HOLA

バーニーマユミ

第1話

 場違いだと感じていた。ジャズが空気を酔わせ、程よい酒が提供され、お似合いの男女が睦まじそうに密やかに言葉を交わすーー場違いな場所に座ってしまったと、それはもうすぐにでも出てしまいたいぐらい感じていた。

 隣に座っている見知らぬ紳士はときおり、私の目を見ては微笑んでジャズの音色に耳を傾けていた。ただものではなさそうな手のひらは、私の太ももに置かれたまま、何の気もなさそうなそぶりで不躾に動いた。私はそれを跳ねのけたくとも、口に出すことはできずにいた。この見知らぬ紳士は私の時間を買ったからだ。

 数ヶ月前、無事に大学を卒業し、友人と思い切って初めての海外旅行に出た。行き先はアメリカ。着いたその日に地下鉄でパスポートとスマホを紛失。道を行く人に警察署の場所を尋ねていたら何がどうなったのか、いわゆる人身売買のヤツらに捕まったと気がついたときには全てが遅かった。友人の行方は分からない。どこかで生きているだろうが、私の見える範囲からは消えてしまった。

 英語は分かるがネイティブほどじゃない。他の言語はどうやら分かる人ーー同じような身の上の女性たちにはいるようだが、国籍はバラバラでアジア圏内の人も半分ぐらいはいそうに見受けられた。お互いに話すことはあまり認められていない。怪しい行動をとればひどい目に遭う。見せしめにたまに誰かが傷つけられた。誰も逃げやしないだろうに。これっぽっちの小銭すら持てない、身分証もない私たちに逃げる場所はないのだから。

 私は見知らぬ紳士に曖昧に笑みを返しながら、どうにかやり過ごそうとしていた。ジャズは分からない。目の前のテーブルに置かれた、きれいだけど危なそうなスリムなグラス。飲んだらどうなるか…これ以上最悪な環境に落ちるのは回避したい。でも飲ませようとしている気配は伝わっていた。絶対なにか入ってる。言葉がちゃんと理解できてなくても本能が警告してる。

 私は曖昧に笑いながら変な汗をかいていた。口の中が渇いてくる。紳士はグラスを勧めてくる。紳士はウィスキーらしきものをちびちびと飲んでいる。しきりに、勧めてくる。どうやったら飲まずに済むだろうか。いっそ、お手洗いに立つフリをして裏から逃げるかーーやめよう、この前それで撃たれた人を見たじゃないか。まだ死にたくはない。でももしかしたらただのカクテルとかかもしれない。アルコールは得意じゃないけど、それだけならさすがに死にはしないはず…でも何か混ざっていたら?ひとくち飲むフリをすればもう勧めてこないかもしれない。グラスを掴みかけたとき、だれかの指先がグラスに当たり、私のドレスを少し濡らした。

「おっと、これは失礼」

「ちゃんと見て歩け」

「すみませんお嬢さん、ドレスを汚してしまいました。こちらへ」

「お前、俺の」

「すぐにお連れしますよ」

 照明がギリギリまで落とされた店内、テーブルや座席の隙間を縫うようにやけに物言いの柔らかそうな男に手を引かれて手洗い場ーーその前で少し待つように言われ、すぐに濡らしたハンカチを持って男は戻って来た。

「あなたの名前は?お嬢さん、アメリカ人じゃなさそうだ」

「…」

「俺の名前はフリオ。英語は分かる?」

「…分かります」

「大丈夫、別にあなたに危害を加えるつもりはない。見てなかったかもしれないけど、さっきまでステージで歌ってたの、俺」

「そうなんですか?」

「そう、歌手なの、俺」

 おどけたふうに首をすくめて、フリオと名乗る人はドレスの濡れた箇所をぽんぽんと、濡らしたハンカチで叩いていた。

「ステージから見えたから、美人さんが」

 私は思わず笑ってしまって、そしたらホントだよ何で笑うの、と笑いながら言われた。思わず笑うの、いつぶりだろう。お腹がくすぐったかった。

「あの人はだれ?一緒にいた人。彼氏ではなさそう。違う?」

「お客さん」

「違ってたらごめんね、あなた夜の仕事の人には見えないんだけど」

「…あのお酒、飲んだら危なかった?」

「ん〜、まあそういうときもある。よし、ちょっとこっちおいで」

 手を引かれるがままに、細い廊下を通り楽屋のような控え室のような、衣装やら化粧台やらがある場所に連れられて入った。しーんとしていて、誰もいないようだった。

「怪しい人間じゃありません、って証明するものはないんだけど…何か困ってそうだから…」

「何から話していいのか…」

「お名前は?」

「リン」

「オッケー、リン、どこから来たの?」

「日本」

「うん、どうしてここにいるの?」

「…ぱ、パスポート失くしちゃっ…パスポート失くしちゃって友だちもどこか連れて行かれちゃって、スマホもないし、お、お金もないし…私、殺されちゃう…わ、」

「オッケー、オッケー、分かった、分かった。大丈夫、大丈夫。おいで、何もしない、大丈夫だから」

 化粧台に浅く腰をかけたフリオに近づくと、フリオは両手を広げおいでと言った。フリオはぼろぼろと涙が止まらなくなった私を優しく抱いて、しばらく何か歌いながら背中をさすってくれた。遠い記憶、母がしてくれたようなそんな優しい手をしていた。

「怖かったね、よく今まで頑張った。エライ。何も怪我はしてない?」

「してない…でもそろそろ戻らないと」

「戻ってどうするの?」

「戻らないと後で怒られる…殴られたくない」

「殴られるの?そりゃひどい。戻る必要ないよ」

「殴られる人も殺された人もいるよ、戻らなきゃ、遅かったら後で何があるか分からない」

「待って待って、大丈夫、戻らなくていい」

「だって」

「そんなこと聞いたら戻したくないよ、俺が。ここを出よう」

「え?」

「大使館に行って事情を話すんだ、一緒に行くから」

「大使館?」

「大丈夫、俺がいる」

 フリオはハンガーにかかっていたグレーのコートを私に着せて、表でタクシーを拾った。

 ずっと手を握ってくれていた。何から何まで手伝ってくれて、私は思っていたよりもすんなりと帰国できた。正直、大使館の存在は忘れてた。頭が回らなかった。

 後からフリオから聞かされた話、ステージから見て私はとても目立って見えていたらしい。あまりにもぎくしゃくして見えて、音楽を楽しんでいるふうでもないし、男になれているふうでもない、と。それでわざとグラスを引っかけたのだ、と言われた。ちょっと話でも聞いて助けて欲しそうだったらタクシーでも呼んであげようかと、そう声をかけたらしいけど、ここまでヘビーだとは思わなかったよ、とけらけら笑っていた。まあ、つまりやっぱりあの空間は私には場違いだった、ってことで。

 そんなフリオは今では私の彼氏で、会う人会う人に必ず馴れ初めを聞かれるもんでいつも困っている。本当の馴れ初めは、これ。

 それから一緒に旅行に行った友人は先に無事、帰国できてた。しばらく入院してたらしく気が回らなかった、ごめんね、と謝られた。悪いのはあんたじゃない、って言っといた。

 来月、ついにフリオが日本に来る。私の旦那さんになるために。

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