俺らはずっと

怠惰メロンソーダ

悪人

 私はあの時、初めて罪を犯してしまった。


 小学校3年生の頃。私は、教室に置かれていた花瓶を割ってしまったことがある。勿論わざとではなく、たまたま、グズな私の手が当たってしまい、花瓶が棚の上から落ちてしまっただけである。その時、教室にいたのは朝早く来ていた私ひとりだったが、後から先生に怒られるのが怖かったので、正直に言わず隠してしまった。焦っていた私は、破片をひとつひとつではなく一気に、乱雑に、何の花か忘れたが、花一本とともにロッカーにしまい、どうか見つからぬように願った。だが、所詮8歳のすることである。しばらくして教室にクラスメイトが全員揃った頃、一番最後に来た先生にバレた。今ではもう、たかが花瓶を割っただけ、くらいに思えるが、当時は犯罪をしてしまったかのような気持ちになり、こんなことをしたのは誰か、と、先生が怒鳴り、皆怯えだす中、私は窓際の席で震えるだけで何もしなかった。正直に言い出す勇気がなかったし、ましてや他の子に罪をなすりつけるなんていう悪事はとてもできなかった。

 名前を忘れたが、私の次に来た男の子はその時席が隣で、他の子より明らかに怯えていた私の様子も見えていたはずなのに「様子がおかしいので、灰間はいまがやったと思います」とか「一番早く教室に来ていた未甘みあまが怪しいです」とか言わず、はじめ私の方を1回ちらと見ただけで、そもそも初めから全く怯えた様子がなく、後はただ黙っていたのが逆に怖く、うるさく早い鼓動を繰り返す心臓が今にも裂けそうだった。

 犯人が名乗り出ないので当然先生は苛立ち、連帯責任だとか言って数分間生徒全体を怒鳴った。花瓶を割る、それを隠す、しまいには皆を巻き込んでしまった。そのことにより、更に迫る罪の意識と恐怖に加え吐き気すら覚えていたが、それでも。それでも、私は何もしなかった。口元や震える体を抑えたり、荒い息をすれば怪しまれると思い、必死に、ただ黙り込み座っていただけだった。先生が呆れ、ホームルームが始まっても、私はしばらく落ち着けなかった。



 小学校6年生になった頃。正直3年生だった時のクラスメイトの顔や名前はほとんど忘れてしまったが、あの記憶だけは忘れられる気がしなかった。学年の先生や同学年の生徒があのことを覚えていなさそう、または、知らなそうな様子に心底安心しつつ、私は今まで『勉強が得意な生徒』という地位を維持し、これからも、何か悪事を働いてあの犯罪者に戻らないように、あるいは、誰かにあの犯罪者だとバレないように、あの犯罪の罪滅ぼしをするように、問題を起こさず真面目に過ごしていた。だが、決して油断はできなかった。だって、私はグズなのだ。花瓶に手が当たってしまうなんて、グズしかやらないことである。しっかり注意していれば、あんなこと起きなかったに違いない。ああ、なぜ、あんなことが…


「…灰間さん、聞いてますか?」


「ッ!?」


 いきなり、いや、私が考えごとをしていて集中できなかっただけだ。唐突に感じた先生の声で、私の心臓は跳ね、全身の血が冷えるような思いをした。


「…どうしました?そんな驚きます?」


「えっ……あ、あ、いや……すみません」


 若干どもりつつ、「集中できていませんでした」と言い、少し目を伏せた。あのことが起きた日から、私は先生の声に怯えるようになっていた。卒業旅行の行き先は、とか、活動班は、とか、そういうことを話す先生の声を聞く余裕もなく、私はこっそり口元に手を当てている。あの犯罪者と同じ仕草をしていると思われてはいけないので、できるだけ平静を装っているつもりだった。


 放課後、少し不安になりながらも廊下を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。驚き小さく声をあげ振り返ると、クラスメイトの裁人さいと君が立っていた。


