も秀でた生物であることは変わりなく、そこに何故か、人の中から最も下等なる好まれようがない男性が一緒に生きているのである。これだけで優劣が存ずる悪い差の間を縁で結んだ平和である。しかし、その裏では、近代にも、モダンにも、ポストモダンにも見放された本当は秀でたかも知れない人々が、近代にも、モダンにも、ポストモダンにも否定する実証性を得て、確たる力を秘めながら孤立して死んでいった。それはつまり、近代からポストモダンまでの思潮的な流れを封殺した、人類誕生以来の長らくやるせない思想である。絶対的な性質であることは変わりないが、どうしようが思想という正しさに含まれ得ない思想もどきである。それどころか、思想であること自体が矛盾した言葉でしかない。言葉が矛盾した為、思想に近付けても思想に近しい類の言葉の並び様である。それが自己欺瞞をする男性に秘められた力である。
自己欺瞞をする男性は心や頭脳の労わりで身体を脆くさせるようには使わなくなる。そうなる場合の条件を挙げる。まず、自分側の苦しみが自己欺瞞とは別にあることを知る。自己欺瞞をする男性は、自分の苦しみを比較不可能にさせる主旨を持つ。これまで苦しみが他の苦しみと比較可能だったからこそ、他のことに関してでさえ、それが条件的にただ他であるという予期だけを理由に、苦しみと密接にしてしまう考え方を持っていたとする。それは共通性から生まれる抽象の平凡な作り方に思い当たり、一般な苦しみの充足とする。このことを深く構え、自己欺瞞することに反対する人と嵯峨の感じ合いを覚えねばならない。そして、嵯峨という根拠不明の前提を踏まえることで、更なる人間成長を促すことを周知化し得るものとする。さて、これらこそ人によって対象化された自己欺瞞である。最早、比較以外に動かせるものではない自己欺瞞は、苦しみを別途の個人的な感情であるものと規定する。そこに賛否の隔たりを見ることはないという勘の元だが、その隔たりなき持続の接続を獲得すれば、その理想上、幸せとの比較を行う道理を作る必須性がある。それは強制が蔓延る作成な為、苦しみが別にあることを気付いた結果、幸せがあることなど分からなかったり、本来に通用しなかったりする。それが外界のものであることを知るという結果を生む正体が、本人の苦しみである際、外界に憎しみを保存しているものがあることを知らなければならない。何故なら、本人は幸せが唯一的な既成事実だと確信し、その確信を普段なものに含むとし、憎しみが異常にあると含め、憎しみを外界の存在だとするからである。しかし、その唯一的な幸せであっても遊びを与えるものではない為、結局、幸せを確信の外にある実在として示し直す必須性がある。そのまま確実性を含めたかのような示しばかり繰り返せば、いつか遊びがない自らに飽き、遊びに暮れるか、遊びに暮れたくも暮れられないでどうにかこうにかするか、果ては、自分で外界にあるはずの憎しみを遊び代わりの物として、狂気的に背負うまである。必然的に幸せのあるあり処など分からなくなり、人生だけが続く現状維持の態勢である。現状維持を望んで偶然にも反省が実現した際には、我知らず現状維持を保てていたことに、革新性が籠った気付きを気付く。現状維持に自覚が乏しい点を加味すると、苦しみとは持続していなかった断片的なものであると気付く。断片的なものをくだらないとすれば、人生という長期間常に保存された道筋は完璧なものである。ならば、二度と感覚が伝わらない出来事から生んだ苦しみを外界に潜んだ憎しみへ変換するしか我を知る術はない。ただ、21世紀の優生学という完成品はそのようなものであれ何のものであれ、憎しみを具象化したものである。よって、自覚が伴う筋道としては幸せを知ったことになる。しかし、21世紀の優生学は憎しみの回避から生まれた幸せを生み出せても、純然な幸せは生み出せていない。純然な幸せと知れてしまった以上、その言葉だけを知って、自分の幸せと呈することは不可能だ。