異常の倫理道徳
検副
異常の倫理道徳
人の常を「本当は異常のものであるに違いない」と疑ってかかれば、簡単に正誤の峻別が付けられたのにも関わらず、挙句の果てに倫理道徳まで踏まえて煩った人を軽蔑することになると、その際の倫理道徳が常への疑いよりも異常な人が目的や意図も分からない状態にある傍らで疑いを意味する言葉を現したもう一人の人の疑った言葉を現したというものを優先したことの定めに値する。これは倫理道徳の在り方として、煩ったかのような態度を悪く解釈して周りの環境に悪い印象が付いたという事実で軽蔑が行われたという根拠に基づく倫理道徳があるという理由になる。その場で軽蔑以外の倫理道徳を導く意欲がない人において「これは倫理道徳の在り方として、煩ったかのような態度を悪く解釈して周りの環境に悪い印象が付いたという事実で軽蔑が行われたという根拠に基づく倫理道徳があるという理由になる。」という明瞭な意見は都合が良いものとなっている。しかし、人の異常さは煩うこととはまた違う話であるが、煩うことを軽蔑する倫理道徳は異常さに関しては軽蔑をしていない。飽くまで、異常であると人の異常さを疑ったからこそ倫理道徳に根差す軽蔑を行えたに過ぎない。疑いを持って倫理道徳を果たすという信念がその人にあるのならば、人を姿の型に嵌めることは正しいが、人を疑いの型に嵌めることは間違いであるという判断がなければ、倫理道徳的な軽蔑という発想はひどい方の軽蔑に過ぎない。何故なら、人を疑いの型に嵌めることは間違いであるのだから、異常であると人の異常さを疑って倫理道徳に根差す軽蔑を行えたに過ぎないからである。そうした理由があるからこそ煩っている人を軽蔑しても良い判断の基準がある故、人を姿の型に嵌めることは正しいという自分の中の正しさを持っている。もし、軽蔑するような人が相手の姿を姿の型に嵌められない際、嵌めたいと思っている相手においては自己内面の状態が「これでは異常である私となる」という気遣いが働くかも知れない。飽くまで、倫理道徳は人を姿の型に嵌めれば正しいということを残している為、倫理道徳を学習した人々の判断の中では、自己内面に「異常」の状態を嵌めることが疑いの型に嵌めるより正しい判断になっているのである。改めて、軽蔑するような人が相手の姿を姿の型に嵌められない際、嵌めたいと思っている相手においては自己内面の状態が「これでは異常である私となる」という気遣いはあるべき態度である。倫理道徳が広く公然と認められたと常に思ってばかりに使いこなす枠組みであると確信しているのならば、軽蔑するような人が相手の姿を姿の型に嵌められない際、嵌めたいと思っている相手において自己内面の状態が「これでは異常である私となる」という気遣いが働いていることは当然の行いである。つまり、自己内面という外からでは形に現れない形而上の領野で倫理道徳の判断が下され、その事実として「これでは異常である私となる」という発想が伴っているのである。しかし、型に嵌める姿は形而上にはない形に備わった物であるが故、自己内面の倫理道徳に準えられた「これでは異常である私となる」という正しい判断は知らないも同然である。それ故、知らないも同然のものを倫理道徳という同じ内容に含めておきながら、姿の型に嵌める方の正しさが勝るという結論を持つことは知らないも同然という確かに明らかな不確定事項がある中で時期早々な事である。それは疑うことであるのだが、倫理道徳上、疑ってかかることは間違った行いに当たる。それにも関わらず、時期早々な事を得た結論には何の誤りもない。とは言え、不確定事項に当たる「これでは異常である私となる」というような判断には倫理道徳の性質が入っている為、不確定事項の観点からでも倫理道徳の判断を行うことが許されるものとして、人を姿の型に嵌める正しさが貶められた時期早々という誤りを改めることは可能である。不確定事項と化した「人を姿の型に嵌める正しさ」は知らないも同然な物事の一つとなった。知らないも同然なのにも関わらずそれを正しさの基準とする倫理道徳を従えさせる物事はない。人を姿の型に嵌める方が正しい時はどこかであり得るかも知れないが、くれぐれもそれは倫理道徳を示すのではない。
ところで、外見が悪い所為で外見を使って悪さを働いたことになったことに所以した悪因の事実となるものは、自分が持つ人を姿の型に嵌めて醜く捉えて扱う上、頭の中では、自分の外見が異常である私となる元であると確信させる。外見の悪さで煩った異常性が認め得る異常性として周知の情報であるのならば、外見が悪い人というだけで人を姿の型に嵌めることは異常性として正しさを示し、自分に向けて「これでは異常である私となる」という思いを巡らせる原因として、異常性を煩って、気持ち悪さを自分の外見で煩ってしまうという煩いとしての正しさを出し示す。外見の異常さが外見を悪く思わない人に煩わせるはずがない。それ故、患いの背景には自分や他人の外見を悪く捉えて扱う習わしが正しさを表すように公然と広く馴染んでいるという裏付けがあることに他ならない。自分や他人の外見を悪く捉えて扱う習わしが正しさを表すように公然と広く馴染んでいるこのことを撲滅しなければ、外見の異常さとそこから煩いとして現れる異常性の種々を撲滅することが不可能となっている。煩った人の思うことで外見が悪いという思いが現れるだけで、外見の異常さを煩っていない健全者にとって生活や儀式などの妨げになる。生活や儀式はなど何より大切な出来事である為、一刻も早く、自分や他人の外見を悪いように捉えることは止めなければいけない。
異常の倫理道徳 検副 @a1hvd6g
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