「ごめん、ビビらせて」


「あ…いや、大丈夫…な、何かあるの?」


「ちょっとな」


 その後廊下では邪魔になるので場所を変えようと彼が言うので、私は彼に従い、人気の少ない校舎裏まで移動した。


「お前さ…さっき、大丈夫だった?」


「…ろ、6時間目のアレ?」


「うん、様子が変だったろ」


「心配になったんだ」と彼は言った。


「そ…そんな変だった?」


 少し目をそらしながら聞く。


「俺、後ろから見てただけだけどな。ちょうど、俺の席の真ん前だろ、お前」


 やはり、近くの子は私の様子を見ていたか。

 いや、ただ変だった、だけならまだいい。そう思い私は安心しながら、体調が悪いのかと聞いてくる彼に「大丈夫よ」と柔らかな笑顔で返した。すると彼は少し間を置いてから、


「そうか、良かった」


と言って「時間とってごめんな、じゃあ」と、校舎裏から、中庭および正門につながる抜け道に行こうとしたので、私も出ようとした。


「あ、待って」


 だが、引き止められた。そのまま近づいてくるので、何か伝え忘れかと思い「何?」と言おうとしたが、「に」まで言う前に、彼の腕が私の背に回された。少し困惑しつつ、赤面する私を気にしない様子で、彼は少し私を引き寄せ、「1つ言い忘れたわ」と言った後、


「一度したことは絶対消えねえぞ」


「あの時、俺は知ってたし、今も覚えてるから」と、直前まで笑っていたはずの顔を崩し、普段の彼からは聞いたことのないような冷たく低い声で耳打ちされた瞬間、私はその場にくずおれた。

 そうだ、思い出した。彼は、利弁りべん裁人は、あの頃私の隣にいたクラスメイトだった。そう分かった上で彼を見上げると、もはやクラスメイトではなく、私の罪を暴いて地獄に突き落とそうとする閻魔、または世の正義の化身のように感じ、私はすぐに顔を下にやった。


「あは、そんなに怯えるなよ。多分皆は忘れてるし、そもそも、たかが花瓶割っただけだろ?しかも、学校の」


 学校のパソコンとか、お店の花瓶ブチ壊したとかじゃないしさあ、と、元の声色で言いつつしゃがみ込み、俯いている私の顎に手を添え、ゆっくりと自分の方へ向かせる。


「わ……分かってる、分かってるわよ。それは」


 彼の言う通りだし、そんなことはもう分かっている。今、罪の意識に苛まれているのは私だけである。たかが花瓶を、それも、今考えれば安物に見えるものを割っただけである。いや…割っただけ?


「ま…待って、私、割っただけじゃなくて…」


「そうだな、お前は罪を隠した。でも、正直に言ったら言ったで皆の前で怒鳴られてた。そうなってりゃお前は…」


彼は何か言いかけたが、「皆の前で怒鳴られてた」と聞いた時から他の何も聞こえなくなり、私はそれを遮って、隠したのは正しいのかと聞いた。


「それは正直なんとも言えねえ。そりゃ悪いっちゃ悪いけど、俺は別に。誰かになすりつけたわけでもないし。あ〜でも連帯責任で怒られたのは…まあ俺は別にどうでも良かったな。」


「か、隠したのが違うなら…私の罪、どうなるの?」


上ずった声で、「割ったことが大したことないなら、私は犯罪者じゃないの?」と言い、彼に近づいた。


「ああ、お前は犯罪者なんかじゃねえぜ。そもそも、俺は罪を裁こうなんざ思ってねえし」


 ただ、と、彼は私の手を取る。真剣な表情で、私と目を合わせた。


「罪は罪だ。それは消えない。悪い奴はずっと悪い奴だぜ」


 良い奴ごっこは続かねえぞ、と、彼の瞳が訴えていたので、消えかけていた罪の意識…いや、同じ程度ではなく、ほんの少し薄まったそれが蘇り、心に纏わりついていった。



 卒業旅行当日。俺は集って騒いでるクラスメイトを横目に見ながら、未甘のことを考えていた。あの日、上げて落とした時のあいつの顔を思い出しただけで妙な気分になってしまう。