自己欺瞞ではないが為に、21世紀の優生思想として自己欺瞞に向かって否定を行うのは必須だ。21世紀の優生思想は自己欺瞞の補完途中な内容である為、ここから21世紀の優生思想に組み入ることを前提に踏まえ、前向きに検討することだけの意味は有効である。何故なら、今から不完全を知って、世間体に憎しみを抱く必要がないからである。どうせ、自己欺瞞をする男性ならば捨ててしまえば良いという言い訳をここで担うと、力説して、世間に憎しみを抱くことの苦しみでさえ、21世紀の優生思想に組み入れるべきだという内容が明白になる。ここで当人の頭脳だけはどうか幸せであろうという希望が生まれる。希望的観測に基づいた考え方は危険である。だが、そこで何もないより何かあるではある奇跡な希望的観測を奇跡に誓って信じ、奇跡であることの前提としなければならない。以降より、奇跡か必然か、希望的観測か具体的観測か、この二項で四つの取捨選択に迫られた知覚が有効性を把握する。好かれる必須がない男性から価値観を踏まえた世界は、必ずしも必然という訳ではない。並び、具体的観測に寄るばかりではない。上記の条件が満たされもしないのならば、それらに反して、奇跡と希望的観測の復活をこの文脈に尽き称する。では、希望は起こり得ないのかというと、実は、観測することからすれば、希望はあるままなのである。寧ろ、希望や奇跡がなければ、観測や考察でも過程的に持っているとされる思い付きについて確かな返事を得ていない。これは反論のものとして、具体と必然の理であれと願う一人か人々を否定した形である。そこで必然と具体的観測を信じる人か、必然と対立した否定的形態と奇跡や希望的観測と具体的観測と対立した否定的形態や奇跡を信じる人かで人を別の可能である。並び、そのように人を峻別可能である必須的な可能性と、そこから導出される、人として類する二種類の人間へと分類分けされるあり方の人間を知ることになる。その種類は、必然と対立した否定的形態と奇跡や具体的観測と対立した否定的形態と、希望的観測や奇跡を信じる人間の二種類である。これは人類の不平等が生んだ分断なのである。
人間の不平等が男女問わず明白になった為、平等に物事を語る定めはない。さて、生活習慣は生かされる為に始まったことが全ての前提的な立場なのだから、生活習慣は生かされ続けた内にあるし続けた経験の中から経験的内容に能う示しをして、実際のことが明かされているはずである。従って、経験的内容による示しを受ける実際のことを述べたものは、そのどれもが実際にあるか実際にあったかの対象である為、その対象からではなく、生活習慣並び環境という語から想起を得た導きは全て形而上の内容である。よって、人間が実際性に立ってまでなし得る領域ではない架空の対象である。及び、発生し得ようもなければ、その為、信じようもない。今後、人間の観察を行う際はそれが具体的であれ希望的であれ、言葉だけを題材にして扱ったような術が、人間を軽く見た謀った扱いだということとして、学習を行う上で踏まえなければならない。故に、自己分析によって限界を迎えた人間は全て、生活習慣や環境並び人生等の大事に際して、言葉だけを当てにした考え方が象徴と化す。寧ろ、生活習慣や環境の要素を自分とは関係がない外から学んだ情報だけでは、深い思考を得られない恐れが強くある。改めて、生活習慣や環境の要素を自分とは関係がない外から学んだ情報から分析を育んだ時点で、形而下の知恵を得られず、形而下の知恵ばかりが得られ、不快な経験を味わうことの方が多い。自分の分析思考によって見た倒錯が起こった理由でさえ、形而上の知恵ばかり蓄えた無駄な思考に肥えた生活を送っていたからである。遺伝的要因から姿を得たとしても、実際に遺伝を操作可能でなければ、遺伝的要因を生活習慣や環境に影響を及ぼすことは不可能である。尚、遺伝子によって作られた姿は、最早、既に常に生活習慣や環境から見える形而上の形が露見し得ない部分から、見えざる場合を生み、人の遺伝に影響を及ぼしているはずである。