Eclipse 〜日蝕〜 Episode 1.『森の中へと導かれて』
三軒長屋 与太郎
◆前編◆
——目次——
・序章
・出会いに向けて
・重なる不安
・山羊の笛
・サテュロスと梟
・平穏な夜更け
・夢の中で
・訪れた予兆
・森の中へと導かれて
・招かれる者と招かれざる者
・狭間(はざま)の獣
・憤怒の咆哮
・影と声の形
◆序章◆
この物語は、若きケンタウルスと、人間の娘の出会いから始まる——。
森は、世界の息吹そのものだった。
鬱蒼と茂る木々は天を覆い、重なり合う葉の隙間から、光が束となって降り注ぐ。
散りばめられた光はまるで、森を清める神聖な霧のように漂い、風が葉を揺らすたびに、無数のさざ波が空中を踊った。
小川は透き通り、流れる水は未来をも映し出しそうなほど清らかで、辺りに響く鳥の囀りや葉擦れの音は、ひとつひとつが生命の讃歌だった。
そんな森の中を、ひときわ堂々と歩く者がいた。
四本の逞しい脚で大地を確かに踏みしめながら、力強い筋肉は木々の影を撥ね返す。
黄金の鬣は木漏れ日に輝き、風にたなびくその姿は、まさに森そのものと一体であった。
彼の名は、《カロス》。
ケンタウルス族の若き戦士であり、この森の守護者である。
カロスは森を闊歩しながら、その瞳で周囲のすべてを捉えていた。
鳥の飛翔、草の揺れ、微かな水音。
すべてが彼の感覚を満たし、自らの存在が森と共にあることを、深く、当然のように感じていた。
しかし、誇り高きケンタウルスの心には、小さな影が潜む。
彼は、酔いしれていたのだ。
自らの種族の強大さ、美しさ、そしてその血脈の輝き。
それらは彼を誇らしげにしながらも、同時に、誰とも分かち合えない孤独へと向かわせた。
もとよりケンタウルスの一族は、古(いにしえ)の時代より、森の守護者としての使命を授けられていた。
産声を上げてから、その血が止まり息絶えるまで、五百年余りを森とともに生きる。
カロスも若き戦士とはいえ、この時すでに百を越える時を駆けていた。
大半のケンタウルスたちは、野蛮である。
それは、森の守護者たる驕りと、あまりにも平和な森での暮らしからくる、退屈さの歪みであった。
事実、森の生き物たちは、ケンタウルスのひと睨みで平伏す。
ケンタウルス一族は地上世界において、森の女神に次ぐ序列を有し、絶大なる力と威厳を保持していた。
故に、ほとんどのケンタウルスは傲慢で粗野(そや)と化した。
酒を好み、戦に憧れ……。
今や、あろうことか、森の危機さえ望む者もいた。
時代と共に荒れる一族を、かろうじてまとめているのが、
ケンタウルスたちの
しかし、所詮は地上界にかけられた『時の呪い』を避けられぬ者である。
ターレスも老いた。
そんなターレスを支える存在。
この時代においても森を想い、一族を憂い、女神への篤信(とくしん)と、ターレスへの忠義を欠かさぬ、数少ないケンタウルスたちがいた。
勿論、カロスもその一人であり、その中でも突出した存在だった。
世代の長、次世代のリーダー、時代を紡ぐ者。
この責務をカロスは喜び、寧ろ自らの誇りだと疑わずに生きていた。
そんな自己陶酔を打ち破るかのように、彼の肩に一羽の鳥が舞い降りた。
真紅に染まった小さな鳥は、カロスの耳元でそっと囁き始めた。
声色は穏やかでありながらも、次第に緊迫感を帯びた調子へと変わる。
カロスの瞳は最初、好奇心に輝き、やがてその光は高揚へと移り行く。
ところが、鳥が最後に告げた言葉は、その光を一瞬にして奪い去った。
「影が、蠢いています……」
森を脅かす不吉の予兆。
カロスの胸には不安と憤りが渦巻き、周囲の音は遠のいた。
彼の顔から光は消え、その逞しい体がわずかに震える。
耐えきれず、鳥は鋭く舞い上がり、赤い羽を散りばめながら飛び去った。
その瞬間、カロスは天を蹴り、二本の後ろ脚で大地を強く踏みしめた。
疾風のごとく駆け出し、森を抜け、先に見える岩山へと目掛けて突き進む。
息つく間もなく岩山の頂へ駆け上がると、彼は深く大気を吸い込み、森の彼方へと視線を研ぎ澄ました。
遠く、見渡す限りの大地。森に漂う微かな…、しかし確かな闇。
それが何をもたらすのか。
この時のカロスには、まだ知る由もなかった。
森もまた、静かに、雄大に、来るべき嵐を待ち構えていた。
◆出会いに向けて◆
その
くたびれた栗毛の馬を操るヤニスは、ずんぐりと丸みを帯びた体型に、ふさふさとした口髭、そしてほとんど閉じかけた重たい瞼の奥に、丸く大きな目を隠していた。
今や見る影もないが、彼はほんの十二年ほど前まで、この地で名を馳せた『スパルタ』の戦士の一人であり、特に、稀代の剣豪と呼ばれた《マイク》とのコンビは、対岸の古豪・大国『トロイ』や、南の精鋭『アテネ』にまで名を轟かせ、敵兵士たちを震え上がらせた。
しかし、それも昔の話。
今は北の山間に作られた小さな集落『ミリア』にて、娘のエーレを育てながら、無花果(いちじく)の栽培や南の町との物資の交流、また山の獣から集落を護るなど…、ほどほどに刺激的な隠居生活を送っていた。
娘のエーレはというと、馬車の荷台の隅に小さく丸まり、時折強く揺れる中、慣れた様子で空を見上げていた。
器用に折りたたまれた華奢な身体は、父ヤニスとは似ても似つかず、目鼻立ちこそはしっかりとしているが、どこか全体的にぼんやりとした面持ち。
雑に結ばれた飾り気のない亜麻色(あまいろ)の長髪は、手入れさえすれば見事な艶を放つのであろうが、それも叶わない。
風にたなびくわけでもなく、ただ荷台の振動に合わせて、気怠く揺れる。
そして何よりも、荷台に置かれた荷物たちと比べても遜色ないほどに、彼女の存在感は希薄であった。
そんな二人を乗せた馬車は、深く茂る森沿いを進み、いつしか山間を抜け、やがて目的地の『カテリーニ』が見えてきた。
カテリーニは山から少し離れた平野にあり、東からは潮風も届く。
二人の住むミリアよりも大きく、交易地としての賑わいを見せていた。
「よし、着いたぞエーレ。荷解きの準備を頼む」
ヤニスの声に、エーレは薄い眠気を払い、荷物を縛る荒縄を手際よく緩め始めた。
季節は夏を終えて秋へ。
冬の前は特に町同士の物資の交流が盛んであり、この日のカテリーニも例外ではなかった。
一頭の老馬が牽引する馬車は、実にマイペースに、人々の喧騒に包まれながら、色とりどりの屋台が並ぶ広場へと進んでいく。
この地では金や銀の貨幣はあまり重要視されず、人々は各々の町から持ち寄った品を、物々交換して暮らしを支えていた。
その時、人混みの中から明るい声が響いた。
「おーい、ヤニスさん! こっちです!」
短い赤毛の髪をした青年が、大きく手を振って駆け寄ってきた。
周りと比べて大きくも小さくもなく、それでも、活発な肉体と、目を眇(すが)めたくなるほどの笑顔を持ち合わせていた。
青年の快活な声に、ヤニスは馬を止め、鈍重な体を地面に降ろした。
「やあ、坊主。相変わらず元気だな」
「ヤニスさん、僕もう十二才ですよ? いつまで『坊主』なんですか?」
青年は愛らしく表情を窄め、不満げに唇を尖らせながらも、ヤニスが杭に結びつけた老馬を優しく撫でた。
老馬はそれを実に喜び、ひとつ若返ったかのように輝かせた瞳を、うっとりと閉じた。
ヤニスはその光景に笑みこそ浮かべたが、答えはしない。
どうやら「坊主」という呼び名は、まだしばらく続きそうだった。
「ところで、マイクはどうした?」
答えを飛ばしてヤニスが尋ねると、途端に青年の表情が曇った。
「実は親父のやつ、十日前に森へ向かったまま帰ってこないんです……」
明るかった声は力を失い、青年は大きく肩を落とす。
ヤニスは短く、「それは心配だな」とだけ言い残し、人混みへと消えていった。
エーレは荷台で黙々と荷を解いていたが、青年はようやく、そんな彼女に気がついた。
「やあ、エーレもいたのか。相変わらず静かな奴だな」
青年は再度、胸を張った。
「それにしても、君が一緒に来るなんて珍しいじゃないか」
青年の陽気は瞬時に蘇り、屈託のない笑顔を浮かべ、老馬の頭越しに、荷台のエーレを覗き込んだ。
「こんにちは、《ルカ》。
そうなの…。実は、父が『嫌な予感がする』から、今回は食料を多めに運びたいって。
でも、私には何のことやら……」
エーレは荷解きの手を止め、微笑みながら答えたが、言葉尻に向けて表情は淀んだ。
「そうか…。実はうちの親父も、犬たちの様子が可怪しいから、今回の狩りは長引くかもしれないって、そう言って出かけたんだ……」
ルカはエーレの言葉に一瞬驚きの表情を見せ、次いで器用に、不安な顔を浮かべた。
「でも大丈夫さ! どうせまた大きな鉱石でも見つけて、欲張って持ち帰ろうとしてるだけだよ。今に帰ってくるさ!」
