とある男性の元に現れた『ゆめくい』と呼ばれる量子集合体に関する調査報告書。または記憶の断片。

@andro_dame

一晩: 夢路

 足音だけが、確かにあった。


 ヒールのない革靴が濡れたアスファルトを叩く。一拍一拍が夜の静寂の中で響く。


 だが、そこに奇妙なズレがある気がした。靴底が地面に触れる瞬間と、その乾いた音が鼓膜に届く瞬間の間に、コンマ数秒の空白が生じる。


 例えて言うなら、まるで昔の監視カメラの映像を見ているようだ。あるいは、衛星中継の不快な遅延。俺の知覚機能が焼き切れていなければ、この世界の方角が狂っている証拠だ。


 街灯も月もない。前方だけが青白く発光している。闇は無数の粒子で織られているようで、目を凝らすと視界の端がざらつく。書き割りの舞台装置のようでもあり、現像に失敗したフィルムの粒子のようでもある。


「それは」


「老眼というやつではないのか?」


 隣の影が、低く、ハスキーな声で言った。


「お前、もうちょっとオブラートに包んだ物言いをしろよ」


「すまないが、そういったオプションはやりたくないんだ」


 わざとらしく肩を竦める影が見えた。


「そこは『できない。』だろ?」


「そりゃ同期の中でお前だけ生き遅れるわけだ」


「まったく黙ってりゃいい面してんのによ」


 フンッ...と男が鼻で笑う。


 ここに少しばかりの沈黙が挿入された。


「逆に言えば」


 そして続く。


「『君たちが死に急いでいる』とも、解釈できるな」


「勝手に俺を殺すな、死に損ないめ」


 相変わらずの減らず口だ。男が呆れ、ため息をつく。


「なあ、一つ聞いていいか」


 彼女の影がいつの間にか俺と肩を並べ、歩いていた。金髪、長身。俺の相棒(バディ)だ。


 彼女はいつも淡々としているが、その内側には研究室にこもる学者のような冷徹さと、標的を探査する獣のような獰猛さが同居している。並んで歩くと、俺の視線と彼女の視線は、ほぼ水平に位置する。女にしては規格外の背丈だ。その等身が、俺にとっては頼もしい防壁でもあった。


「花婿は紹介できねえぞ」


 振り向かずに答える。皮肉交じりなトーンで返事をしたにもかかわらず、まるで安物のスピーカーを通したような、平坦な響きが自分の喉から発せられたことに、男は動揺した。自分の声が自分のものに思えないのだ。


 幸か不幸か彼女は男の変化に気付かず、とりとめのない話が続く。


「君の思う『男の夢』とは、何だ?」


 こいつは暇なのか?


 からかうように問われ、男は知らず口を開いた。


「女、だろ」


 バディは小さく笑った。あまりに能天気であるが、その能天気さに救われて、男も少し笑った。


 それは口の中を切ったときのような、鉄の味がする笑いだった。


「実に単純で結構」


「だが、夢くらいは高尚に見たらどうだね?」


「夢の中でくらいならな」


 言葉は軽いが、歩幅が揃いすぎていて不思議と気味が悪い。俺と背丈の変わらない彼女の足取りは、精巧な時計の針のように精確で、その足並みは、まるで振り子のように、等間隔で、一定のリズムを刻み続けていた。


 二日酔いだろうか。今日はどことなく気持が悪い。


「まあ」


「私は夢を見過ぎて、婚期を逃しているのだがな」


 そういい、彼女は寂しげに笑う。


 空気が気まずくなった。こいつはなぜこの話題を出したんだ。


「あーっと...」


「なんかすまねぇな」


「お前さんにもいつか来るぜ」


「その、『奇跡』ってもんがよ」


 口を開いた直後、自分が失礼な発言をしたことに気付いた。


 色々取り繕うとしてアタフタする男の様子を見て、彼女が微笑む。


「『奇跡』か......」


「あまりそういう存在を信じる主義ではないのだが......」


「君がそう言うのなら、いつか巡り廻って、来るのかもしれないな」


「いつか来るのを、楽しみに待っているとしよう」


「ありがとう」


 闇夜惑わす影のため、その表情はハッキリと伺い知れなかったが、男の目には、それは心から幸せそうな笑顔であるように映った。


 よくわからないがいい励ましになったようだ。それなりに長くいるが、こいつのツボはどうもわからん。さも悩みがないかのように飄々と振る舞うかと思えば、意外と引きずっていたり、今一つつかみどころのない、不思議な女だ。