「っ……クソが、ダメだ」


 これが背徳感という奴か、と思うと一気に自己嫌悪感が押し寄せてくる。

 ああ、やはり俺は異常者である。数年前、先生が俺に言ったことは何も間違っていない。未来に、思考回路の歪んだ悪人という道しかないのが俺だ。

 自分に苛立ちながら辺りを見回していると、正門から学校に入った未甘が見えたので、軽く手を振る。彼女は少し恐怖している様子だったが、こちらに向かい合流した。


「あ…あの…裁人君」


「あの日のこと気にしてんの?」


「そりゃ…そりゃ、気にするでしょ。」


「裁人くんはしないの?」という問いに、「うん」と、今はな、とは言わず答えた。


「未甘、修学旅行楽しくなさそうだったのに今回は来たんだな」


「だって…学校行事だし、昨日あなたからあんなこと言われたし」


 そう言って彼女は黙ってしまった。

 昨日、つまり卒業旅行前日、俺は「明日一緒に回ろうぜ」と、彼女に言った。彼女は驚いた様子で承諾したが、「他のお友達とは行かないの?」と聞かれた。確かに、俺はよく誰かとつるんでいる。だが、それは適当な時に、都合のいい相手を選んでいるだけで、仲良くなりたいからとか、友達だからとか、そういうことは、俺は一切思っていない。鉛筆を忘れたら、必要な時に借りる、必要がなくなれば返す。それと同じだ。そういう風なことを言った後、一呼吸置いて、


「お前、気張りすぎだから。」


 あれは、常に自戒しろ、という意味ではなくて、罪を忘れるな、という意味だ。お前はずっと前者だと思っていて可哀想だから、俺がお前をちょっと楽にしようと思っただけだ、と伝えた。すると、彼女は少し喜んだような様子で、「わかった」と言った。


 昨日のことを思い出しながら「真面目だな」とからかうように言うと、彼女はすぐ「真面目よ」と返した。が、直後、一瞬目を見開いた。そして、辺りを気にするように少し小さな声で、


「…いいえ」


「良い子の真似よ」と、伏し目がちに言い、彼女は軽くこちらを見た後、また目を伏せて、皆のいる集合場所に戻っていく。

 俺はそれを見送りながら、また自分の罪が重なるのを感じた。おそらく彼女は今、罪を犯すことに慣れ始めている。それは俺が彼女を肯定してしまったからで、彼女も罪を犯すことへの恐怖、いや、犯した後の恐怖が薄れ始めているからである。ああ、慣れとは恐ろしいものだ。俺はまだ選択肢があったクラスメイトを、悪人の道に引きずり込んだ。いずれ引き返せなくなる道に。自分と同じところまで堕ちることを、うっすらと願いながら。


 卒業旅行1日目の昼。貸し切られた遊園地での自由時間になったので、俺は班の奴らに「迷子にならなけりゃいいから」「お前らはたくさん楽しんで来いよ」と言って、自分一人だけ抜けた。ルールにはできるだけ班行動と書いてあったが、今更そんな小さいことを破ったところで、俺は全く気にしなかった。だって、そういうのは今までも散々破ったし。どうせ怒られるだけだ。もし、また異常者だと言われても、もう知っていることだ。あの時から、俺は真面目に生きようなんざしていない。

 しばらく探していると、未甘を見つけた。彼女はひとりで何かしているようだったので、やや遠くまで近づき、様子を伺う。どうやら落ちているゴミを拾って、ゴミ箱に入れているようである。そんなことしたって過去が消えるわけないのにな。というか、捨てたってまたポイ捨てする奴が出てくるだろ、と思いながら、俺は彼女の後ろまでこっそり近づき、


「良い子だな」


 と小さく言った。すると彼女はビクッと身体を跳ねさせ「うわあ!」と言いながら振り返った。予想以上に大きな反応をされたので、噴き出すのを堪えながら、なぜそんなことを、と聞いた。予想通り、「なんでって、それは…」と、彼女は言った。


「今まで、ずっと、ま……良い子の真似をしてたから、つい、してしまっただけよ」


 と、ばつが悪そうな顔で言うので、


「おいおい、誤解すんなよ。ちょっとからかっただけだ。それが悪いだなんて言うつもりはねえよ。つうか、なんでこんな遊園地の端っこに?」


「先生がいないからよ。きっと皆、端っこになんて来ないから、来る必要ないと思ったんでしょう」


「ふぅん…」


 彼女の返答を聞いて、俺は内心、彼女を可哀想に思った。正直、まだ人を哀れむ心があった自分に驚きつつ、表面上には出さなかった。

 だが、じわじわと膨張する後ろめたさには耐えられず、数秒後には謝った。彼女は驚いた顔をしたが、「大丈夫よ、気にしないで」と笑う。

 それから沈黙が流れたが、俺が


「…ふ、雰囲気壊すこと言ってごめんけど」


 まだ勝手に気まずがってる中「俺、まだ飯食ってない」と言い、彼女が「私も」と返したことで、また話し出した。2人ともまだ昼食を食べていないことと、外にずっといるのは寒いという追加の理由で、俺達は園内のお店に向かおうとした。だがお互い、クラスメイトや先生に会ったら嫌だったのでやめた。