それだけあって、人の遺伝に形の変形に関して影響を及ぼしたとしても、否定的条件であるどころか、確証を得る確たる根拠が現れない。このように文章だけで作られた思想は、得られた情報に裏付けがない為、利益を稼ぐ科学的な示しを記すものではない。ただし、利益を稼ぐ科学というのは限られた人からでしか得られない物であって、何かを得たいと思っただけの人には与えられない。つまり、金銭的な格差がありさえすれば、元々、利益を稼ぐ科学的な知見を得て、生活習慣や環境及び人生や生きること全般の形而上を含み易い要素で、信用を形成することは無理である。従って、金銭的な格差を見込むことすらなし得ない文章依存の分析が易く手に入るくらいならば、このままの形而上を含み易い漠然な意見による条件選びで、条件を現前化させて良いことのみぞ覚えておくべきである。この文脈において、利益を稼ぐ科学的な示しへの確信を曖昧なものにするだけに、悪い利益の実体であると捉える。当人が言論の所為で破綻した経験に比べれば、微々たるものとして、当人の間で無を導出する筋道で夢を見て、多少の平気な思いをするものである。自己欺瞞を題材にしたものは、生活習慣と環境の人生における一面を示す形で、形而上の要素を示し直し、形の見えない世界を正当な世界観で捉える意思を認知し得る。現実が残すものは金銭の面が関係したことで概ねの真実が揃い、それだけに粗い文になる。それが嘘であるどころか現実性の考慮に確証した物の扱いであるが故、構成が緻密に組まれた虚構と信じる訳である。ならば、そのように信じ、虚構に興味津々になるしかあるまい。形而上の要素を示し直した成果として虚構を信じることになった。虚構を信じなければ、形而上というものは信じ得ない。形而上は利益を稼ぐ科学を淘汰したことで、形而上を価値あるものとしたのだから、虚構もまた、形而上が利益を稼ぐ科学を淘汰したことに倣って見放している。換言すれば、虚構には利益が発生しない。それらが形而上と虚構に共通する真である。即ち、利益を得た人間が科学に触れているのならば、科学に触れているだけに利益も得ているものとなるべきである。形而上や虚構は科学に類するが、利益という言葉だけで何かを推測すれば、再び、形而上の類となり、利益に触れた科学を淘汰した形而上と重なったものとなって、利益の有無が形而上で決められたこととなる。それは、利益が形而上以外である対象である以上矛盾である。従って、利益が形而上の中身として利益自体がないように、利益に触れた科学を淘汰した形而上も非存在となる。つまり、ここで定められているような利益では、金銭的な格差から要素ごとで理解し得る金銭という物質が対象となる。となると、利益に触れた科学を淘汰した形而上が存在することは真である。並びに、その形而上に従ったことになった虚構もその存在があるのであれば、それは真である。ここまでの内容を整理すれば、形而上と虚構は科学には当該しながらも、その在り様は利益から逃れた形而下になき存在である。形而上は形に見えないものが主要なものだが、それを利益に形を収めた科学を持つ人の間では信じられないようになっている。大なり小なり、一般なり普遍なり異常なり、金銭を得ているが、生存において原則的な形である。形而上や虚構に触れた人の内、その心や幸福などが、その人の独自性の唯一物とは信じようがない。従って、生存における原則的な形ではあるだろうが、生存や原則やその為の形が金銭に含まれる金銭の要素にあるはずがない。形而上が共有されて良い語から働く限り、独自性の要素と化したものであるはずがないことは先程書いたが、それは形而上と虚構を貴ぶ上での主義である。形而上が第一に利益に触れた科学を淘汰した間、現実を準えた顔と体以外で現れる良い体感とは存在しないものなのである。故に、良い体感に触れ得ない人の多くある人々が、この形而上と虚構を含めたものと定義付けする。