そう言うと、ルカは再び明るい笑顔を取り戻し、それと同時に、町の入口から突然の歓声が響き渡った。
「ほら! きっと親父たちが帰ってきたんだ!」
エーレは、いっそう弾けるルカの笑顔から覗く、キラリと光る八重歯を見つめ、小さな宝物を見つけた幼い少女のような笑みをみせた。
◆重なる不安◆
ルカをはじめ、周りにいた大勢の民衆たちが皆、町の入口へと向かって行ったため、エーレはあっという間にひとりぼっちになった。
だが、エーレはそんなことなど気にも留めず、『むしろ仕事が捗るわ』と言わんばかりに、手際よく荷を解き続けた。小さな身体を器用に使い、自分の背丈より高く積まれた荷物たちを、荒縄の束縛から解放してやった。
仕事を終えたエーレは、空いた荷台の隙間に戻るように小さく丸まり、几帳面に積まれた荷物たちに身体を預け、そしてまた、空をぼんやりと見上げた。
(父も、マイクおじさんも、いったい何を感じ取ったのかしら…。
行きの道中に見上げた空も、今まさに見上げている空も、私には何も変わったようには感じない。
薄い雲が流れていくだけで、ただ、いつもの静かな日常が広がっているだけ……)
エーレの中で唯一いつもと違ったのは、昨夜遅くまでランプの灯りで『巻紙』を読んでいたせいか、少し頭が痛むことくらいだった。
——巻紙とは、現代における『本』に等しく、巻紙を読むとは、読書をするに等しい——
エーレはこめかみを軽く押さえ、痛みをごまかそうと目を瞑り、そのまま徐々にまどろみ始めた。
しかし、そんな彼女の安寧な静寂は、すぐに破られることとなる。
遠くから民衆の喧騒が近づき、聞き覚えのある、否が応でも頭内に響き渡る、マイクの豪快な笑い声が、彼女の瞼を強引に持ち上げた。
「おお、エーレも来ていたのか? デカくは…、なってないな。
相変わらず、陶器の置物みたいな子だ!」
好き勝手に言い終えると、マイクは腰に手を当て、大袈裟に身体を反らしながら、再び笑い声を轟かせた。
エーレは華奢な身体をより小さく丸め、辛うじてはにかみながら、「お久しぶりです」と最低限の挨拶を返したが、マイクの笑い声の前では毒にも薬にもならなかった。
マイクは実に屈強で逞しい体つきの大男。
息子であるはずのルカとは似ても似つかない強面で、目・鼻・口・耳、どれをとってもくっきりと主張が激しく、顔に刻まれた数々の傷は、説明不要に彼が元戦士である事を物語っていた。
薄く嗄(しゃが)れた声は、あるはずのない輪郭を伴い、その声量と共に男の威圧感をさらに際立たせる。
豪放な人格はこの町は疎か大陸中で知られ、過去の戦争で名を馳せた英雄であるのは然ることながら、狩りの名手としても有名だった。
「おいおい、うちの娘は大人しい子だ。
お前みたいなのが近づくと、声圧だけで壊れてしまうわ」
ヤニスは軽く冗談を飛ばし、マイクの圧力から娘を庇うようにしながらも、すぐに話を切り替えた。
「それより、さっきの話だが…、森の中は本当に、いつもと違っていたのか?」
その言葉に、マイクの表情は一瞬で険しいものへと切り替わった。
「そうだ……」
よもや現役を退いたとは思えぬ迫力を帯び、猛禽類のような鋭い眼差しが光る。
その姿に、エーレは思わず背筋を正した。
そんな中でも、(やっぱり、ルカの器用な表情の変化は父親譲りなのね)と、エーレはくだらない感想を思い浮かべながら荷物の隙間から抜け出すと、久々の地面へと舞い降り、マイクの話に耳を傾けた。
◆山羊の笛◆
「ここでは目立ち過ぎるな……」と、マイクは群がる民衆に豪快な愛想を振り撒きながら、人混みから距離を置き、広場の隅の小さなテーブルへとヤニスを誘導した。
ヤニスはこれに賛同し、それに付き従うように、ルカは器用に、エーレは何度もぶつかりながらも人の波を掻い潜り、嫌でも目立つマイクの大きな身体を追った。
四人で丸いテーブルを囲むと、切り株が置かれただけの粗雑な椅子に腰を下ろし、マイクはそれぞれの顔を近付けさせて、声の調子を落とし、低く唸るような音色で森での出来事を語り始めた。
「今回の狩りで、俺たちは『パライオ』を拠点にした……」
——パライオは、カテリーニより少し北、『森への入り口』と呼ばれる町であり、『町』とはされているが、実際にそこに住み続ける住人などは居らず、殆どは旅の者か、森へ入る狩人たちが寝泊まりするための仮初めの休息地に過ぎなかった。
そもそもだが、この時代に於いて、森とは畏れの象徴であり、マイクを始めとする屈強な狩人の集団でもない限り、自ら望んで森に入ろうなどと思う者はいなかった。
カテリーニの狩人の一団ですら、『いざとなればマイクが居る』という心の支えは絶大であり、よもやマイク不在で森に入ろうなどと自惚れる者もまた、存在し得なかった。
何故ならば、大陸全土各地の、数々の伝承に於いて、森には、人間の理解の及ばぬ魔物が棲むと言い伝えられており、その中でも特に夜の森は、足を踏み入れる行為自体が禁忌とされ、人々に忌み嫌われていた。
必然的に、森の近くに住もうなどという悠長な考えは誰一人として持たず、実際、普段エーレが住んでいるミリアのような山間の集落は、かなり稀有な存在であった。
これも、エーレの父であるヤニスの存在が大きく、彼の献身な守護無くして、人が山間に住まうなど、そもそも考え難い事であった。
しかしそれ故に、森との境界で栽培されるミリアの無花果や、マイクたちが持ち帰る、熊や猪の新鮮な肉は、カテリーニの名物であり、交易に訪れる近郊の町の者たちは皆、こぞってそれらを切望した。
話はマイクに戻る——。
「あの日はまず、猟犬たちの様子がおかしかったんだ。
出発前から少し気にはなっていたが、パライオに近づくにつれて、皆してビビり始めやがった。俺の猟犬たちがだぜ!?」
マイクの猟犬たちも、この辺りでは有名だった。
主人と同じく勇敢で、屈強な七匹の大型犬。
無論、森へ入るのも一度や二度ではなく、それぞれに隆々たる筋肉の鎧を纏い、鋭い牙と爪を尖らせ、灰色の毛並みを不気味に艶めかせていた。
『並の人間どころか、例え獅子でさえ、この七匹を相手になど数秒ともつまい』と、思い知らせるだけの気迫に満ちていた。
それが、揃いも揃って尻尾を下げ、小刻みに震えていたという。
いかに、異様な光景か……。
「あからさまに森へ入るのを嫌がっていたから、仕方なく初日は森へは入らず、パライオでひと晩、様子を見ることにした。
そして夜になり…、まあ、そこは俺たちだ。いつも通り麦酒を呑みながら、狩りの計画を立てていた」
マイクはわずかに微笑んだように見えたが、すぐに険しい顔つきに戻した。
「そんで、さあ寝ようかってなったんだがな…、俺は犬たちの様子が気になったんで、酔い覚ましも兼ねて少し遊んでやることにした。
俺と戯(じゃ)れて、あいつらも少しは落ち着いたと見えた。
だが、俺がひと安心してテントに戻ろうとした時だ……」
マイクは少し間を置き、喉を鳴らし、これまでよりも更に慎重に、より重厚に、ひとつの結末を添えた。
「遠く…、森の中から、笛の音(ね)が聞こえてきたんだ……」
マイクを囲んで聞いていた三人は皆、思わず息を呑んだ。
それぞれがマイクを強く見つめた。
今や、ヤニスの重たい瞼も、エーレのぼやけた表情も、ルカはもとより、皆が目を見開いていた。
そしてマイクは、獰猛な瞳で、ひとりひとりの顔をゆっくりと見渡した。
——森の中から聞こえる笛の音。
それは『サテュロスの吹奏(すいそう)』と呼ばれ、自らに訪れる不吉の予兆として、激甚(げきじん)に恐れられていた。
ここでいう『不吉』とは、即ち、『その命の終焉』であった。
《サテュロス》とは、下半身は山羊、上半身は人間の半人半獣とされ、醜く、厭(いや)らしく、卑劣であり狡猾で、実態は臆病でありながらも、美しい者と果実酒には目がなく、森の近くを通る旅商人や、顔立ちの良い人間を狙っては、『アウロス』と呼ばれる特殊な笛の音で森の中へと誘い、惑わし、想像し難い凌辱(りょうじょく)の末に、死に至らしめたと云う。
サテュロスは、快楽と怠惰の象徴とされたが、実際に見た者などはいなかった——
三人は無言のまま、マイクが続きを語り始めるのを待った…。
そして、マイクが続けた。
「朝になって、俺は仲間たちに笛の音のことを話した。気味悪がる奴もいたが、数日後には物々交換の日だ。
お前たちも知っての通り、カテリーニの名物と言えば、俺の造る麦酒と、森の獣の生肉だ。
勿論、ミリアの無花果もな!」
マイクはわかり易く気を遣い、ヤニスは「話の腰を折るな」と急かした。
