本とほんと

にゃんしー

本とほんと

 姉がとおく離れた大学にいってしまい、盆と正月には帰ってきても、遠恋になった彼氏の実家に入り浸ってる。僕はといえば冴えない高校生。月千円のおこづかいじゃ流行りのテレビゲームも漫画も買えやしない。五月になってだいすきな子ととなりの席になり、彼女がflumpoolというバンドを好きなことを知ったけれど、新譜だって高い。「CDで聴くとスマホで聴くより音質がいいんだよ」と教科書をわすれて机をならべたとき恥ずかしそうに教えてくれて、秘密を明かすみたいな口調がうれしく、いきおい勇んで家からなるべく離れたCD屋さんにママチャリ爆走で駆け込んだのが一週間まえ。トゥーエクスペンシブ、と面陳のアルバムを睨みながらひどい発音でぼやいた。コンビニのレジ打ちがいそがしい母に金の無心を訴えるには申しわけないし、自室の家探しをしてもへそくりが「えなこ」のポスター裏からきんいろの水着がすべるように落ちてくるわけでもなく、ホコリっぽい姉の部屋にムーンウォークで忍びこむ。ちいさいころから太宰治なんかの純文学にハマっていた姉だが、高二の文化祭の古本市で運命の出会いを果たした森博嗣にほだされ、「これからはプログラマー!」と気勢のいい声をあげたのがよかったのかわるかったのか、とにかく成績はぐんぐん上がって田舎の高校からは異例となる名門大学の工学部情報学科にはいった。母の恋人のハイエースを借りた引っ越しのとき、森博嗣とハヤカワSF以外は放置してしまい、姉の部屋の天井に突き刺さるバベルの塔みたいな本棚はぎっしりと(くりかえし、森博嗣とハヤカワSFのところだけすきっ歯)カラフルな背表紙で埋まってる。一冊か二冊ぐらいなら減ってもバレないんじゃない、と魔がさして、高価そうな単行本のスピンを引き抜き、自転車の前カゴに放り込んで鼻歌をうたいながら古本屋を目指した。

 すたれた住宅地のはしっこ、ひびだらけのコンクリートが汗をかいた団地の半地下となる一階に、ヤクザが幅を利かせてると評判のわるい商店街があり、賞味期限がふあんな駄菓子屋とか阪神タイガースの試合がある日は手さばきがあやしくなる床屋とかにまじってその古本屋はあった。これまで売る本もなかったし、存在は知っていたけれど、入ったのは初めてだった。店主は漫画好きの友人いわく「がんこなクソジジイ」みたいで、「鬼滅の全巻セットを持っていったらぎゃくに金を取られた」「金田一を買ったら犯人にマル印がつけられていた」と冗談なのかまさか本気なのかとにかく人気はなかったが、売れればなんでもいい。あんまり高く売れたら売れたで姉に顔が立たないし、まあ二束三文でflumpoolの新譜を買う足しになればと、世界一周旅行のポスターが色あせた引き戸をぎいいと滑らせた。

 姉の部屋によく似た、しかしもっとかびくさい匂いがあふれてきた。本の背表紙はどれもきときとに日焼けしており、いかにも古い本といった風情。が、ていねいに出版社・作者ごとに揃えられているのが印象的である。本棚のすきまは狭いけれど、奇妙に歩きやすく、しゃんと整列した新入生の記念写真みたく緊張した背表紙を目で追いながらゆっくり奥へ歩をすすめた。ダンスダンスダンス。右足。ノルウェイの森。左足。羊をめぐる冒険。右足。

