白い女 Shou

 マジかよ――本当にそれ以上の表現の仕様がない。


 ホラー映画ならリングも呪怨も見たことがある。それなりに楽しんできたが、それはあいつらが本当にはテレビから出てこないと知っているからだ。


 青白い顔。細い体が透けているようにも見える全身の白は、それだけで俺たちを震え上がらせるのに十分だった。


 幽霊――あえて表現するのなら、それしか言いようがない。


 この心霊スポットではこいつが出てくると散々言われてきたのに、いざ本当にこの世の者ならざる存在が目の前に現れると抗議したくなる気分になった。


「夜見川君、あれって……」


 その言葉にハッとして、自分から前に出て上城を守る。心境としては死ぬほどビビっているが、ここで女子を守ろうともしなければ男の沽券に関わる。そのせいで死ぬかもしれないけど、幽霊を前に女子を盾にした男の称号を授かるよりはずっとマシだ。


「お前は、誰だ……?」


 なんとか言葉をひり出すと、人外なる者はぼんやりとした表情で浮かび上がり、こちらを見下ろしていた。


「直斗……直斗なの?」

「誰だ、直斗って。俺は夜見川翔だ」


 震えそうな声をなんとか張り上げる。女は半透明で、白くて、表情も分からない。特別恐ろしい形相をしているというわけでもないけど、顔がはっきりと見えないせいか、逆に想像力をかきたてて実物よりも恐ろしく見えた。