「せっかくの宴に、数カ月前の干し肉だけじゃ味気ないし、何よりカテリーニの民として、これ以上の屈辱はない。だから俺たちは、強行的に森へ入った。おっと……」
何かに痺れを切らしたマイクは、話を中断するとスッと立ち上がり、近くの屋台へと向かった。
ドカドカと戻ってきた彼の両手には、人間の頭ほどもあろう大きなジョッキが握られ、そのうちのひとつをヤニスに手渡した。
「まあ、ひとまず乾杯だ」
ジョッキを雑にぶつけ、中身はシュワシュワと溢れ出し、麦酒特有の『たるい香り』が、エーレとルカの嗅覚を刺激した。
この地で酒と言えば、ワインが圧倒的主流であったが、マイクの造る麦酒は別格であり、わざわざ南の海を渡って買いに来る物好きもいたほどだ。
ヤニスは仕方なしと満更でもなく、零れそうになった麦酒の泡へと口を運び、マイクは大きく空を見上げながら、大きなジョッキの中身を一気に飲み干し、そして、プハーと大きな声と共に息を吐いた。
マイクの吐き出した息は、真正面に座るルカへと浴びせられ、ルカは露骨に身体を仰け反らせながらそれを嫌がったが、話の続きが気になるのを隠しきれないルカは、それでも小刻みに足を震わせていた。
エーレはそれを見ながら、大丈夫、私も同じ気持ちよと、心の中で笑った。
「それで、森に入って行ったんだがな…」
二杯目を近くの屋台の男に注文しながら、マイクは唐突に話を再開した。
「元々は、パライオを拠点に二日間の狩りを予定していたんだが、森を進めど進めど、獲物の気配が無い…。
犬たちはすっかりいつもの調子に戻っていたんだが、それも意味なし。
熊や猪どころか、鹿も兎も鳥も見当たらず、犬たちもまるで反応しなかった。
仕方なく、俺たちは森で夜を越す決心を固め、更に奥へと進んだ。
勿論、最年少の『アイツ』は、涙目で拒んだがな」
マイクはジョッキを呷り、麦酒を呑み込むや否や、ガハハハと盛大に笑い、見事なまでに整った歯並びを見せびらかした。
その豪快な姿は、いつもとなんら変わらぬように思えた。
「結局、一日目はろくな獲物は獲れなかった。
蜥蜴(とかげ)に薬草、小さな鉱石…、大の大人が悲しくなるものばかりさ。
辺りはすっかり暗くなり始め、俺たちは諦めてテントを張った。
逆に、これだけ獣の気配が無いのなら、夜の森とはいえ安心さ。
静かに火を囲み、今居る場所や、明日からの方向性を話し合いながら、皆が皆を不安がらせぬようにと、至って普通に呑んでいた……」
その時、たかだか数日前の話をしているはずのマイクが、遥か遠い過去を思い出すかのような、自らの昔を美化し、咀嚼して味わうかのような…、何とも言えぬ虚ろな表情を見せた。
しかし、それはほんの一瞬だった。
「そして不意に、あの笛の音が聞こえてきたのさ……」
ただでさえ堀の深いマイクの顔は、一段と陰影を増し、その瞳には、確かな恐怖が映り込んでいた。
「今度は俺の聞き違いなんかじゃない。仲間の狩人たちも皆、確かに聴いた。
しかも…、遠くからじゃない。すぐ目の前の、茂みの向こうからだ」
マイクの話の急展開に、ヤニスは丸い目を更に球体に近付け、ルカは息を飲み、エーレは呼吸を忘れた。
「そして、そいつは茂みの中からゆっくりと姿を現したんだ……」
「何が!?」
ほんの少しの沈黙にも耐えきれず、ルカが思わず声を上げた。
「山羊(やぎ)さ」
マイクは、静かに答えた。
◆サテュロスと梟◆
一同はすっかりと黙り込み、年に何度かの町の賑やかな喧騒の中から、四人だけがくっきりと、切り取られたかのようだった。
今や誰ひとりとして、この沈黙は打ち破れない……、そう思えた。
皆が音を失った理由は、『山羊』である。
本来山羊は、森の平地にはいない山岳の生物であり、マイクの話を聞くと同時に、三人の脳裏にはある共通の存在が浮かんでいた。
無論、それはサテュロスである。
「すると何か? お前はサテュロスに会ったとでも言うのか?」
静寂を切り裂いて、ヤニスが問いかけた。
その問にマイクは、これまでにも増して鋭い眼光を向け、誰よりも大きな目を血走らさせ、しばらく皆を眺めた後に、意を決したかのようにぽつりと答えた。
「会ったどころじゃない。喋ったのさ……」
四人はより、深淵に包まれた。
◆◇◆
ここからは、当時のマイクたちの視点で語られる——
夜の森。
焚き火の光が揺れる中、マイクを始めとする十人の狩人たちは笛の音を聞きながら、その音源を探ろうと、暗闇に目を凝らしていた。
皆が姿勢を低く構え、目は怯え、得体の知れない何かと対峙していた。
森の中から聴こえる音色は形容し難い。
陽気でありながら、不協和音が混じり、どこか、明確な悪意を帯びていた。
しかし、自らの警戒心に反するが如く、心は踊った。
それぞれ、自身の身体の中に流れる血が、不思議と沸き立つのを感じたのだ。
その音は遠くない、まるで手を伸ばせば届く、すぐそこから聞こえた。
数人の狩人が発狂しそうになった……。
サテュロスは、唐突に木々の陰から現れた。
その姿に微塵の躊躇も警戒心も無い。ごく自然体であった。
マイクが咄嗟に短い声を上げ、狩人たちは武器を構えた。
しかし、サテュロスはちらりと彼らを見た後、微かに笑みを浮かべるだけであった。
それは決して友好的なものではなく、むしろ薄く、嘲(あざけ)るような表情だった。
サテュロスの頬に刻まれた余裕は、狩人たちを瞬時に萎縮させた。
たとえ、マイクの力が群を抜いているとはいえ、それぞれに、自らの力に対する絶対的な自信を持っていた。
しかし、この時は違った。
まるで自分たちが獲物となり、捕食者に睨まれているかのように感じたからだ。
狩人としての直感が、これは紛うことなき死の予兆だと、警鐘を鳴らしていたからだ。
マイクたちの前に現れたサテュロスは、小さな山羊の下半身に、人間の上半身を持つ半人半獣。
背丈は百五十センチほどで、選び抜かれた狩人たちに比べれば、幼気な青年のようにも見える。
だがしかし、サテュロスの二つの眼(まなこ)には、古代から受け継がれし邪悪な智慧(ちえ)と、あらゆる命を見下す冷たい光が宿っていた。
その上で、皆が言い伝えで聞いていたサテュロスとは、決定的に違う部分があった。
それは、頭部だ。
サテュロスは、極一般的な人間の顔と聞かされていた。
ただし、その顔は醜く、汚らしい髭を生やし、ハゲ散らかした頭をしていると……。
しかし、この時現れたサテュロスは、禍々しく渦巻く大きな角を頭蓋に携え、人間とも山羊とも言えぬ、実に悍(おぞ)ましい面構えであり、左右に細長く伸びた狭い黒目で、狩人たちを弄んでいた。
賢者のような顎髭を蓄え、顔面の筋肉と表層の皺は連動し、小さな老人を思わせながらも、全身が生気に満ちていた。
その姿は正に、化け物であった。
右手に持った円錐台(えんすいだい)状の角笛を、左手の掌(てのひら)で軽く叩きながら、サテュロスは、嗄れた高い声で不意に口を開いた。
「おいおい、よしてくれよ。そんな物騒なものを突きつけて、この『か弱い生物』をどうしようって言うんだい?」
その言葉とは裏腹に、サテュロスは物憂げに森の上空を見渡し、目の前の人間たちにはほとんど興味を示していないようであった。
マイクは全身を強張らせながらも、意地で正気を保ち、声を絞り出した。
「お前こそいったい何の用だ? 申し訳ないが…、俺たちの知る限り…、お前は不吉の象徴だ…。警戒しないわけにはいかない」
得体の知れないナニかに首を絞め上げられ、ひとつ言葉を零すたびに、窒息し、意識が飛びかけた。
しかしマイクは、わずかでも友好的な態度を示すことで、相手が敵意を抱かないようにと必死に努めた。
サテュロスは一瞬、驚いたように瞼を広げ、視線をマイクへと移すと、次いで、しっかりと、微笑んだ。
「森に似つかわしくない良い匂いがするから、釣られて出て来ただけだ。
お前たちが持っているそれ、麦酒だろ。
少しくれないか? 果実酒ばかりで気が滅入りそうなんだよ」
余りに軽妙な返しに、マイクは自身の背筋を、冷たい汗が流れるのを感じた。
言葉を発するたびに、サテュロスの顔面の皺が面白いほどに踊った。
マイクを見つめる細長い黒目は、絶望の先の死を連想させた。
それに何よりも…、この時、サテュロスの発した声色が、余りにも綺麗で美しかった。
いつの間にか忘れてしまった、遠い過去の友のような、懐かしさと、温かみを感させたのだ。
実に気味の悪い感覚が、狩人たちを襲う。
だが、マイクは冷静だった。
この会話に皆の命がかかっていることを、歴戦の経験からすぐに察知したからだ。
マイクは口を閉じ、言葉を消し、ただじっと、サテュロスを見つめた。
沈黙が続く中、サテュロスの表情は次第に無表情へと変わり、同時に、森の空気は凍てついた。