「あ」

 と声がでた。無意識のうち、店主の「クソジジイ」たる人物を想像していたので、ぜんぜんちがう女子の姿をレジに見つけ、喉ちんこがビクンと跳ねた。うちの高校の制服である。話したことはないけれど、高校では有名人だから知っていた。有名というのは、悪いほうの意味で。目元も頬もくちびるも派手に化粧をした顔と、ぱさぱさの肩までの髪はあきらかなコーヒー色に染めているくせてっぺんは真っ黒というだらしなさ、スカート丈は学年でもいちばんぐらいにみじかく、「パパ活をしてるらしい」という噂をたぶん生活指導の先生すら疑ってない。僕の好きなあの子とは真逆のタイプだった。

「売るの? 買うの?」

 レジのパイプ椅子に腰かける彼女はクリスマスケーキみたいにデコレーションされたスマホから顔をあげ、なまめかしい飴色の太ももをくみかえながら興味なさそうに僕を一瞥した。ビジネスライク。それこそ売春の誘いでもしているかのような口調だ。ホ別三。

「この本、売りたいんすけど」

 僕はそう言って、手に持っていた単行本をたかく平積みされた机のはしっこに投げるように置いた。店主というクソジジイはいないのか、彼女はバイトでもしてるのか、気にはなったが、雑談できるほど気を許してくれなさそうだし、僕は僕で本が売れればそれでよかった。というかいっそう面倒で、無賃で処分してくれたとて文句は言わなかった(言えなかった)かもしれない。

「ふうん」

 彼女はネイルの映えるとがった指をつかい、おもったより慎重なしぐさで本を開いた。パラパラ捲るのではなく、一ページ目をじっと見た。まさか査定でもしてくれてんのか? お前になにがわかんのかよ、という身勝手な言葉を飲みこむと、唾がなる。しずかすぎて、彼女の夜の小動物みたいな呼吸のおとも聞こえた。くうくう、くうくう。

「返す」

 しばらくして、彼女はおじぎをするように本を両手で渡してきた。

「いくら?」

 尋ねると、

「これは買い取れませんね」

 彼女はそっけなく答え、むりやり僕に本を持たせ、ふたたびスマホを指紋認証で開く。Twitterが開かれていた。鍵のかかったアニメアイコン。プロフィールには「成人済」とあった。やっぱり年齢を偽りいかがわしい火遊びをしてるのか。

「ちょっと、失礼じゃないですか? もうちょっと読んでから『買い取れない』って言うなら分かりますけど、冒頭しか読んでないのに、価値なんかわからないでしょ」

 むっとなって言いかえす。僕も読んでない本なわけだし、なんとなく立派な表紙が高そうに見えたから持ってきただけで、価値がわからないのは僕のほう。なのに、自尊心が刺激された。否定されたのは僕なんじゃないか。

「お客さんが本を買うとき、ぜんぶ読んでから決めると思う?」

 彼女はスマホを伏せて置き、ぷっくりしたくちびるを尖らせ、ふー、とながい息を吐いて、僕に目を細めた。ずいぶんじっと他人の目を見てくる子なんだな。見下されてることは目の表情でわかったが、そっちは傷つかず、それよりもさっき本を見つめていたときは透きとおった瞳をしていたことに気をとられる。

「本もね、人間もね、見た目なのだよ。わかる? 紘平くん」

 それが、彼女と僕との出会いだった。


 意地。になったんだと思う。それから僕はなんどもその古本屋を訪れた。さいしょは一日おきぐらいに、それから訪ねる間隔が二日になり、三日になり、一週間になり……というふうに延びていったのは、けして心が折れたからではなくその逆、ちゃんと自分なりに良さを認めた本を持っていきたいと思ったから。ホームルーム後の友人との雑談なんかほっぽりだし、家に帰るなりすぐ姉の部屋に飛び込んで、手当たり次第に本を開く。ぼんやりしたデスクライトと積みあげた辞典をたよりにちいさな文字をひっしに追う。母が作りおいてくれていたごはんを食べずに怒られることもあったり、ちょっと読むだけのはずが追い炊きの風呂にのぼせあがったり、寝るのを忘れて夢中になってしまい気づいたら雀がチュンとなく声を聞きながら眠気と余韻にひたった体をふるわせる本もあった。けれど、どんな本を持っていっても、どんな熱心にプレゼンしても、彼女は「まとまってるだけ」とか「葛藤がない」とかあれやこれやと難癖をつけ、ぜったいに本を買ってくれない。「授業中に居眠りしてたら本のつづきの夢をみた」とかどうでもいい話をしてるときだけ嬉しそうにわらう。

