笑えよ

みのりんご

笑えよ

 僕は、そいつがどうにも苦手だ。

 口を開けば他人の悪口、皮肉。そしてマウントをとっていい気になる。人の失敗も大好きである。若気の至りを見て嘲笑うことも、老人の発言も老害として差別しまくった。彼は冗談だと笑い飛ばしたが、笑われた側は冗談だと思ったことは一度もない。

 むろん、僕も彼にバカにされたことがある。僕のへたくそな恋愛話を、ヘタレだの童貞だの言って笑いとばす。僕は内心イライラしながらも、正論である彼の嘲笑に言い返す言葉もなく、愛想笑いを返した。

 それでも、僕は彼と、不思議と友人のままでいた。


 転機になったのは、政府から出された新しい政令だ。詳しくは分からないが、人間の進化学や行動遺伝学、脳科学を元にしたもので、人間の攻撃性や衝動性を抑制することを目的としていた。端的に言えば、それでいじめや殺人、SNSの炎上を撲滅しようとしたようだ。

 内容は単純である。定期的な薬剤投与、感情を過度に刺激しない生活環境への移行。教育・職場・娯楽の再設計。拒否権はなく、最初は反発もあったが、効果は圧倒的なものとなる。


 犯罪は激減し、いじめは消え、SNSは驚くほど静かになった。怒りや嘲笑は「非効率な反応」として自然に減少。世界は目に見えてよくなっていく。

 僕も薬を飲み、友人も飲まされた。

 彼は文句ひとつ言わずに政令に従った。笑いも減り、毒も減り、以前よりずっと無害な人間になった。これが彼の正しい姿なのだろう。

 街は穏やかになり、ニュースは淡々としていて、人を小馬鹿にする言葉など、もはや聞いていない。お笑い番組だけは、ほとんど見れなくなった。僕はそれを少し寂しいと思いながらも、次第に慣れてしまった。


 友達が倒れたのは、通勤途中で突然のことだ。いつの間にか病気に身体を蝕まれていた。


 病室は清潔で、照明は優しく、音は抑えられている。感情を刺激しないように設計された完璧な空間だった。

 彼の容態は悪化し、もう長くないとのことである。僕は彼の見舞いに訪れた。彼は病室の奥で、静かに眠っている。いまや薬剤投与により、迫りくる死の恐怖すら感じていないだろう。気に食わないところもあるやつだったが、それも昔の話だ。このまま苦しまず、安らかに逝ってくれと思った。


 しばらくして、彼は目を開けた。その目には昔の光が宿っていたように感じられる。彼は目を細めて、僕を見た。


 「……なぁ」


 彼の目は笑っていた。


 「オレたち、随分といい世界に来たもんだよな。誰も傷つかねぇし、誰も面白くねぇ。安心しろよ。オレがいなくなれば、世界はもっと平和になるぜ。」


 それは久しぶりに聞く、心底性格の悪い言葉だった。

 その瞬間、彼はけたたましく大笑いした。静かな病室に彼の笑いがこだまして、部屋のあちこちを色づける。

 そして彼は、これまでになく満足そうな顔で息を引き取った。


 その後手続きは滞りなく進み、死因は「不運な急変」として処理され、誰も感情を荒らげることはなかった。


 それから僕は、いまに至るまで、人を馬鹿にする言葉を一度も聞いていない。

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