そして次の瞬間、サテュロスは盛大に笑い出した。
「これは驚いた!」
サテュロスは大袈裟に身体を捩らせ、その反動のままに膝を曲げ、低い姿勢を保ち続ける狩人たちの視線に割いるように、グーっと、カロスの顔を覗き込んだ。
「人間の中に、まだこんなにも勇敢で賢い奴がいたとはな。
先の問いに一言でも返して来るならば、全員、殺してしまおうと思っていたところだ」
ほんの冗談でも話しているかのように、サテュロスは戯けてみせたが、その声色は先程までとはまるで違い、これこそが真実と言わしめるだけの醜悪さを包含(ほうがん)していた。
その声は、振動となりて地面を伝い、マイク以外の狩人たちをも襲った。
これには遂に耐えきれず、狩人の中で最年少である《ネオ》が、膝からガクリと崩れ落ちた。
周りの狩人たちと比べると、幾分か、細く頼りないが、それでも、引き締まったしなやかな肉体を持つ、眉目秀麗(びもくしゅうれい)。
それも今は用をなさない。全身に大粒の汗を吹き出し、肩を揺らして息をしながらも、辛うじて、手の槍だけは握っていた。
そんなネオを背中で感じた最年長の《ミト》は、ふと我に返り、ネオに近寄ると、その肩をグッと掴みながら、目に力を蘇らせ、サテュロスを睨んだ。
——ミトは、皆に『ミト爺(じい)』と呼ばれ、親しまれていた。
幾度の死線を乗り越えてきた、奥深い眼差し。
布越しにも見て取れる異様に発達した背中の筋肉。
最年長とは思えぬ重量感。
齢にして六十五。大陸中を見渡しても、紛うことなき大老の狩人であり、その実、若き頃は名を馳せたスパルタの弓兵であった。
当時、ミトの放つ矢は、城壁すら打ち砕くとされていた。
しかし、除隊の末に隠居し、故郷のカテリーニに帰って以来、ミトは、弓矢を触りもしなかった。
それは確かに、森が主戦場となったのもある。
余りにも鬱蒼と茂る木々の前では、人知の武器など意味を成さなかった。
ミトといえども、生きた大木を貫くなど容易ではないし、そもそも、ミトにとってそれは、自然への反逆でもあった。
だが、本質は違った。
ミトは、スパルタの弓兵隊長であった折、自らが放った弓矢で、あろうことか、戦友の息子を射抜いてしまったのだ。
勿論意図した訳ではない。
人質に取られた戦友の息子を救わんが為の、苦渋の選択である。
実際、その子は右足を貫かれながらも一命を取り留めたが、親の跡を継ぎ、街の英雄となるはずであった一人の青年の未来は、その瞬間に潰(つい)えた。
皆はミトを責めなかったが、戦友だけは…、遂に許してはくれなかった。
それ故に、ミトは武器を剣へと変えた。
不思議と、これが功を奏した。
ミトが、弓を放つ為に鍛え上げ続けた、左腕の歪な上腕三頭筋と、右肩の三角筋は、剣技になっても生き、誰も真似できない両刀の剣士となった。
左腕から繰り出される突きは、何者の防御も無効化し、その上で、右肩から振り下ろされる剣は、いかなるものをも切り裂いた。
そして今や、カテリーニの生ける伝説たる、最長老の狩人と成った——。
そんなミトですら、今はサテュロスを睨みつけるだけで、精一杯だった。
他の狩人たちも、ミト爺に倣(なら)い、何とか武器を構えてはいたが、それぞれの持つ剣や、斧や槍が、無価値な装飾品に思えた。
それでもこれは、サテュロスにとって充分に珍しく、興味深い光景であった。
一連の流れを観察するかのように見ていたサテュロスは、大いに関心した。
「なるほど…。人間が森で夜を越すとはどんな馬鹿共かと思っていたのだが、俺様の前でまだ心が折れぬとは。
これは中々に良く出来たものだ」
ふんっと鼻で息を鳴らすと、相変わらず異質な陽気を放ちながら続けた。
サテュロスは実に、愉しげであった。
「それにしても、人間と言葉を交わすなどいつぶりであろうか。
なかなかに興味深い。
それに、今向けられているこの視線は、敵意かい?
それとも、仲間を守り抜かんとする、人類のエゴかい?
まさか、助け合いなどとは言うまい……」
勿論、これに発言する者などいるはずもなく、帰ってこない答えがもたらす沈黙に飽きたのか、サテュロスはマイクを見つめ、最後の問いを投げかけた。
「まあ、そんなくだらない事はどうでもよい。
さっきも言ったが、目的は酒だ。そして、お前は気に入った!
なんせこっちじゃ、まともに会話出来る奴なんて居やしないから、いつも手酌酒だ。
どうだ? お前、一緒に飲まないか?」
言葉を区切ると、サテュロスの表情は、『無』よりも深い影を纏った。
細長かった黒目を丸く広げながら、気味悪く首を伸ばし、ゴツゴツとした大きな角をマイクの頭に這わせながらもう一言。
「それとも、今、死ぬか?」 と、囁いた。
全員の緊張が最高潮に高まったその時だった。
突然、木の上から小さな梟が現れたかと思うと、マイクの肩に降り立った。
梟は、片一方の足をあげ、ニギッっと、可愛らしく威嚇した。
スッと後退りしたサテュロスは、あからさまに嫌味な態度で首の後ろを掻いた。
「冗談だ…。お前が上から見ているのも分かっていたし、そもそも今この森の中で、何もする気は無い。ただの散歩だ」
首を少し傾けながら睨み続ける梟をしばらく見つめた後、サテュロスは溜息をつきながら後ろへと踵を返した。
「分かった…、帰るよ」と、不満気に零したかと思うと、持っていた角笛を短く吹いた。
ギイイーっと、不快な音を響かせながら、何処からともなく大量のコウモリの群れが現れ、サテュロスの身体を包んだ。
と同時に、「また会おう……」と、不気味な言葉が、マイクの脳裏に響いた。
そして、サテュロスは跡形もなく消え去った。
狩人たちは何も無くなった空間を見つめながら、しばらく沈黙を続けた後、誰からともなく、膝から、腰から、それぞれのスタイルで崩れ落ちた。
マイクは静かに片膝をつき、肩に乗ったままの梟の頭を軽く撫でた。
梟は大きな目をそっと瞑り、まんざらでもなく応えた。
森はいつもの色彩を取り戻し、狩人たちは久しぶりに、森の音と風を感じたのであった。
「今のはいったい何だったんだよ、ミト爺?」
ネオは、四つん這いになり、深く首を落としながら言葉を発した。
「分からん…。分からんが、目の前で起こった事、そのままだろう……」
ミトは腰から落ちるスタイルだったらしく、木々の間から垣間見える空を見上げながら力無く応えた。
「とにかく分かっている事は……」
マイクは皆へと振り返りながら立ち上がり、今の状況を説明した。
「この小さな梟に、俺たちは助けられた。そしてたった今…、それぞれの命を拾ったのだ」
マイクは喋り終えると、腰袋から一切れの干し肉を取り出し、肩に乗る梟に渡した。
梟は与えられた干し肉を咥えると、ご機嫌に、森の中へと飛び去って行った。
◆平穏な夜更け◆
場面はカテリーニの四人へと戻る——
マイクの口から語られた真実に、三人は言葉を失い、それぞれに定まらぬ視線を泳がせ、俯き、静かに沈黙した。
ただの言い伝えだと…、迷信だと思っていたものが、突如現実と化して、三人を襲った。
しかも、臆病で、弱者に強く、強者にめっぽう弱いとされていた化け物は、その実、全く違った。
あのマイクが言うのだから、これ以上の説得力など存在しない。
その上で、マイクですら太刀打ちできないなど……、それでは余りにも、無理難題ではないか。
それは最早、不吉の予兆ではなく、必ず訪れる約束された未来ではないか……。
そう、思えてならなかった。
……しばらくして、マイクは何杯目か分からぬ麦酒を呷り、重たい空気をテーブルごとひっくり返す勢いで、急に陽気な調子に戻った。
「なんにせよ、俺たちは生きて帰ってきた。それに、パライオに引き返す途中で、あいつが現れてくれたんだ」
——まだ三人がマイクの話を聞く前、ヤニスとルカが、マイクを筆頭に帰還した狩人たちを町の入り口で迎えた際、数頭の馬たちが必死に牽引する荷車の上には、人間たちの背丈の二倍は軽く超えているであろう、それは見事な大熊が積まれていた。
民衆たちは勿論、狩人たちが無事に帰って来たことを喜んだが、好き者たちを始め、今回は生肉を諦め、肩を落として帰ろうとしていた近郊の町の者や、旅商人たちも、皆が溢れるよだれを必死に飲み込みながら、パレードが如く、カテリーニの広場へと逆流した。
それほどまでに、この時代における森の獣の生肉は希少であり、運なくして味わえる代物ではなかった。
「中々に大きな熊だったが、『あいつ』も不幸だったな。
何せ俺たちは、その少し前に本物の化け物と対峙したばかりだ。
ただデカいだけの熊なんて、怖がる理由が見つからん。
動くご馳走に見えたくらいだ。
その証拠に、今回あの熊を仕留めたのは、最年少のネオだぜ?