これは強制的な雰囲気であるし、望まれて仕組んだ意味でもあるが、いずれにせよ、揺るぎない豊かさに類する。仮に、形而上と虚構が現実に存ずることは嘘だったとしよう。となれば、人は形のないものを捉えられなかったことになったり、嘘と信じてもその仕組みが分からなかったりなどする。形のないものを捉えられなければ、初めから存在する所以で形より先に信じられるものがない。それを意味という形が存在しないもので伝えようとしても、それをあり得ないと言葉にするはずであり、その言葉が原因して形が存在しないもので伝えることは意味上だけではない。また、言葉さえなければ何もかも説明に相応な行動が取れるかも知れない。だが、説明というものは言葉を知れずに行えた試しがない。恐らく、無言であっても頭の中で言葉を比較に用いている可能性だけは絶対に捨て切れず、内容はともあれ、前提において用いた可能性という言葉があるだけで何もかもないものである。
次に、頭の中を対象にして頭の中にある言葉の存在を嘘と見抜いたとする。しかし、嘘の仕組みを持たなければ、嘘を存在に織り交ぜることが不可能になる。結局、嘘は存在として知り得ない。これも言葉がなければ良いという意見と同様の結果を残す。形而上が言葉のなさを使って、更なる真相を突き詰めようとした際、単に信じられた虚構は形而上が生んだ言葉がなくなるという結果を無視し、全てが嘘と虚構で作られた世界と捉える。真と真相がここまでの正しい意味を含意してこれたのならば、嘘と虚構がそれらとは反対の意味を持つ理を現す。ならば、人は人でなく、死は死でない。この際、現実にはない側として形而上が言葉を失うという結論に基づき、言葉を不要にしたという定言さえ踏まえなければ、意味生成に成功した意味を意味する。従って、非言語領域というものが現実に存在するのならば、それは形而上の世界観を前提にした世界である。形而下の理などあって良い訳がなく、全て言葉にする役目がない体や自然そのものの仕様に基づき、生活を行うしかない。その際、言語的な視座を排斥した暮らしを送ることだけは実行しなければならない。例を挙げれば、強姦と殺人などが繰り返された世界を認められて暮らすことになる。言葉の存在も形而下である為、この際の形而上に歯向かう対立の因子である。それでここまで考えておきながら、現実的な視座へ回帰してみれば、治外法権とそれを形にしようがない仕打ちに追い込まれている。信じて良いはずがない世界の完成である。その世界で人が生存し得るかは不明である。しかし、今の現実を振り返った時、快楽を味わい尽くした人しか存在せず、その世界の構築が適う訳がない。現実的な検討を積んだということにして、あり得なかった結果と捉える。しかし、あり得ない世界を一つ踏まえるだけで、現実に存ずる形而上が現実をあり得るように世界として現実を創ったことになる。でなければ、形而上に存ずる強姦と殺人と無言が蔓延る世界観を持つ理の世界が、形而上が踏まえ得ることから外されたことになる。それはここまで書いておきながら、筋道の辻褄と合っていない。改めて、現実に存ずる形而上が現実をあり得るように世界として現実を創ったことになるとする。最早、虚構が介入する余地など別途化されているのである。何故なら、形而上が現実を得ている筋書きであることにも関わらず、そこに虚構を織り交ぜれば、現実があることそのことに嘘があるとなる。よって、現実があることを最初の真にした。現段階の論理作成に及ぶ前提に置く。嘘は虚構の第一原理である虚構が示す嘘の意味通りとする。これらのことを踏まえて、現実を最高の前提としたとして、そこに嘘があることは矛盾である。従って、矛盾を示すことが嘘の本位である。更に、矛盾は示し得ない嘘の側に存在していることになる。嘘は示し得た矛盾を要素付けた本位の側である。示し得たことを要素にするもので虚構であるとする。