 そこで、俺がこっそり持ってきたお菓子をあげた。彼女はハッとして「ダメよ」と言ったが、口だけで本気で止めようとはしなかった。それどころか、背徳感を感じているような、楽しそうな顔をしていた。「バレなきゃ良いからさあ」と、俺は自分のと、彼女の分の個包装のクッキーを2つ取り出した。彼女に1つ差し出した。


「お前、マジでアレがトラウマなんだな」


 クッキーを口に入れ、食べた後、前を向いたまま俺はそう言った。


「あら、慰めてくれるの」


「そんなつもりねえよ。でも、楽になったっていいぜ」


「優しいのね」


 彼女が言った後、俺は一瞬だけ、隣に座った彼女を見て、また前を向いた。


「…優しい?現在進行系で、真面目ちゃんを堕落させてる俺が?」


 冗談だろ、と俺はやや早口で言った。優しいと言われると、どうにも違和感がある。だって、優しいのは善人だけだ。俺は善人になれないから、優しくなんてない。ただ、偉そうに他人を哀れんでいるだけだ。そんな優しい言葉を使ってくれるな。まるで、あんなことを言った先生が間違っているみたいだろ。

 そういった焦燥や苛立ちをできるだけ抑えつつ、話題を変えようと、


「今更だけど、未甘」


「班行動はどうしたよ」と聞くと、彼女は慌てた様子で、「裁人君が回ってくれって言ったから…」と、弁明するように言い出した。


「あは、だからってルール破るか?お前のが優しいじゃん」


そう言ったが、彼女は謙遜した。「そんなことない」と言おうとしたのか、「そんなこと…」と言っている時、彼女の手からクッキーが落ちた。


「あっ」


「ああっヤバ」


「ちょっ待てダメ」


 拾おうとする彼女の腕を掴むと、彼女は拾うのをやめて、砕けたクッキーを見た。


「悲惨な姿だな」


 俺は冗談交じりに言ったが、彼女は真剣な顔でそのクッキーを見つめた後、「ごめんなさい」と小さく言った。俺はそれを聞き逃さなかった。


「花瓶割ったの思い出したのよ」


「…マジで優しいよな」


 悲しいくらいに、と俺は心の中で言った。表面上穏やかに笑っていたが、心は彼女に対する哀れみで満たされていた。この人間はダメだ。絶望的だ。俺では更に深い悪の道に引きずり込めない。そんな酷いことはできない。一度罪を犯したとしても、根が善良なのだ。いや、そもそも何引きずり込もうとしているんだ。


「可哀想だけど、しかたないよ。多分クッキーも許してくれる。お前は悪くないぜ。」


 そう言うと、彼女は黙って頷いた。それからしばらく気まずい沈黙が続きそうな気がして嫌だったので、「なあ」と俺が言った。


「寒くない?」


「寒いわね」


「あっ、すげえ。首触ったらあったかい」


「まあ太い血管があるから…あっ、ほんとだ、すごい」


 そんな会話をしつつ、腕時計を見る。まだしばらく自由時間は終わらない。このまま適当に話して時間を潰そうと思っていると、「ねえ」と彼女が言った。


「あのさ、こないだのことなんだけど…」


「校舎裏の日か」


「うん」


 申し訳なさそうに「私が遮って聞けなかったこと、あるでしょう」と言うので、俺は「ああ」と、今思い出したかのように、『罪を隠さなかったらどうなってたか』という話だよな、と、話し始めた。


「隠さなかったら、お前は怒られて…俺みたいになってたかもしれない」


「…裁人くんみたいに?」


「ああ…あ、でも、お前優しいから、あるいは罪悪感で潰れちゃってたかもな」


 想像したくないけど、と俺は言い、彼女にあの日のことを話した。


「3年の時、お前がやらかした日より、ちょっと前のことだよ」


 放課後、クラスメイトが帰った頃。俺はチョーク入れを落としたことがある。わざとじゃない。黒板を消していたら、いつの間にか落ちていた。チョーク入れが横に倒れ、入っていたチョークは何本か折れ、たくさんの粉が床に散っている。


「そんな状況をさ」


 あのキレやすい先生が見たらどうなる?