あの野郎、パライオに戻る道中も、サテュロスについてミト爺を質問責めしながら、思い出してはブルブルと震えていたくせに、相手が熊になった途端に、あの調子だ……」
そう言うとマイクは、仕留められた熊にも劣らぬ拳を握り、見るからに頑丈な親指を立て、クイッと、何かを見るようにと指示した。
三人が親指の示す先に目をやると、奥の屋台にもたれ掛かりながら、遠目で見ても上機嫌に、三人の女を相手にするネオがいた。
ネオは、持っていたジョッキを屋台に置き、なにやら槍を突く動作を見せると、その瞬間、女たちから色めく歓声が上がった。
その音色を味わうように、ネオはまたジョッキを手に取り、小気味よく、一口、二口、三口と、ジョッキの中の酒を空にした。
三人は、このくだらない寸劇を前に、思い悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなり、皆を代表して、ヤニスがため息混じりに感想を述べる。
「相変わらず、色欲にまみれた調子者だな。
多少男前なのは良いが、あいつに笛を持たせたら、どこかの化け物と一緒だぞ。
まあそれでも、今回くらいの熊をひとりで倒せるなら、お前の狩人の一員としては、及第点といったところじゃないか?」
「腑抜けた性格さえ治れば、元々腕は立つ奴なんだがな。
今回の結果は、寸前にサテュロスと対峙したが故の、一種の覚醒状態だから出来得たのだろうよ。
次に森に入る時には、今回の成果の褒美に、アイツを隊の先頭に立たせてやろうと思ってるんだ。
俺の犬たちはひと晩だったが、ネオが森へ入るまで、いったい何日かかるか……」
「俺の見立てだと、ひと月だな。
カテリーニで暴動が起きる前に、そんなくだらない計画は諦めることだ」
ヤニスの返答に、マイクは久し振りに豪快な笑い声を轟かせ、再びヤニスのジョッキに、自らのジョッキをぶつけた。
突然聞こえてきたマイクの笑い声に、ビクリと肩を震わすネオを、エーレは視界の片隅で、見逃さなかった。
ネオは女たちを引き連れて、暗がりへと姿を消した。
マイクは、「あとは呑もう」と声を上げ、新たな麦酒を煽った。
ただの呑み場と化した円卓を抜け出したエーレは、ルカと共に、町の品々を交換して回った。
広場は様々な食材で彩られ、フルーティな香りが充満していた。
ミリアから持参した果物や蜂蜜、中でもやはり無花果は好評で、旬の味覚として大いに喜ばれた。
おかげで交渉もスムーズに進み、大麦小麦やオリーブ、木綿やウールといった必需品から、ミリアでは手に入らない海の魚や、豚肉にナツメヤシの実、そしてやはり、ワインの素とするためのブドウに、カテリーニ名物の麦酒など、それは十分な物資を手に入れることができた。
エーレたちが満足気に元の場所へと戻ると、マイクとヤニスの周りには大勢の人集りができ、最早テーブルは意味を成さず、ヤニスに自らの剣を見てもらう者、マイクに背中を叩かれ大いに痛がる者、徐ろに力比べをする者、肩を組みながら笑い転げる者…。
皆が、盛大に酒を酌み交わしていた。
「まったく呑気なもんだぜ。ほんの数日前に死にかけたって男がさ」
交換した物資を馬車の荷台へと載せながら、ルカは呆れた様子で呟いた。
「でも、良かったじゃない? マイクさんも陽気に戻ったし。
さっき話をしていたときは、ずっと恐ろしかったわ……」
マイクの鋭い眼光と、そこに映った恐怖の陰影を思い出し、エーレは表情を曇らせた。
それを見たルカは、あえて明るく振る舞った。
「まあ、親父が言うことも一理ある。皆が無事に帰ってきたし、立派な獲物も捕れたんだから。
さっさと荷物をまとめて、僕たちも飯にしよう」
エーレはこれに賛同し、二人で手早く荷造りを済ませると、賑やかな宴会から少し離れた場所を陣取り、普段は余り口にしない肉や魚など、細やかな晩餐を楽しんだ。
二人は幼馴染であり、加えて年齢も同じ十二歳。更には、産まれた日付までもが一緒。
お互いに名の通った元戦士を父に持ち、そして、お互いに母親を知らなかった——。
それもあってか、エーレはルカを弟のように可愛がり、また、ルカはエーレを妹のように思いやった。
か細い両腕で頬杖をつき、エーレはルカの輝く八重歯を見つめ、ルカは、あまりに存在感の薄いエーレを見失わないようにと、唯一父親譲りの強い瞳で、エーレを見つめた。
町中は夜更けまで宴の熱気に包まれ、疲れた者から順に、それぞれの家や宿へと帰っていった。
「明日はどうするんだ?」
マイクがジョッキを置き、ヤニスに尋ねた。
「昼前には出る。
お前が出会ったサテュロスも気になるし、渓谷に守られてはいるが、ミリアは森に囲まれた場所だからな。
町の皆に、少しでも早く知らせたい」
「それが良いだろう」とマイクは頷き、ルカに宿の準備を指示し、エーレもそれに従った。
「それにしても…、『アイツ』は何だったのか。梟にしても、分からないことだらけだ。
ヤニス、お前もしばらくは、森での狩りはしない方が良いだろう」
「勿論だ。俺はエーレを…、お前はルカを…、しっかり護らなければな……」
最後の麦酒を同時に飲み干し、お互いの大きな拳をぶつけると、マイクは家に、ヤニスは宿へと向かった。
◆◇◆
エーレは、少しだけ開けた客室の窓から、ぼんやりと外を眺めていた。
森の輪郭と、その上に広がる夜空……。
隣では父ヤニスが布団に入り、早々にイビキをかいて眠りについている。
エーレは、掴みどころのない感覚に襲われた。恐怖でも不安でもない。
それはまるで、触れようとしても何も掴めないような、朧げな感覚だった。
記憶に無い過去を、懐かしむ気持ちだった。
自分の人生が、今日という日を境に、急激に変わっていく…、じんわりと滲むような予感がした。
(私、考えすぎね…。
怖い話を聞かされて、より一層、臆病になってしまっているんだわ。
とにかく…、明日は急いでミリアに帰らないと……)
エーレは、父を起こさぬよう静かに窓を閉め、布団に潜り込むと、ゆっくりと目を瞑った。
◆夢の中で◆
~エーレは薄暗い森の中に立っていた。
朝霧がうっすらと漂い、冷たく湿った空気が頬を撫でる。
見渡す限りに木々がそびえ、風に揺れる葉音が、遥か上空から微かに聞こえるだけだ。
しかし、決して陰鬱なわけではなく、どちらかと言えば清々しく、ありとあらゆる穢れを祓う…、そんな場所。
ひとつ呼吸をするたび、爽やかな森の香りが、身体のすみずみまで駆け巡っていく。
しばらく呆然と立ち尽くしていたエーレは、やがて一歩を踏み出し、ゆっくりと歩き始めた。
足元の落ち葉が柔らかく、軽やかな音を立てる。
足裏から伝わる心地の良い感触に、酔いしれた。
少し進むと、森は急に開け、目の前に大きな湖が広がった。
風に揺れる水面は陽光を反射し、無数の銀の光が煌めいている。
湖の中央には小さな島があり、異質な存在感を放つ一本の大樹が生えていた。
幾本ものがっしりとした枝を大きく広げながらも、陽の光を独り占めすることなく、幻想的な木漏れ日へと浄化して、湖に染み入らせるように……。
その根元には、苔むした石造りの神殿が見える。
入口には太く重厚な二本の柱がそびえ、余計な装飾は一切なく、大樹と一体となるかのように…、いや、大樹を支えているとでも言わんばかりに、神殿は力強く鎮座していた。
エーレは何を思うでもなく、その神殿へと向かって歩き出した。
心は穏やかで、清らかさに満ちている。
まるで、かつてここを訪れたことがあるかのような懐かしさすら覚えた。
しかし困ったことに、エーレには島へと渡る手段が無かった。
島は完全に孤立し、架けられる橋もない。
仕方なくエーレは、湖の淵に沿って歩き始めた。
湖畔に沿って進むうち、耳ではなく心の奥底に、なにやら声が響き始めた。
言葉にならない囁き。
それは確かに『声』であったが、エーレには理解できない言語。
それでも分かる。『二つの何か』が言い争っている…、と。
突如、エーレの胸にとめどない不安が湧き上がった。
清らかだった心は乱れ、空気が重く、冷たく感じられる。
エーレは自然と足を速めた。
「急ぎなさい」
今度は、はっきりとした声が耳に届いた。
その声に背中を押されるように、エーレは湖の反対側へと向かって一気に駆け出した。
湖の周りには、不思議な建造物がいくつも建てられていた。
人間が使うには入口があまりにも大きく、建具もない、雨風をしのぐためだけの仮小屋…、それが幾つも連なっている。
器用に積み上げられた石造りの外壁は、それが明確に『文明』であることを示していたが、ではいったい誰のためのものなのか…。
しかし、エーレにはそんな事を考えている余裕はない。
ただ、ひたすらに走った。
湿った地面に足を取られながらも、その華奢な身体をなんとか前へ、前へと押し出していく。
だが、不安は着実に強まり、やがて確かな気配となって背後から迫ってきた。
反射的に振り返ると、木々の隙間から無数の黒い影が這い出してくるのが見えた。
実体の無い影たちが、波のように押し寄せてくる。
冷たい空気はさらに冷え込み、恐怖がエーレの体を凍りつかせた。
足は重く、力が抜けていく。呼吸も肺には届かない。
遂には膝が崩れ、地面に倒れ込んだ。
影は瞬く間にエーレを取り囲んだ。無数の影が纏わりつく。
その存在は恐怖、絶望、死の気配そのものであり、エーレの身体は否応なく小刻みに震えた。
ひとつの影が、エーレに触れようと腕のような輪郭を伸ばした次の瞬間、ふと視界が広がった。
エーレは、まるで魂が身体を離れ、空から自分を見下ろしているかのようだった。
初めて経験する幽体離脱……。
エーレは眺める。
自身を包む無数の影。触れたくても触れられない、もどかし気な影たち。
さらに森の奥から次々と湧き出る、新たなる影たちも見える。
束の間だが、時間は恐ろしく速度を緩め、エーレはただぼんやりと眼下の光景を観ていた。
「恐れるな」
再び声が響き、魂が身体へと引き戻される感覚を味わった。
今や視界に映るのは、湿った地面。肌を伝わる冷たい感触。
(もう動けない……)
エーレがそう思った時、どこからか蹄の音が響いた。力強く、疾走する炸裂音。
背後で、何かが影たちに突撃している。
そして次に、五臓六腑を揺さぶる咆哮。
無数の気配は次々と薄れ、やがて完全に消え去った。
恐怖は安堵へと変わり、清らかさへと昇華していく。
風が湖面を撫で、再びの静寂が森を包んだ。
頭上には、荒々しい吐息だけが響いた。
エーレはそっと地面に倒れ込んだまま、頬に大地の温もりを感じ、深い安らぎに包まれていった……。
その時、今度は聞き慣れた声がエーレに語りかけた。
「起きなさい、エーレ」
エーレは瞼を開けた。
薄明かりが差し込む部屋、視界に映るウールの毛綿。