 その古本屋の店主だというクソジジイは彼女の祖父にあたるそうだ。界隈では幅を利かせている人物らしく、逮捕されていまは牢屋にいるとか、銃で撃たれて警察病院で生死の境をさまよっているとか、うわさは饒舌だ。となりの席のあこがれていた子が「あいつ、ヤクザの女なんだって。体を売って生活してるみたい」と無邪気に話しており、もうflumpoolはどうでもよくなった。「本も人も見た目が大事だよ」と言った彼女の台詞を思い出すと肋骨のあいだがすうっとする。恋ではない。ひとはこんなところで恋をしない。だって、オナニーのネタにもしなかったのだ。


「そんなん、紘ちゃんが本を書けばええやないの」

 姉から週イチの電話がかかってきて母に取り次ぐまえ、足の爪きりに忙しい母を待つうちにこの件を相談すると、姉は覚えたての訛った関西弁で言った。「オススメの本を紹介してほしい」と頼んだら、とんでもない提案である。

「本でいちばん大事なのは気持ちやから。紘ちゃんがその子のことを思う気持ちを書けばええやん。その子のこと、好きなんやろ?」

「は? 好きなわけないやろ!」

 とっさに伝染った関西弁で唾をとばす。

「ちょっとした意地みたいなもんやんか。つーかムカつくねんあいつ。どうせ本もよく知らんくせに、調子のって。どきつい作品を読ませて、あいつの鼻を明かしてやりたいんやんか」

 まくしたてると、しばらく沈黙が続いたのち、

「がんばれ。お姉ちゃんは応援してるから」

 という返事が半笑いであった。


 それはともかく、姉の提案はなかなか当を得てる。どんな本を出しても買ってくれないなら、自分で書けばいいのだ。彼女にたいし思ってることを力いっぱいぶつければいい。そう腹を括れば、小説なんか書いたことがないにもかかわらず、百均で買ったシャープペンシルの芯が折れて息継ぎをするぐらい筆はすいすいと進んだ。主人公は名前からしてまんま僕で、彼女をむりやりに犯す濡れ場もクライマックスに用意した。嫌われることは間違いないな。そう思ったが、もともと仲のよい間柄ではないし、へんに絡まってしまった縁切りにはちょうどよかろう。母は編み物が好きだがズボラだからよく毛糸が絡まり、ほどくよう頼まれたとき、横着して糸切りバサミでぷっちんと切る、あのきもちいい感覚。

 週刊少年漫画を買わなくなり貯まったおこづかいをはたいてA6の再生紙を文房具屋で買い、原稿用紙のドラフトをていねいなペン文字で書き写し、ホチキスで留めようと思ったけど針が通らないから母が内職用に使ってる業務用パンチでふたつ穴を開け、ちょうど手の届くところに散らかっていた茶色の靴ひもでかたむすびした。見た目がよくないから、さいごに「人間失格」のカバーを着せて悦にいる。すくなくとも彼女に向けた本としては最高じゃないか!