「…すごく、怒る」


「だろ?」


 実際そうで、チョーク入れを落とした音で先生が入ってきて、俺は罪を隠す暇もなく、こっぴどく怒られた。ガキだから言い返されない、とあいつはその場の感情に任せて、全てのストレスを俺にぶつけた。俺は途中、泣きながらも「わざとじゃないんです」と言った。


「で、でも…そんなこと…」


「察しがいいな。火に油を注ぐ羽目になったよ」


 「口答えするな」と言われて、それから…何分か分からないくらい説教されてさ、もはやチョーク関係なく、口答えの話になった。

 最後には「お前は思考回路が歪んでる」だの「一生悪人」だの言われて悲しかった。


「先生が帰った後、さっきのお前みたくチョークに謝ったんだ」


 だが、そんなことをしてチョークが元に戻るはずもない。そこで俺は、一度したことは取り返しがつかないと強く思った。その時に先生の言葉が思い浮かんできたから、俺は罪を犯した悪人だということが、自分の中に定着してしまった。それから俺は良い自分を諦めて、それ通りに生きるようになった。


「お前を…気にかけているのは、俺が、昔の俺とお前を無意識的に重ねているからだと思ってる」


 あの時、知ってたのにチクらなかったのも、自分と同じようになってほしくなかったからだ。お前はやっぱり優しいから、と言うと、彼女は何も言わなかった。返しに困っていると表情で分かったので、「ごめんな、こんな重いの困るよな」と笑いながら、腕時計で時刻を確認し、そろそろ戻ろうと言った。彼女はそれに従い、足早に遊園地の中心へ向かった。

 俺も後を追おうとしたところ、焦りのようなものが心からふつふつと湧き上がってくるのを感じ、思わず足を止めた。焦る理由はおそらく、彼女との物理的な距離が離れていくと同時に、何かを壊したという同じような罪で、しかも彼女は罪を隠したのに、彼女だけが悪人の道をこれ以上進まず、先に進むしかない自分を独りにしていくと感じたからだろう。だが、何かですぐに、この焦りが彼女への怒りに変わってしまうような気がした。それに、ほんの少し、心のどこかで、彼女が自分ぐらいの悪人になってくれたらいいのに、そうすれば自分と彼女は同じになるのにと思った。それに困惑した俺は集中できず、結局歩いて戻ることにした。


 その日の夜も、ずっと未甘のことや自分のことを考えてしまい、消灯時刻が過ぎたのに全然眠れず、こっそり起きていた。じゃん負けで決まった2人部屋で、しかも同じ部屋になった奴が風邪を引いて、修学旅行を休んでいるのは俺にとって救いだった。人の不幸を救いと感じるなんて、あいも変わらず最低だと自嘲した。

 俺はベッドに寝転びながら、とりあえず暇を潰そうと、ベッドに雑に置いていたしおりを取り、開いた。明日は動物園か、動物苦手なんだよなあ、とか思っていても、自分や未甘のことが頭から離れなかった。

 未甘は多分、誰かに怒られることと、先生の声が死ぬほど嫌なのだ。俺だって怒られるのとか、先生の声は好きではないが、もう慣れてしまったのか、彼女ほどではない。声を聞いただけで動悸がするのは相当である。

 そんなことを考えていると、玄関のドアが開く音がしたので、俺は一瞬思考が止まった。誰だ。今はもう深夜だぞ。先生だって流石に寝ているはず…いや、交代制で見回っているのか?と考えながら、息を殺して寝たふりをした。が、


「…あの、裁人君」


 と、小さく未甘の声がしたので、俺は驚きを隠せず、思わず彼女の名を呼んで、ベッドから降りた。自分の部屋はどうした、と聞くと、彼女はこっそり出たと返答した。そして動揺しつつ、先生に見つかったらいけないので、彼女を部屋に入れた。「どうしたんだよ」と聞くと「いや、その」と話し始めた。


「私…悪い子なのよね?」


「え?ああ…まあ」


「じゃあ…貴方の言った通り、ずっとそうなの?」


「…うん」


 いまいち彼女の目的が読めなかった。もう吹っ切れたのか、とも思いながら、俺は相槌を打った。


「…本当かしら」


「え」


 それを聞いた時、俺は固まった。彼女は少し動揺した様子で、バレたら困るから、場所を変えようと言った。それに賛成し、こっそり部屋を出て、階段を降り、園内ホテルから出る。特に何も話さず暗闇を歩く中、彼女が