エーレはうつ伏せで、宿のベッドに横たわっていた。
父ヤニスの声がすぐ傍で響く。
「早く準備しなさい。急いでミリアに帰るぞ」
エーレは虚ろな頭を小突きながら、夢の余韻を振り払うように起き上がり、急いで帰路の準備を進めた。
◆訪れた予兆◆
ヤニスとエーレは、手早く荷造りを済ませた。
そんな二人に、マイクは少しでも早く帰れるようにと、二頭の馬を追加で荷台に繋いでくれていた。
元々荷台を牽いていた老馬と同じ種族とは思えぬほど、立派で艶やかな若馬だった。
「ありがとう、マイク。本当にいいのか?」
ヤニスは、旅の仲間に加わった二頭の若馬を撫でながら尋ねた。
「ああ、当分狩りには出ないからな。
本当は俺も一緒に行きたいくらいだが、あと数日で対岸の連中が来る予定だ。
冬に備えて町の備蓄も整えなきゃいけないし、このご時世、戦士がいない町が何をされるか分からん。
が、俺が居れば、妙な気は起こすまい」
対岸の国・トロイとカテリーニの間には、まだ忘れ去るには早すぎる深い傷跡が残っていた。南の地で燻る戦火の噂も絶えない。
そんな状況を鑑みて、「そうだな」と、ヤニスは重たく頷いた。
老馬は、両側から二頭の若馬に頬ずりをされ、抗う余地もなく、どこか気怠そうにそれを受け入れていた。
カテリーニを後にし、ヤニスは三頭の馬を巧みに操り、急いで自分たちの町・ミリアを目指した。
本来なら、いくつかの集落を経由して二日かかる旅路。
しかしマイクから借りた二頭の若馬のおかげで、夜更けにはミリアに到着できる見込みだ。
唯一の問題は、自分の連れて来た老馬が、若い二頭の馬脚についていけるかどうかであった。
エーレは相変わらず荷台の上に座っていたが、往路とは違い揺れは激しく、乗り心地は最悪だった。
荷台の前端をしっかりと掴み、乗り出すように、父に向かって声をかけた。
「マイクおじさんが出会ったサテュロスと、お父さんが感じた嫌な予感って、同じものだと思う?」
ヤニスは器用に三頭の馬を扱いながら、小さく首を振った。
「分からん。
俺はなんとなく(もしかしたら、本格的な冬入り前に、もう一度物資の調達ができないかもしれない…)と思っただけだ。
今年は蜂蜜の出来が悪かったし、ただの心配性な俺の性分だろう。
だが、マイクが…、あいつが出会ったのは『実体』だ。不吉の予兆そのものだよ。
正直、今はミリアよりも、カテリーニの方が心配だ」
ヤニスとマイクは、幼い頃から訓練を共にした戦士仲間であった。
今の穏やかなヤニスからは想像しがたいが、以前エーレの前で「総合的な戦力ならヤニスの方が上だった」と、マイクは語っていた。
その話を聞いた時、ヤニスは「それは言い過ぎだ。娘が信じてしまったらどうする?」と照れていたが、心配せずともエーレはまるで信じていなかった。
エーレにとってヤニスは、厳格でありながらも優しく、不器用でありながらも愛おしい、『ただ一人の父』以外の何者でもない。
二人の不安をよそに、帰路は順調に進んでいった。
「よし、一気に山道へ入るぞ」
最後の集落も素通りし、ヤニスは手綱を強く握り直した。
道は一気に細くなり、馬車一台がやっとであった。
エーレも次第に見慣れた景色に安心感を覚え、不安はほとんど消えていた。
しかし、ひとつだけ拭いきれないものがあった。
今朝の夢だ。
夢の中で迫り来た影たちが、心の隅でじっと息を潜めているように感じられた。
(どうしても気になる……)
不思議とエーレは、夢の話を父に打ち明けることを決意した。
「あのね、お父さん。実は今朝、夢を見たんだけど……」
夢の話を語り始めた瞬間、エーレの中でぼんやりと残っていた影が、突如として膨れ上がった。
激しい頭痛。それに、嗅ぎ慣れない腐敗臭。
恐怖が全身を駆け巡り、視界が揺れてぼやける。
その時だ。
まるで魂が身体を抜け出し、上空から見下ろしているような感覚に襲われた。
夢の中で感じた感覚、そのまま。
俯瞰する視界の中、遠く先…、森の中から迫りくる無数の影が見えた。
(夢で見た影……)
やはり突然、エーレの魂は身体へと吸い戻された。
そして、エーレは咄嗟に大声を上げた。
「駄目! お父さん! さっきの集落へ引き返して!」
娘の大声にヤニスは驚き、手綱は乱れ、三頭の馬たちも出す脚を失って嘶いた。
「どうしたエーレ!?」
状況を全く理解できないヤニスは、必死に馬をなだめながら問いかける。
「お願い、早く! 早く引き返して!」
エーレは必死に懇願するが、次第に身体の力が抜けていく。
まるで夢の中の再現……。
不安は再び恐怖へと返り咲き、エーレの意識は揺らいでいった。
◆森の中へと導かれて◆
娘の身に何が起こっているのか…。
ヤニスは、荷台の上で項垂れるエーレに何度も問いかけたが、返答はなかった。
「いったい、何だって言うんだ!」
何も分からない状況に苛立ちながらも、娘の懇願に従い、ヤニスは馬車から飛び降りると、老馬に喋りかけた。
「《セピア》よ。道を引き返すぞ』
セピアと呼ばれた老馬は、ヤニスの意思を伝えるかのように、左右の若馬にそれぞれ頬ずりをした。
一方のヤニスは、馬車の後ろへと回り込むと、「ゔおおおお」と言葉にならぬ雄たけびを上げながら、尋常ならざる腕力で荷台の後輪を持ち上げ、前輪を軸に荷台を回し、それと同時に、三頭の馬はもと来た道へと指針を変えた。
馬車をどうにか反転させ、来た道を急いで戻る。
不穏な状況に、ヤニスは、昨晩マイクから聞かされたサテュロスの容姿を妄想した。
大きく渦巻く角、あのマイクをも脅かす表情、左右に細長い山羊の黒目……。
次の瞬間、森の木々が一斉にざわめき始めた。
依然として、何が起こっているのかは全く分からない。
それでも、何かが確実に迫っていることだけは感じ取れた。
娘にしか分からぬ『何か』。今エーレを苦しめている『何か』が…。
得体の知れない不安と恐怖に襲われながら、ヤニスは手綱を強く握りしめた。
そしてヤニスは初めて、無数の気配が馬車に向かって迫ってくるのをはっきりと感じ取った。
その気配が、盗賊や野生動物ではないと、ヤニスの中に眠る古い経験が警告を発していた。
輪郭の無い、生温い風のような…。
それはヤニスが、かつて一度だけ感じたことのある『死気』に似ていた。
(素通りした最後の集落からはかなり進んでしまった…。あとどれくらいで引き返せる……?)
頭を必死に働かせたが、逃げ切れる可能性は限りなく低かった。
迫りくる気配の速さが、明らかに尋常ではなかったからだ。
荷台の上で項垂れるエーレは、動かない身体に焦りを感じつつ、夢の中で経験した感覚をどうにか取り戻そうとしていた
(夢の中で影たちに襲われた時、一瞬だけ辺りを見渡せた。ついさっきも…。
魂が身体を抜けだす感覚。時間の流れも酷くゆっくりと感じられた…。
でも次には地面に倒れ込んで、何も分からなくなった。
あの時、いったいどうやって……)
「恐れるな」
突然、エーレの耳元で、夢の中と同じ声が響いた。
今回はまるで、今まさに耳元で囁いているかのように鮮明で、エーレは左肩に何者かの腕の温もりすら感じた。
勿論、実際にはあり得ない。
だがこの時、エーレの肩は確かに力を取り戻した。
「大丈夫だ。しっかりと見渡し、進路を見つけ出すのだ」
囁く声に導かれるように、エーレは目を瞑り、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
そして目を開けると、またしても周囲を俯瞰する視点に立っていた。
しかも、今度はさらに鮮明だった。
木々の葉脈にさえ微かな光の流れが感じ取れ、時は刻むのを忘れ、心は不思議なほど穏やかだった。
眼下には、全速力で駆ける馬車と、それを追う無数の影たち。
しかし、馬の鬣が流れる様も、懸命な父の手綱も、影の揺らぎも…、全てがゆっくりと見て取れた。
不意に、エーレは明るく眩い光源を見つけた。
森の奥から神々しく輝くアーチが伸び、道標のように、森の中へと導いている。
(あの光を辿れば……)
エーレが光の示す先を見つめたのと同時に、再びその魂は、必死で荷台に捕まる元の身体へと戻った。
エーレは今見て感じたことを、渾身の力で父の背中に叫んだ。
「お父さん、七本目の木! あそこを右に曲がって、森の中へ!」
背後から聞こえた娘の叫びに、ヤニスは安堵よりも絶望を感じた。
(この夕暮れ間近に、装備も持たない馬車で森に入れだと? 正気の沙汰ではない…)
一瞬、我が娘の正気を疑ったが、それでもヤニスは、自身も冷静ではいられない状況を悟り、賭けに出ることを決めた。
「ええい、ままよ!」
ヤニスは手綱を引き、娘の指示通り、馬車を右へと急転回させた。
ヤニスは驚愕した。
密集していたはずの森の木々が、まるで道を創り出すかのように歪み、馬車が進むための進路が、はっきりと現れていたのだ。
慌てて後ろを振り返ると、通ったはずの道は消え、当たり前のように木々が壁となり塞がれていた。
同時に、ヤニスは初めて、追いかけてくる影の姿を視認した。
透き通っているが透明ではない。
浮遊しながらも這うように進む、形容し難い存在。
顔や腕といった概念もない。
まず間違いなく『生命』ではない。
無数の影たちは、木々に遮られようとも意に関せず、器用に隙間を縫って追ってくる。
ただ一つ確信できたことがある。
森に入っても、得体の知れない影の速度は変わらなかった……。
喉を一度大きく鳴らし、ヤニスは正面に向き直った。
ひと呼吸の間にあらゆる感情を捨て、娘と森の木々が示す目の前の道を突き進むことだけに集中した。
◆招かれる者と招かれざる者◆
少しばかり時を戻し——
ケンタウルス・カロスは、岩山の頂から広大な森を見下ろし、真紅の鳥から告げられた不吉の予兆の実態を捉えていた。
それは南の平野から、中々の速さで北上し、自分たちの住まう森へと迫りつつあった。
(あれは何だ? 商人の馬車にしては早過ぎる。それにしても……)
彼の鋭い眼差しは、山道を進む一台の馬車に向けられていた。
カロスは人類の発明したこの乗り物を、心の底から嫌悪していた。
人間という未熟な生き物が、美しき馬を下僕のように扱い、荷車を引かせるなど…。
それはカロスにとって、見るに堪えないほどの醜悪な光景であった。
表情に不快の色を浮かべながらも、すぐに思考を切り替えた。
私怨を捨て、森の意思に耳を傾ける。
たとえ自分にとって馬車が忌むべき存在であったとしても、ただ山道を進んでいる限り、森にとっては珍しいことではない。
だが、真紅の鳥が警告した『不吉の予兆』は他にあるはずだった。
カロスは静かに目を閉じ、馬車を中心に森の気配を探った。
そして、すぐに『それ』を察知した。
(何故『奴ら』が森の中にいる?