 自転車に飛び乗り、夕間暮れのなかを立ちこぎで全力疾走した。赤信号をぶっちぎり、煙草屋の角を慣性ドリフトで抜けて、まっすぐな下り坂をVの字に足を広げたノーブレーキで駆けおりた。

 汗だくでたどり着くと、古本屋はじゃばらのスチール製シャッターが半分閉まり、隙間からはちみつ色の明かりが線を引いていた。まだ閉店時間じゃなかったはずだが。息をととのえながらシャッターをくぐって覗きこむと、

「なんかようか?」

 と背後から声をかけられ、「ぎゃあ」が胃から飛び出しそうになった。

 振り返れば、甲虫がしきりに体を叩きつけるナトリウム灯を逆光にして、老人が立っていた。店主だといううわさのクソジジイだろうか。表情は見えなかったけれど、声は思っていたよりずっとやさしい。彼氏が来ているとき、しばらく席を外すようたのむ母の声よりやさしかった。

「あの……これ……」

 本を差し出す。いや、これじゃ意味がわからない。とっさに補足しようと思って、言葉を継ぎ足せば、

「いつも店番してるあの子にあげたいと思って」

 といっそうトンチキなことを口走ってしまう。ちがうだろ。僕はこの本を彼女に買ってほしかっただけだ。

「君が紘平くんか?」

 老人はやわらかい口調で言った。表情が見えないのに、笑っているのだとわかった。

 うなずくと、老人のしわくちゃな手はいんちきの「人間失格」を受け取り、薄暮の時間に似合うたよりない声で、

「栞が言うとったよ。この町で、はじめて本の話ができる友だちができたって」

 と教えてくれた。


 夏休みがあった。姉はあいかわらず帰ってこなくて、母はコンビニのレジ打ちとまた相手の変わったデートが忙しく、ほとんどの時間を家でひとりで過ごした。なにもすることがなかったから、姉の部屋にこもって、冷房はないからブリーフ一枚でつめたい床に体育ずわりし、たくさんの本を読んだ。村上春樹、江國香織、辻村深月、遠藤周作、辺見庸、芥川龍之介、森絵都、川端康成、中原中也、舞城王太郎、桜庭一樹、太宰治。笑ったり、泣いたり、怒ったりした。そんなことを話したい相手はたったひとりしかいなかった。彼女の気持ちを知りたいとはじめて思う。たとえば、「蜜蜂と遠雷」の登場人物で誰がいちばん好きかとか、そういうのじゃなくて、もし僕という私小説に彼女が登場しているとすれば。


 ながい休暇明け、日焼けしたクラスメイトのなかでただひとり真っ白だった僕は、韓国で売れだしたミュージシャンや甲子園のヒーローなんかの話題にも着いていけず、浦島太郎みたいな居心地の悪さに押し出されるまま、放課後はすぐに教室を出ようとした。と、廊下につながる戸口をふさぐように立っている彼女を見て、心臓がビクンと跳ねた。

「この本、ありがとう。返す」

 そう言って彼女は「人間失格」を手渡してきた。いつもの所作が、いつもよりやさしかった。

 「人間失格」はカラフルなふせんがたくさん飛び出し、なかを開けば、びっしりと赤入れがされていた。ほとんどが手厳しい批判だったが、なかには褒めてくれてたり、感想を書いてくれている箇所もあった。彼女と僕が絡み合うクライマックスの濡れ場はすべて赤の取り消し線が引かれ、「トルツメ」とともに「紘平くんはそんなことしない」のコメントがていねいな丸文字で書かれていた。

「完成したら賀ってあげるね」

 彼女が本を読むときとおなじ透き通ったまなざしが初めて僕に向けられた。


 それからあの古本屋には行っていない。彼女もそれいらい教室に来ることはなかった。彼女の祖父の葬式にも古本屋を閉めるまえのセールにも行かなかった。古本屋はしばらくして共産党の選挙事務所になったり居酒屋になったり花屋になったりを繰り返し、いまはどうなってるのか知らない。

 ときどき「人間失格」を開くと、涙がこぼれそうになる。彼女が僕のことをどう捉えてくれていたのか、そこにはすべて赤色で書いてあった。もしクライマックスをすべて削るならば、べつのオチを用意しなくてはならないだろう。それが分かっていながら、「人間失格」はいまも完成していない。だって私小説なんか、ひとりじゃ書く意味がないんだ。

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