「どうやら」


「現場に到着したようだね」


 彼女の声を聞き、ハッと顔を上げると、前方に、青白い箱が浮かんでいた。蛍光灯の寒色光が長方形に漏れて、コンクリートの建物を闇から切り取っている。近づくにつれ、ディテールが段階的に鮮明になっていく。のっぺりとした壁に、あとからシミやひび割れがペンで書き足されるような錯覚。


 ドアノブに触れた瞬間は滑らかだが、遅れて冷たさと錆のザラつきが指先に伝わる。蝶番がギィと悲鳴を上げ、俺たちは中へ滑り込む。


 湿ったコンクリート、舞い上がる埃、パイプ椅子の安っぽいビニール臭。そして、鼻の奥を突く薄い鉄錆と血の匂い。


『世界が匂いを取り戻した』


 そういって過言ではないほどに、内部に――特有の臭いが充満していた。


「夢の中で嗅覚が働くことはない。なぜなら夢は眼球の律動によって前頭葉に張られる、いわば一種の"ホログラム"でしかないのだから。」


 かつてこいつが俺に得意げに語った話の受け売りを信じるのなら、脳が作り出す幻影に匂いの情報は含まれないはずだ。だがここにある悪臭は、吐き気を催すほどに現実の重さを伴っていた。


「『君に座れ』と言っているぞ」


 耳元で囁くバディの声で我に返る。机と相対するよう置かれた中央のパイプ椅子に、少女が座っていた。そして目の前には、空席がちょうど一つ。パイプ椅子が、少女と向かい合うように置かれていた。


 黒髪が蛍光灯に濡れて光る。陶器のように白い肌。瞬かない瞳。周囲の風景がどこか粗い粒子でできているのに、彼女だけが異様なほど鮮明で、そこだけが確かな質量を持って存在している。


 明らかに変だ。「何かが」ではなく、「何もかもが」おかしい。異質な空間だ。


「……さながら『尋問室』ってところかね」


 男は内心の不安を煙草の煙のように吐き出し、ゆっくりと腰を下ろす。換気扇のブーンという音が低く響く。横目にバディが部屋の隅の椅子に腰かけ、腕を組み、監視するようにこちらをじっと見据える様子が見えた。


 その表情は抑制されているが、少女を見るその目は冷たく、それでいてなぜか獲物を見つけた時のように楽しげだ。目の端に浮かぶ昏い光が、男の心をざわつかせた。


 バディから向けられる視線を切るように、少女と向き合い、そして男は息を呑んだ。


 その少女の顔立ちに、強烈な既視感があったからだ。


 まだあどけなさを残した輪郭。少しおどおどとした上目遣い。それは、男が中学時代に初めて恋をし、十数年の歳月を経て今の妻となった女性の、昔の姿そのものだった。


 俺の記憶の底に眠る、最も無垢で、守るべき対象としての妻の原風景。それがなぜ、こんな薄汚い空間にいるんだ?


 少女が言った。声は短く、鋭い。


「ねえ、私と結婚してよ」


 世界が一拍、心停止した。


 返す言葉を探す間もなく、破裂音が鳴る。


 頭が跳ね、黒髪が剃るように舞い、赤が壁を汚す。血は床に染み込むことなく、水銀のように表面を滑っていった。時間が引き延ばされ、全てがスローモーションの惨劇として網膜に焼き付く。


 どこからかプツンと音が聞こえた。


 そして、視界が暗転し、次の瞬間、男はまたドアの前に立っていた。


 部屋は整っている。少女はまだいない。だが、嗅覚だけは裏切らない。硝煙、腐った甘さ、鉄──あの死の匂いが、鼻の奥にこびりついて離れない。


「何なんだ、これは......」


 俺は呻くように呟く。


 愕然とする俺の耳に、どこからか声が聞こえた。


「あれが『ゆめくい』だ。」


 そして、今までにないほど真剣な声色で、俺にこう告げた。


「君の夢が、誰かに侵食されている」

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