しかも、この数に今まで気づかないとは……。いったい、どうなっている?)
思考が巡るより早く、カロスは岩山を駆け降り、気配の向かう先へ猛然と駆け出した。
カロスには、鬱蒼と生い茂る木々をかき分ける必要すらない。
彼の進む道は、自然と開かれていく。
森は当然のようにカロスを守護し、彼の進行を妨げるものは何一つなかった。
だが走るうち、胸には得体の知れぬ疑念が広がっていった。
(元来、『奴ら』が群れをなすことはない。
その上、人間の命など、『ひとつの影』で十分だ。
なのにこの数……。何が起きている?)
その時、不意に気配の流れが変わった。
カロスは即座に全身の筋肉を使って立ち止まり、再び目を閉じて森の声を聴いた。
両耳を大きくそばだて、あらゆる気配を拾う。
そして失望した。
(森が導いているだと? いったいどうなっている?
人間を載せた馬車に、森が道を築くなど…)
信じ難い事態に、カロスは激しく動揺した。
そして問う。
「森よ! 何をしている?
あの導きの光源の主は誰だ!?」
声を張り上げても、返答はなかった。
遠く森の奥の山から、気味の悪い木霊だけが響いた。
怒りを抑えきれず、カロスは再び駆け出した。
光源の主を突き止めるために。
◆◇◆
その頃、ヤニスとエーレはひたすらに森の中を駆け抜けていた。
道中、エーレを若馬の背に移し、ヤニスは老馬・セピアに跨り、腰に差していた短剣で荷台を切り離した。
貴重な物資ではあったが、我々が無事にミリアへ辿り着けないならば意味はない。
「このまま真っ直ぐ進んで良いのか?」
ヤニスはセピアを先導し、エーレを乗せた若馬に並んで問いかけた。
「ええ…。もうすぐ…、そんな気がするの……」
不思議な力の副作用なのか、エーレは言葉を吐くことすらままならないほどに衰弱していた。
娘の頼りない返事に、ヤニスは思わず声を荒げた。
「そんな気がするってお前…、ああクソ! 何なんだ全く!」
しかしすぐに父としての優しさを取り戻し、精一杯の声をかけた。
「とにかくしっかり捕まっていろ!
この道の先に女神様でもいるって言うなら、必ず連れて行ってやる!」
ヤニスが再度、目線を道へと向けたその時だった。
自らの進む先に、一つの影が現れた。
それは追ってきた影と同じようにも見えたが、その陰影は一段と濃く、禍々しさを増していた。
明らかに違うのは『腕』だ。
新たな影は、ヤニスたちの行く手を遮るように太い腕を伸ばし、ゆらゆらと不気味に待ち構えていた。
「クソ、前にもお出ましか。
優秀な軍師がついてるらしい…」
皮肉を呟きながら、ヤニスは影を睨んだ。
それでも冷静を保とうと、手綱を握る手に力がこもる。
◆狭間(はざま)の獣◆
影は微動だにしない。
ただそこに立ち、抱きしめようとでもするかの如く、ヤニスたちが訪れる時を待つ。
揺らめく輪郭だけが不規則に動き、自分たちが飲み込まれるような錯覚を覚える。
本能的な嫌悪がヤニスを刺した。
彼は悟った。
(あの影は、人智を超えている……)
そして、娘に託す。
「いいかエーレ、よく聞きなさい。
あの影と交差する瞬間、俺は馬を降りる。
お前は決して、影に触れるな。
姿勢を出来るだけ低くして、影を躱したらそのまま先へ進め。
俺を信じ、決して振り返るな」
虚ろな意識の中、エーレは大きく頷き、手綱を握り直した。
若馬の首に顔を埋め、姿勢を低く…。
次にヤニスは老馬の首に頬を寄せ、囁いた。
「セピアよ、お前も分かっているな?
俺がお前の背中を蹴ったら、影を避けてエーレを追え。
もう一頭の若馬も頼んだぞ。
…ひとまず、お別れだ」
この時ヤニスは、自らの死を覚悟していた。
歴戦の経験が告げていた。『あれ』には勝てない、と。
だが、娘が生き残れるならそれでいい。
ヤニスはセピアの背に立ち、短剣を握りしめた。
影との距離が縮まる。
そして、その時は訪れた。
「今だ!」
ヤニスが叫び、空へ跳んだ。
エーレの乗る若馬はヤニスの想いを受けたように身体を傾け、影の右側を駆け抜けた。
エーレは必死にしがみつき、影の腕をギリギリで躱した。
セピアはもう一頭の若馬に身体を激しくぶつけながら左へと退いた。
空中に独り取り残されたヤニスは、影がエーレを追うのを見た。
自分には興味がないのだ、と悟る。
(嫌な予感が当たりやがった。やはり狙いはエーレか…)
ヤニスは雄叫びを上げながら影へと落下した。
しかし理解していた。今まさに握りしめる短剣は、意味が無いことを。
振り下ろした短剣は空気を切るだけで、影を捉えない。
ヤニスの身体もまた、影をすり抜けて地面へと叩きつけられた。
視界が霞む。
落下の衝撃ではない。影をすり抜ける瞬間、生命力が吸い取られたのだ。
(やはりこいつは…、『死、そのもの』だ……)
影はヤニスに関心を示さず、ゆったりとエーレの後を追った。
ヤニスは最後の力で短剣を投げつけたが、やはり、虚しく影をすり抜けた。
揺れる視界の中、セピアが近づいてくる。
セピアは小さく嘶き、ヤニスの隣で脚を折った。
『友』を見捨てなかったのだ。
(全く…、最後の最後で逆らいやがって……)
ヤニスは心の中で語りかけた。
(お前も分かっていたんだろう?
あれは到底、人間如きが刃向かえる相手ではない。
後ろからの気配も消えない。間もなく我々は影に飲み込まれる。
せめて若い命たちが助かってくれれば……)
セピアはただ、ヤニスを見つめていた。
ヤニスが瞼を閉じかけたその時。
耳元で激しい炸裂音が弾けた。
蹄が大地を蹴る音。老馬ではあり得ない、圧倒的な地響き。
「ほう、『奴』に触れて息があるとは、大した人間だな」
頭上から聞こえた声。軽蔑と、どこか誠実さを併せ持つ。
新手の敵なのか、それとも味方なのか……。
ヤニスはうつ伏せに倒れこみながらも、現れた何かに喋りかけた。
「どうやら、俺は嫌われているようだが……、もし味方なら、俺の娘を……、助けてくれ……」
喋る度に、土が口の中に入ってきた。
それでもヤニスは、かすれた声を振り絞り、石のように固まる腕を伸ばし、エーレの進んだ方角を指した。
「俺は……、もういい。
だが……、この老馬は違う……。どうか、一緒に連れて行って……」
「黙れ、人間!」
怒りに満ちた声がそれを遮った。
次の瞬間、咆哮が森を揺るがし、背後の気配が散り散りに消えた。
救われたのかどうか、ヤニスには判断できなかった。
「私をここに呼んだのは、その勇敢なる馬だ。
この森の深くで無事に生き延びる事が出来るのであれば、その時は『セピア』に感謝するのだな」
吐き台詞を残し、重々しい振動が遠ざかる。
向かう先がエーレの方角であることに、何故かヤニスは安堵した。
セピアはヤニスの顔の横に頭を置いた。
老馬の温もりと呼吸に包まれながら、ヤニスは微かに微笑む。
(さっきの嘶きで、助けを呼んでくれていたのか……。
ありがとうセピア……。だが、少しだけ……、休ませてくれ……)
森の木々が、彼らを優しく包み込むように揺れていた。
◆憤怒の咆哮◆
カロスはさらに脚を速め、森の中を駆け抜けていた。
老馬の懇願に耳を傾け、少し遠回りした分を取り返そうと、鬼気迫る熱気を帯びて走る。
風すらも道を譲り、枝葉が両脇をすり抜ける。
ひとたび蹄が地を蹴れば、景色の方が置き去りにされていった。
森は今や、遥か先まで道を築いていた。
進む方角……。
この時すでにカロスは、自らの行き着く場所が分かっていた。
だが、それ故にこそ腑に落ちないものがあった。
彼を突き動かすのは、もはや自己陶酔ではない。
古の血に刻まれた守護者としての使命。
森を乱す者は、ケンタウルスの種族そのものへの挑戦に他ならない。
たとえそれが、『森の女神』であろうとも。
(大丈夫だ。森は依然、私の味方だ)
カロスは確信し、鋭い眼差しで遠くを捉えた。
疾走のさなかでありながら、既に矢を引き絞り、放つ瞬間を冷静に見極めていた。
◆◇◆
それより少し前。
エーレは、光を放つ泉に辿り着いていた。
泉は穏やかに水面を揺らし、その中央から伸びる光は、エーレが現れるのと同時にゆっくりと水中へ沈んでいった。
夢で見た湖とは違うが、常人でも分かるほどの慈愛に満ちた場所だった。
息を切らしたエーレは手綱を緩め、馬から転がり落ちるように降りた。
二頭の若馬は泉の反対側へ駆け去り、静寂が彼女を包む。
(ここが…、目的地……?)