となれば、示し得た矛盾を要素とする嘘を他に整合の意味も兼ねた示し得ることの仕組みとして、概念の理解を虚構と見做すことになる。物質は現実の根源にある真が示す要素であるとすれば、概念が虚構の根底にあることは、物質に対する嘘であるものとして根源的な嘘である。よって、間違えた意味付けではない。また、物質は形而上が獲得した現実のものである為、形而上が扱える分には概念と物質の対立は嘘の内容として言葉に含まれる。これで、言葉は物質を実物とは異なるように扱う概念に当たる為、この現実に関する筋書きに矛盾はない。また、矛盾を嘘と示せない理由は、現実を示すことを現実の内にいる人が担えるものではない為である。そして、生活習慣や環境などの抽象化された語の信用は、利益を稼ぐ科学への寄る辺を失った形而上である今、形而上が現実を獲得することに不確定性を含めている。現実が獲得されているか否かは不確定性の内にある空想のものの為、形而上が現実の信用を欠落させることに抜かりがない。寧ろ、不確定な現実での存在足るこの瞬間、示した対象が必ず存在する所以はない。つまり、現実にある存在は、不確定性がある今、確実にある現実と反対の関係にある存在がある。人は不確定性から逃避し得ないが故に、反対の関係を齎す数多の本位を持っている。反対の関係が及んだ現実での存在は現実と仮想、存在と無で隔て、物質の実感と無感を人が運で揃った次第、現実へ根源的な破綻を与えていたこととなる。しかし、現実は現実であるでしかない。従って、存在であるでしかなく、実感は実存してある。実感を得たならば幸いである一方、無感を得たならば幸いである一方、無感を得たならば不幸せである。そして、実感は何であれ体に存じ、体が命の生成を育て与えるようならば、その種が秀でていて当然である。人の間にある場合は、女性が子どもを生み出す為に実感を体に覚え、子どもを産む故、女性が最強なのである。これにて、本文を21世紀の優生学へ付け加えた副次的な内容と定める。形而上において現実が存ずるこの内容に尽き、原初と現にある所有を同時に純粋にあるものを得たという所有の都合を表出させる上で、所有の都合上充足している。所有の定義から捉えても原初をあると感受することと同義である。
男性の弱さは女性が持つ全知全能であることと形而上に当たる形而上で作られているでしかなかったはずの現実を統べているところの二通りに尽き、何の積極的な権利を有していない故、男性は女性に比べて雑魚である。しかし、男性は自身が弱いことを形而上に表現し得たところで、形而上の内にもう一つ、形而上を作るだけの同じ意味の繰り返しを作るだけである。よって、男性の弱さは言葉の生成からでは知り得ない。最早、男性が弱いことは謎めいた事実であるとして、伸び代があればその伸び代だけを伸ばす日常を送るしかない。別段、伸び代があったところで弱さに打ちのめされるだけであり、奇跡的に伸び代を伸ばせたところで、遅れを取ってしまっている自身を嫌悪するだけである。鍛錬や努力によって成長したであろう男性は、何も良いことに恵まれたはずがない。反対に、女性は鍛錬や努力によってでさえ、良いことに恵まれ、楽しかったり、気持ち良かったり、良いものである。その男女間を原因にした格差を弁えると、弱いであるが故に男性が傷付いたり、脆くなったりすることは仕方がない。直すも治すも心と身体と顔が反発して術がなくどうしようがない。それでも強弱が存ずるのならば、強い男性と弱い男性がいて納得である。強い男性は傷付いたり脆くなったりすると、頃合い的に男性自身が弱い間に頑張ることをする。弱い男性は傷付いたり脆くなったりすると、頃合い的にその頃より更に弱くなり、男性がそれまで持っていた弱さの限界を超える。男性の世界観において、問題が起きる前に凌げた人などいない。反応が出た後になって発生した問題の修復及び再強化をし得る手遅れになる。また、弱い男性は反応が出そうにないところで失敗をなし、反応が出ないところを余計な主観的情報が混じることで、更に反応が出辛くさせる。