「…さっきのことは忘れて」


 ごめんなさいね、と怯えたように俺から目を逸らして言った。多分怒られると思ったのだろう。実際、続けられたら俺は思わずキレていたかもしれない。正しい判断である。別にいいよと返した。


「…それにしても暗いな」


「夜だもの、暗いわよ」


「寒くない?」


「そうね。貴方は上着着てないから余計に寒いのね」


 上着を着忘れて出てきたのを思い出しながら、「戻った方がいい?」と聞くと、「リスキーよ」と返されたので、「じゃあいいや」と、戻るのをやめた。


「さっきの話すために、わざわざ俺のとこに来たのか?」


「そうよ、今日、昼間貴方の話を聞いて、気になってしまって。結局眠れなくなったから、消灯時刻なのに部屋から抜け出したの」


 悪い子ね、と自嘲するように言ったのを見て、俺は少しの喜びを感じた。自ら悪の道を進んで、俺のところに近づいてくれたことに対する喜びだった。

 貴方が話を嫌がったから、もうここにいる理由は特になくなったと彼女は言ったが、喜びで気が変になった俺が「今、多分先生が俺らのこと探してるから、戻らない方がいいぜ」と言い、ホテルには戻らないことにした。

 そのままだらだらと散歩することになり、スタッフさんや、ホテルから出てきた先生にバレないように園内を歩き回った。罪悪感を一切もたず、背徳感で高揚している未甘と話していると俺も楽しくなってきて、


「…なあ、寒いよ。あったかいとこ触っていい?」


 昼間と同じく遊園地の端っこに来た時、ついそんなことを聞いてしまった。直後我に返り、ごめんマジでキモかった、と謝ろうとしたところ、


「いいわ」


 彼女から許可が出された。彼女が普段のテンションに戻った上で出したことを確認し、戸惑ったが、「私も寒いから、ちょうどいいのよ」と言われたことで、戸惑いより妙な高揚が勝ち、冷たくなった手を彼女の首筋に当てた。その時彼女がぴくりと反応し、少し赤面した。


「…ごめん、続けていいわよ」


「やめて、もっとドキドキするんだけど」


 そうは言いつつ、口角は少し上がっていた。そのまま指先を襟元まで動かそうとしたが、怒鳴り声が聞こえ、手が止まった。我に返り2人して硬直していたが、すぐに俺が辺りを見回した。この辺りには誰もいない。見つかったわけではないようだ。しかし、とんでもない声量である。


「…スタッフさんじゃなく、先生よね」

「先生だろ。誰か知らねえけど」


 だが声が聞こえてきたということは、それなりに近いということ。動悸を感じつつ、見つかる前に逃げるぞと小さく言ったが、彼女は動かない。なぜ動かないのかと手を引こうとしたが、弾かれた。驚く俺を気にせず、彼女は「無駄よ」と目を伏せた。


「体力的に朝まで粘れるわけないし、そもそも粘れても、明日呼び出されるわよ」


「ダメ。今逃げなかったら絶対あいつに当たるから無理」


 そう言って腕を掴んだが、彼女は一向に動こうとしない。「どうせ怒られるでしょう」と、震えながら言うので、俺は何も言えなかった。

「だから」と彼女は言った。


「私、謝ってくる」


 それを聞いた時、急激に怒りが湧き上がった。少し固まった後、「は?」と肩を掴んだ。


「それはないわ」


「…えっ?」


 彼女が怯え出すのを気にせず、俺は続けた。


「中途半端なことすんなよ」


「1回悪事をしたなら、最後まで貫けよ」と言ったが、彼女は首を振った。 


「だって、悪い子が一生悪い子とは限らないじゃない…」


「あ?」


「ッ…ぜ」


 彼女は怯えながらも、何かを言おうとした。おそらく善人に戻れる可能性だってある、と言った。そこまではまだ耐えた。


「だから、3年生の時に先生が貴方に言ったことは間違ってるのよ」


 それで俺は冷静でいられなくなり、


「んなわけねえだろうがッ!!」


と激昂した。彼女は酷く怯え小さな悲鳴まであげたが、もう気にできなかった。


「じゃあ、なんだよ!!先生に言われて鵜呑みにした俺は馬鹿だっていうのかよ!!必死になって、自分は異常者だって自戒したのは無駄だったってのかよ!!」


 今更そんなことを言うなよ、と叫んだ時には、おそらく俺の声で集まっているのだろう足音が聞こえて、しかもどんどん大きくなっていた。先生やスタッフさん達がこちらに近づいてくる。俺はそれに何も感じなかった。というか、何の気力もなくなったので、未甘の肩から手を離し、床に座り込んだ。