しかし、安堵する間もなかった。
木々の陰から、大きな影がゆっくりと姿を現し、にじり寄ってくる。
(この場所は…、影を拒んでくれるの……?)
エーレは一瞬期待したが、それはすぐに砕けた。
影は変わらず、じりじりと彼女に迫っていた。
「泉に入りなさい」
『あの声』が耳に響いた。
エーレは残る僅かな力を振り絞り、泉へ走った。
足は恐怖で竦み、膝は笑い、泥濘に取られて前のめりに倒れる。
それでも這うようにして泉へ手を伸ばした。
「痛っ!」
エーレの指先が水面に触れた瞬間、鋭い痛み全身を駆け抜けた。
幾千の針を体中に突き刺された感覚。
泉は、明確にエーレを拒んだのだ。
絶望に涙ぐむ彼女に、謎の声は優しく囁いた。
「恐れるな。
憎悪や恐怖を抱えたままでは、この泉はお前を受け入れぬ。
邪念を捨てろ。ありのままであれ。
救いを求める手ではなく、ただ自然とそこにある泉を掴め」
意味は分からなかった。
だがエーレは祈るように呼吸を整え、心を静めた。
いつものように存在感を薄くし、弱々しい瞳で、『無』へ……。
そして、もう一度泉へと手を伸ばした。
今度は、冷たくも温かくもなく、泉はただ静かに彼女を包んだ。
エーレは、泉へ這うように身を捧げ、影から距離を取っていく。
泉は浅く、腰ほどの深さ。
水面から顔を上げて振り返ると、影はエーレを見失ったように足を止めていた。
辺りを彷徨うように、ゆら、ゆらと。
(泉には…、入れない……?)
脳裏に泉の効能が描き出されると同時に、一本の矢が音もなく、影を背後から射抜いた。
閃光が走り、影の輪郭が揺らぐ。
遅れて、シュパッと、弓矢が空気を切り裂く音が響く。
エーレが驚いた瞬間、森の奥から巨大なケンタウルスが飛び出した。
下半身は太く逞しい四本の馬脚。
その上にある上半身は、あのマイクを彷彿とさせる屈強な人間の体。
エーレの三倍はあろう巨躯(きょく)。
麻布の衣の下でも隠しきれない筋肉のうねり。
深く刻まれた顔立ち、左右には凛と立つ馬の耳。
後頭部から背中にかけて伸びる黄金色の鬣。
これ即ちカロスである。
眉間には深い皺、血管が浮き上がり、全身から怒気が漏れていた。
「レア!」
カロスが叫ぶと同時に、泉は空へ向けて水柱を噴き上げた。
荒々しい波紋がエーレを襲う。
影を射抜いた矢が空中で旋回し、カロスのもとへ戻る最中、水柱を通過し、矢は水を纏い、虹色の尾を描きながら再び影を貫き、そのままカロスの右手に戻った。
カロスは矢を逆手に持ち替え、二本の前脚で影を蹴り倒す。
その勢いのまま、大地ごと影の頭部へと突き刺した。
ほんの一瞬の出来事だった。
頭を矢で貫かれた影は淡く揺らぎ、霧のように薄れていく。
だが消え際、腕を伸ばしカロスの右肩を掴んだ。
「お前は……」
カロスの瞳に一瞬、恐怖が閃いた。
エーレはただ見つめることしかできなかった。
ケンタウルスの体から湧き上がった怒気が、赤黒い煙となって立ち昇る。
「消え失せろ!」
咆哮と共に影は霧散し、跡形もなく消えた……。
◆影と声の形◆
——カロスは自らの右肩を見つめながら、矢を大地へと突き刺した姿勢のまま、呼吸を整えるように沈黙していた。
そこには灰色の瘴気がまとわりつき、彼は大きく溜息をついた。
エーレもまた、その瘴気の揺らぎをはっきりと見ていた。
生まれて初めて目にするケンタウルス。敵か味方かも分からない。
しかし、純粋な想いが声となって漏れた。
「その肩…、大丈夫ですか?」
まさか瘴気が見えるかのような発言に、カロスは目を細め鋭い視線を返す。
しかしすぐに視線を外し、答えなかった。
今の彼には、他に優先すべき問題があった。
ゆっくりと立ち上がったカロスは泉に歩み寄りながら、誰に向けるでもなく語りかけた。
「さて、問おう。
我らケンタウルスの森に、人間はおろか『狭間(はざま)の獣』まで導き入れた光源の主は誰だ?
そして《女神レア》よ!
何故、その人間の娘を受け入れたのです?」
カロスの言葉が泉に響いた刹那、上空から小さな梟が現れ、エーレの肩へと舞い降りた。
エーレは驚きつつも、マイクの話に出てきた『あの梟』だと気付いた。
梟は大きな目をパチパチさせながら肩に落ち着く。
エーレは人差し指で軽く突き、梟は迷惑そうに右足をバタつかせた。
小さな梟の健気な抵抗に、エーレは小さく笑みを零した。
「わしだよ、カロス」
人差し指をあしらいながら、梟は平然と喋り始めた。
エーレは反射的に指を引っ込めた。
驚いた理由は喋ったからだけではない。
優しく温もり溢れる声色。
この声は、夢の中で…、そして先ほどまでエーレの耳元で囁き続けていた声だった。
カロスもその声に驚愕し、堂々としていた態度が一変した。
目を血走らせ、理解が追いつかぬまま、静かに頭を垂れる。
「《ケイロン》…さま……」
ケンタウルスが漏らしたその名を、エーレも知っていた。
幼いころ、絵本で読んだ名前。
『人類の救世主』にして『不死のケンタウルス』。
知恵と医薬の神にして、森の賢者・ケイロン。
だが今、その名を呼ばれたのは、自らの肩に乗ったほんの小さな梟である。
エーレは混乱しつつも、巨大なケンタウルスが愛らしい梟に頭を下げる光景に、思わず『にやけて』しまった。
しかし、カロスはエーレなど意に介さない。
険しい声で問いかけようとする。
「それならば、レアが泉を湧かせた理由は分かる。だが、なぜ……」
カロスの言葉を遮り、ケイロンは落ち着いた声で淡々と告げた。
「その問いの答えは、今しがたお前自身が感じたであろう、カロスよ。
お前の肩に宿った瘴気…。
それを植え付けた者が何者であるか」
図星を突かれ、カロスは険しい表情で名を吐く。
『ヘルメスの使者』
梟は愛らしく首を揺らして頷いた。
「流石のわしも、『この身体』では太刀打ちできん。
そこで仕方なく女神レアの手を借りたのだ。
お前が来ることも、当然分かっておったよ」
エーレは泉の水面が微かに揺れるのを感じた。
「では、なぜ……」
カロスが問いを続けようとしたが、それも許されず。
「カロスよ。お前が抱く疑問はこうであろう。
なぜわしが、人間を森に導いたのか。
なぜ狭間の獣が群れをなしたのか。
そして、なぜこの人間の娘が、レアの泉に触れてなお平然としていられるのか……」
カロスは息を呑む。
まさに抱いていた疑問の全て。
しかし一つも答えが返ってこない。
この会話はあまりに不公平だった。
梟・ケイロンは語り続ける。
「お前は昔から難しく考えすぎる。相変わらず頭が固い。
世界は繋がっている。そしてすべての疑問もまた繋がっている。
まずは結び、そこから紐解くのだ。
『奴ら』が狙っていたのは何だ?」
カロスはハッとし、泉に腰まで浸かり立ちすくむエーレの顔に視線を移した。
エーレは困惑し、震える瞳で見返した。
(私が…、狙われていた……?)
「しかしそれなら……」
カロスは言葉を区切り、ケイロンの意図を探る。
今度は、遮られず。ケイロンは静かに見つめ返すだけ。
カロスは疑問を最後まで口にした。
「それなら、なぜ狭間の獣だけでなく、ヘルメスの使者まで現れたのです?」
梟の瞳が鋭い光を帯びた。
「そのままの答えだよ。
『天』と『冥』が、この子を取り合っている。
この……、人間の娘を、だ」
カロスは瞳孔を大きく開いた。
エーレは頭の中が無数の『?』で埋め尽くされる。
Eclipse 〜日蝕〜 Episode 1.『森の中へと導かれて』 三軒長屋 与太郎 @sangennagaya_yotaro
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