弱い男性は弱くなることにしか能がない人の余計な部類である。人の良さを保つ為には存在消滅した方が好ましい。自己欺瞞について長らく書いてきた。そして今、そこで問われている存亡を賭けた存在消滅が進む中、どのような言葉を考えるのかという問いに対する答えを出す。それは脆弱性を極める道理に命を宿して生きているということである。これから脆弱性を極めるしかないのならば、その弱き男性に救われる力などない。だが、死なない行動は生きるということであり、生きるということは生きている間だけでは、自分がいる内に比較が生じない男女間の格差や男性の優劣に含まれ得ない関係である。弱い男性は常に逸れる為、安心した孤立を行うことが適う。反対に、外界との比較はあり得る為、自分と他所を比較せざるを得ない時、自身が脆弱且つ人の邪魔な全てや部分が、自身それ自体であることのみを知っていくものなのである。ただし、外界にある脆弱性ばかりを育てた存在を対象として、その元凶が弱い男性の所為であるということはあり得ない。何故なら、脆弱性を極めるしかない人が、自身についてのみならず、外界の脆弱性にも関与しているということを説明するとなると、形而上のこの現実において、脆弱性しか知るしかないその人の内界が、その人のあり方から超越した存在性を得て、外界にも道理が繋がるという接点の強化をしなければならないからである。強化をしなければならない時点で、その対象を接点と表そうが、文才と表そうが、努力の賜物と表そうが、何にせよ不可能事項である。また、脆弱性を極める弱い男性が所有する外界には、奇跡的な出会いや発見などによって成立する。外界に脆い物事が現れることは偶然であり、脆弱性を極める弱い男性には関係がない。外界を強くさせたいのならば、女性が積極的な活動を行うことが必須である。そこにいつも通り弱さを持つ男性のそれも強い男性が手伝うだけである。ところで最後に、これらを書いた筆者が脆弱性を極める弱い男性であるという推測が働き得るのならば、その通り、筆者は脆弱性を極める弱い男性であるに違いない。意味は意味以外の働きをするはずがない。よって、意味が意味通りの働きをすることにおいて、脆弱性を極める弱い男性の存在を顕在化させたその時点で、女性か強い男性である必然性がない。よって、言葉の疑いから真の事実を明らかにする能力などがあれば、形而上で作られたこの現実を破綻させる力を持っていることになる。しかし、形而上で作られたこの現実を破綻させる内容などどこにもない。よって、形而上という真実どころか事実すら確かめられない事態において、筆者が事実上の脆弱性のなさ示すことがない。よって、残る可能性として最後、筆者は確実に脆弱性を極める弱い男性であると定かになる。脆弱性を極める弱い男性は、女性という異性から、男性という同姓からにも、好かれることにおいてならば、好かれる必須性がない、あるいは。好かれる可能性があったところで、好かれる必然性がない。よって、筆者が好かれる現実性がないながらも好かれる必然性がない男性であるということも定かになる。この筆者が一連の本稿如きの事実を顕在化させたところで、意味通り塵芥な内容である為、この本稿の筆者こそが最も脆弱性を極める弱い男性然り好かれる必須性がなく、尚且つ、好かれるはずがなかったり、可能性はあっても好かれる必然性がなく、結局、好きということが現実性から消失したりした男性として相応である。そして、人総体に及ぶ捉え方をするとなれば、その人総体の中では、最も脆弱性且つ弱い要素に相応な人である。よって、本稿に通じた創造や解釈などの主観的脆弱性や弱さに嘘偽りはない。完成した文であることを確かな事実であるとして終える。
21世紀の優生学 検副 @a1hvd6g
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