 だが、彼女は違った。自分が裁かれる未来に怯え、どこかに逃げ出そうとしているようだった。それを感じ取った瞬間、なくなったはずの気力が蘇り、俺は素早く立ち上がり彼女の首を掴んだ。えずいたのを確認し離した手を、逃さないように素早く腕へと移動させ、また掴む。


「さっきまで自首しようとしてたよな」


 悪い子だな、と俺は彼女を自分の方へ引き寄せた。彼女は抵抗しているが、本気で掴んでいるので手を振りほどけるはずがない。「返事」と言っても何も返さず、ただ震えている。

 先生なら死ぬほど苛立つだろうが、不思議なことに、俺はその様子を見て全く苛立ちが湧かなかった。それどころか、『自分だけ罪から逃げようとする』という、俺よりも深い悪の行動に喜び、相対的に俺が正義のように感じ、その優越感に耽っていた。あの先生もこんな気分だったのかなと考えつつ、もう逃げる気がないことを確認し、手を離す。するとあの時のように脱力し、床にくずおれたので、上から彼女を見つめた。


「…ああ言ってくれたけど、俺、今更善人に戻るなんざできねえよ」


 先生に言われたことが消えるわけじゃねえもの、と言いつつ、しゃがんで目線を合わせる。


「…なあ」


 俺が呼びかけると、彼女は怯えながらもこちらを見た。恐怖によるものだろうが、時折びくびくと体を跳ねさせながら、声もあげずに泣いている。

 それに優越感とともに激しい興奮を覚えていたが、表面上はできるだけ抑えて言った。


「3年の時、お前が割った花瓶に生けられてた花、覚えてる?」


 彼女は問いに答えなかった。足音に意識を取られていて、こちらに集中できていなかったので、「こんな暗闇だぞ、すぐには見つからないぜ」と言い、優しく名を呼び、彼女の手を掴んで自分の襟元にもっていくと、ハッとした様子で「覚えてない」とか細い声で答えた。


「アスター、花言葉は変化」


 俺は言った。彼女は何を言いたいのか分からない様子で黙っていた。普段なら分かりそうなものなのに、やはり彼女は焦りや恐怖に極端に弱い。


「お前は花瓶を割ったから、ずっと悪人のまま」


 罪は消えないし、悪人からの変化はできなくなっちまったな、と耳打ちすると、彼女はハッと息を呑んで、しばらく固まった後、縋るように俺を見た。予想通りの反応だった。


「あは、安心しろよ。俺も罪を背負った悪人だもん」


 だからさ、と、もう片方の手を彼女の顔に添える。


 「共犯者になろうぜ。そうすれば、俺もお前もひとりじゃない」


 俺の共犯者になってくれたら、できるだけお前を守ってやるよ。そう言うと、彼女は神でも見たかのように、目に希望を宿し輝かせた。


「わ…わかった、共犯者になる」


「そう言うと思ったぜ」


 満足げに笑い、救われた気でいる哀れな甘い悪人の手を襟元から離し、立ち上がらせる。


「多分そろそろ大人が来る。俺と違って、お前は信頼があるから疑われにくい。俺がお前を唆したってことにして嘘言うから、お前はそれに同意しとけば丸く収まる」


 まあ多少怒られるかもしんねえが我慢しろよ、と言い、大人を待った。



 あの時、裁人くんの言った『共犯者』とは、何があっても離れない関係のことである。今考えれば、同じような立場の人間をそばに置いて、自分はひとりじゃないと安心したかったのだろう。


「あの時の日付、今日と同じだよな」


「そうね、あれからもう10年くらいかしら」


「時間って早いな」と言いながら、彼は花瓶を棚に置いた。見たことある花ね、と言いながら、私はそれを見る。


「…何だったかしら、パンジー?」


「正解。学校の花壇にも生えてた」


「花言葉は?」


「『ひとりにしないで』」


「重いわね」


「明るい意味もあるぞ」


 花瓶を見ると、昔のことを思い出す。良い思い出ではないが。


「たかが花瓶割っただけだろ、その罪は消えないけど」


 彼が言った。私も「そうね」と返した。


「毒を食らわば皿まで、よね」

「ああ、オレらはずっと悪人なんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

俺らはずっと 怠惰メロンソーダ @ultra-meronsoda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画