 女の霊は、ゆっくりと首を傾げた。古い人形のように、ぎこちない動き。知らぬ間に呼吸が乱れていた。


「直斗……あなた、直斗じゃないの?」


 その声は、風に溶け込むようにかすれていた。


 悲しげで、懐かしい誰かを呼ぶような響き。背筋に寒気が走る。まさか幽霊に話しかけられるなんて。


 秋の夜は涼しいはずなのに、嫌な汗がじっとりと浮かんでくる。俺の全身が、本能が危険信号を発していた。


 上城の肩が俺の腕に触れる。彼女も震えていた。守らなきゃいけないのに、俺の足は鉛のように重い。


「違う」


 俺は鉛のように重くなった口を何とか動かす。


「俺は、夜見川翔だ。……直斗って奴なんか知らない。っていうか、お前こそ誰なんだよ? ここで何をしている?」


 虚勢を張り、強気な言葉を絞り出すのが精一杯だった。白い女は、ぼんやりと焦点を失いながらも、俺をじっと見つめている。


 風もないのに、水面に浮かぶ藻のように長い黒髪が揺れる。たったそれだけのことで、その女はひどく不気味に感じられた。


「直斗……私を置いていかないって、約束したのに。あなた、約束破ったの? 私、一人でここに……ずっと、待ってるのに……」


 霊の声が、徐々に切実さを帯びる。彼女の姿が、崖の縁で揺らめく。白い体は月明かりで向こう側が透けて見えた。


 俺は思わず後ずさり、上城をかばうように体を寄せた。彼女の荒くなった息が、俺の首筋に当たる。こんな時なのに、違う理由で鼓動が高鳴っていく。


 クソ、何を興奮しているんだ、俺は。


 頭を振って、沸いてきた煩悩を振り払う。今はそんなことをしている場合じゃない。目の前の幽霊をどうにかしないと。


 こいつは話せば分かる幽霊なのだろうか。そんな幽霊、聞いたことがないが。何もしないで殺されるのも癪なので、ダメ元で説得を試みる。


「待て、落ち着け。お前が待っている直斗って奴は俺じゃない。俺たちはただの高校生だ。肝試しに来ただけだよ。ここは……お前の場所なのか?」


 幽霊の表情が、わずかに歪む。悲しみが霧のごとく、白い顔に薄っすらと広がる。彼女の周りに、淡い光の粒子が舞い始めた。


 ペンダントの月が、冷たく光る。俺の胸にぶら下がるアクセサリーが、ほんのりと熱を持ちはじめた気がした。


「直斗……あなた、変わったの? でも、この匂い……この温もり……。私を、愛してくれてたよね? あの海で、一緒に……永遠にって」


 幽霊の手が、ゆっくりと伸びてくる。指先が、俺の頰をかすめる。触れた瞬間、冷たい霧のような感触が俺を襲う。全身へと寒気が広がっていく。


「やめろ! 触るな!」


 俺は咄嗟に手を払いのけ、霊の腕を掴もうとした。だが、その手は空を切る。女の体が煙のように揺らぐ。霊の目が、はっきりと俺を捉えた。


 ひどく哀れな勘違いが、徐々に解けていくような寂しさ。その目には認知症から一時的に正気へと戻った老人のような、何とも言えない悲しさがあった。


「あなたは、直斗じゃないのね」


 今まで聞いた、どんな言葉よりも悲しい響きだった。何も言えずに立ちすくしていると、白い女は続ける。


「ごめんなさい。私、ずっと待ってて。彼のことを、ずっと待っていて……。それで、勘違いして……」


 か細い声が、秋の風に溶ける。女の姿が、ゆっくりと崖の向こうへと後退していく。黒髪が、海の闇に溶け込むように。


「でも……あなたたち、似てるわ。二人とも……大切な人を、守ろうとしている。お互いのことが愛しくて……でも、言えなくて」


 その言葉は誰に対してのものという感じでもなかったが、聞いている俺はなぜか胸をえぐられるような思いがした。彼女の味わった悲しみを、何らかの形で共有しているのかもしれない。


 ふと腕にしがみついた上城に意識が戻る。震える手。体温が、肌を通して伝わってくる。クラスメイトの息遣いが、妙にはっきりと聞こえた。


 白い女はじっとこちらを見つめていた。


 俺は言葉を失う。直斗っていうのは、あの女の恋人なのか?


 その直斗という男と、禁断の恋の末にここで……。そうだとするのなら、その二人はどんな心境で自らの人生に幕を閉じたのだろう。


 そんなことを思っていると、白い女がふいに優しい目で俺たちを見つめはじめた。


「あなた達は、あの頃の私たちと似ている」


 女の片頬に一筋の涙が伝う。何も言えずに見ていると、彼女はまた口を開いた。


「あなた達はまだ分からないかもしれないけど、この永遠に続くと思えるような時間は、大して長くは持たないの」

「……」

「大切な人に想いを伝えることも、先延ばしにし続ければその機会さえ失われてしまう。そうやって誰にも知られずに悲鳴を上げている思い出はそこらの世界に溢れている」

「……」

「だから、好きな人と一緒にいられる時間を、大切にしなさい」


 女の発した最後の言葉が、優しく、切なく響く。


 霊の姿が霧のように薄れ、月明かりに溶けていく。残ったのは風のかすかな音だけだった。


「助かった……のか?」


 ふいに空気が軽くなる。冷たい空気が一瞬で去った。


 俺たちは、しばらく動けなかった。崖の縁で、互いの鼓動と体温を感じながら密着していた。それすらも気付かないぐらい、放心状態でじっとしていた。


 ショックで記憶と理性を飛ばされた中、幽霊の言葉が脳裏に蘇る。


 ――好きな人と一緒にいられる時間を、大切にしなさい。


「ぷはぁ!」


 上城が長い潜水でも終えたように息を吐く。ぜえぜえと息を切らしながら、ようやく心境を吐露した。


「……死ぬかと思った」


 クラスメイトの美少女は、上目遣いに俺を見上げる。月明かりに照らされた頰は、ほんのりと赤く染まっているように見えた。


「夜見川君。あれって、本当に……」

「ああ、本物だったな。疑いようもなく」


 自分で言いながら、まるで夢でも見ているかのようだった。よく分からない震えと、フワフワと浮いたような感じがずっと残っている。


 俺たちは、疑いようもなく本物の幽霊と遭遇した。肝試しに来たというのに、幽霊がいるなんてまるで信じていなかった。まさか本当に出会うなんて。いや、だからこそ心霊スポットなのか。


「怖かったね」

「まったくだ。冗談じゃない」


 上城が自然に手を握ってくる。ぬくもりを感じるよりも、強い力で握られていることの方が印象に残った。


 俺は苦笑いを浮かべて小さな手を握り返した。さっきの冷たい感触とは違う温かさ。生きている証拠。そうだ、俺も上城も生きている。手を繋いだことで、そんなことを強く思った。


 正直なところ、もう二度と会いたくない相手だ。彼女の恋人も近くをさまよっているのなら、さっさと見つけてあげてやってくれ。


 そんなことを思っていると、上城が口を開く。


「ありがとう。守ってくれて」


 実際のところ、本当に上城を守ったかは極めて疑わしいのだが、不思議とその言葉に胸が熱くなる。


 俺は彼女を守れたのか? それとも、ただビビってただけなのか? でも、今はどうでもいい。それよりも気になっていることがあった。


 幽霊の言葉が、耳に残る。


 好きな人と一緒にいられる時間を、大切に……。それは何も、恋人に限ったことじゃない。友人でも、家族でも、その人が存在していられる時間を大切にしようと思った。


「行こうか。岳たちが待っている」

「そうだね」


 俺たちは手を繋いだまま、ゆっくりと崖を上りはじめた。後ろでは秋の風とさざ波が囁いている。見上げれば無数の星がある。峠の夜は、まだ終わっていなかった。

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