推しが死んだので、その世界に乗り込みます
江藤 樹里
第1話 推しが死んだ日
推しが、死んだ。
美しい紫が閉じる。同時に、私の灯も消えた気がした。
スマホを持つ手が震えた。画面の中で、推しのエリオットが騎士の剣に胸を貫かれている。
「は……、え……?」
心臓が痛いのは、息を止めていたからではないらしい。
ファンタジー漫画クイーンズエッグは、私の生きる糧だった。
祭壇を作ってまで推したのは、彼だけだ。彼がいたから私も生きられた。それがまさか、こんな目に遭うなんて。
世界が歪む。とてもではないけど出勤できない。震える声で上司に、大切な人が死んだ、と伝えた気がする。すぐ休みの許可が出た。社会人三年目なのに。でもオタクの小林恵麻がもう限界だった。
堪らず癖のついた第一巻を開く。
『――きみ、名前は』
――あぁ、生きてる。此処では、まだ。
誰のことも信用しない冷たい目。けれどとても、綺麗で。
物語の中なら彼はまだ、生きている。
原作者は神様だ。推しをこの世に生み出してくれた創造神。生かすも殺すも神様次第なのは解っているのに。
それならせめて、物語には必要な死だと、思いたかった。
でも、
「……それなら、変えてやるわ」
世界ごと。私は推しの、生きている世界がほしい。
そのために初めて筆を取った。スマホでぽちぽちと文字を打つ。誰にも見せない、私だけの物語。推しのいない世界は耐えられないから。
導入を前のめりで書いていたら推しのアクスタが倒れた。慌てて戻す。
「うわ、無事? あなたを助けるために頑張ってるんだから」
言い聞かせて画面に視線を戻したら、今度は文字が急にパタパタと反転し出して変な声が出た。つらすぎて幻覚でも見てるんだろうか。勝手に鏡文字にするバグ? 怪奇現象? それとも“二次創作が下手ですね”の神の意思表示? 初めてなんだからクオリティには目を瞑ってよ。というか勝手に文字まで消え出した。ホント勘弁して。これじゃ続きが書けない。
「ちょっと神様、
思わず椅子から立ち上がって叫ぶ。
「──まさかその中に自分が入り込むとは思わないじゃん……」
だって、信じようもない。見慣れた部屋は消え失せて、自分が書いた小説の中で立ち尽くしている、だなんて。
* * *
「クイーンズエッグの世界に行きたかったとはいえ、これは予想外すぎるよ」
右を見ても左を見ても荒野。漫画で見た通りの景色だけど、あんまり嬉しくない。クイーンズエッグはつくづく、私のオタクライフに初めてをもたらす作品だと思う。
「『イドラグンドの北方に位置するペインフォード。ペインフォード伯爵であるエリオット・フォーブズが治める荒涼とした領地が目の前に広がっていた。』だったかな」
自分が紡いだ冒頭を振り返る。我ながら下手くそな文章だと思って自嘲した。
吹き荒ぶ風が冷たい。自分と重ねた分身の黒髪がなぶられる。仰いだ空は曇天。今にも降りそうなぐずついた天気だ。
「いやいやいや……書いた通り過ぎるって。夏にしとけば良かった」
自分を抱き締めるようにして両腕を摩りながら、はぁ、と溜め息を吐く。まだ白くはならない息が空気に溶けて消えた。
「取り敢えず歩こう。寒すぎ。歩けば考えも纏まるから。状況を整理しよう、うん」
早速かじかみつつある足を出す。ぐるりと見回せば街らしきものが遠くに見えた。ひとまずあそこを目指そう。
服には見覚えがなかった。手作り感溢れる服は貧しさが見て取れる。まぁでも庶民ならこんなものかもしれない。きらびやかなのは貴族だけだ。
格好の描写はしなかったな、と思い出した。此処がもし本当に自分の書いた二次創作の中なら、もっと暖かい格好をさせてあげれば良かった。
「まだ導入部分しか書いてないのに」
どうするつもりだったかなんて、勢いだけで始めたから細かいことは考えていなかった。
大まかな贈り物の設定を三つ。その世界に入ってしまったのなら。この贈り物だけで乗り切れるだろうか?
私は何度目ともしれない息を吐いた。推しを救うなんてまだまだ道のりが長い。街までだって物理的に遠かった。ちっとも距離が縮まらない。もう脚が疲れた。
風の音しかしなかった世界に、ガラガラ、と車輪の音が響いてくる。私は視線を向けた。親切そうな顔をしたおじさんの乗る荷馬車がこちらへ向かってくる。
ほっと、知らず胸を撫で下ろした。書いたから来ると期待はしていてもその姿を認めるまでは信じきれなかったのだと思う。
おじさんはシナリオ通り、荒野をひとりぽつねんと歩く私に声をかけた。どうしたんだ、と困惑した声が降ってくる。
「女の子ひとりで。ペインフォードの街へ行くなら乗せて行ってあげるよ」
「助かります。もう足が棒みたいで」
私は精一杯、愛想が良く見えるように笑って頷いた。野菜や牧草と一緒に荷台の後ろへ腰掛ける。
よくできた夢。神様に叫んで立ち上がった瞬間に立ちくらみで転倒、そのまま気を失って夢を見ていると言われた方が納得できる。でも感覚が本物すぎた。
ガラガラと車輪が回り出す。微かな土埃も、干した牧草の香りも、お尻の下の振動も、全部が実感を伴っていて。決して紙とインクで構成されている世界ではないと訴えてくる。
好きな二次創作作家は言っていた。二次創作は幻覚を他人に見せる作業だ、と。
私の二次創作は、この性癖を詰め込んだ外見の分身が推しと出会い、何とか屋敷に置いてもらう約束を取り付けた場面までだ。
原作ヒロインと推しが絡まない時の行動は分からない。推しの表情やセリフを勝手に捏造して見てみたくなった。これが二次創作作家たちの言う“幻覚”だろうか。それを見る前に怪現象に見舞われ、その世界にいたわけだけど。
え、やっぱり二次創作の才能ないよっていう神様の思し召し?
「街から来たのかい?」
おじさんが予定外に話しかけてくるから飛び上がりそうなほど驚いた。口から心臓が出てきていないことを確かめる。
「えっとその、もっと遠くから……街に行くところで……」
しどろもどろになりながらおじさんに答えた。嘘ではない。次元を超えてきたなんて言っても伝わらないだろうから大いに誤魔化したけど。
そうかい、と答えたおじさんは前を向いたまま、それ以上続ける気はなさそうだ。何で話しかけてきたんだろう。街から出てきた家出娘にでも見えただろうか。
体の向きを戻して、遠ざかる景色を眺める振りをした。内心はさっきまで書いていた導入部分を必死に思い出しながら段取りを考える。
「そろそろ街に入るよ。こう寒くっちゃ手近なパブに入りたいところだけど、お嬢さんは何処か行きたいところはあるのかい」
集中していたら、またおじさんの声で飛び上がった。親切に教えてくれただけなのに。
私は勢い良く振り向き、おじさんの向こうにペインフォードの街並みを認めた。どくん、と胸が高鳴る。あぁ、推しの住む街。漫画で見たまんま。
本当に来たんだ、と実感する。
声が上擦らないように注意しながら、おじさんの背中に向かって自分が紡いだのと同じセリフをなぞった。
「伯爵様のお屋敷に行きたいの」
あの人の命を、救うために。
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