第5話 灰哭の谷へ
灰哭の谷は、地図の端に小さく記された禁域だった。
近づくだけで魔力が乱れ、
夜になると谷全体が灰色の霧に包まれるという。
「正直、嫌な予感しかしないわね」
谷を見下ろす崖の上で、リゼアが呟いた。
「同感。
でも、刻印の反応がある」
ミュゼは小さな水晶板を覗き込みながら答える。
刻印術師が使う測定具で、周囲の魔力の流れを感知する道具だ。
「……ここには、古い刻印が眠ってる。
しかも、かなり大規模」
俺は、無意識に荷袋の紐を握り直した。
禁域探索の依頼。
報酬は高いが、危険度も跳ね上がる。
それでも、この三人で受けると決めた。
「アルト」
リゼアが振り返る。
「怖い?」
正直に、頷いた。
「でも……行けます」
彼女は、満足そうに笑った。
「なら大丈夫。
あんたがそう言うなら」
谷へ降りると、空気が変わった。
肌に、ざらつくような違和感。
魔力が淀んでいる。
「隊列を確認するわ」
リゼアが即座に指示を出す。
「私が前。
アルトは中央、ミュゼは後ろ」
それは、自然な配置だった。
前で敵を引き受ける者。
全体を支える者。
状況を読む者。
誰も異論を挟まない。
しばらく進むと、魔物が現れた。
石のような皮膚を持つ、四足獣。
「来る!」
リゼアが剣を抜く。
俺は、迷わず荷袋を開いた。
刻印済みの革紐。
動きを補助する簡易符。
「リゼアさん、左脚に注意!」
「了解!」
彼女は即座に対応し、
魔物の動きを封じる。
ミュゼが詠唱を始めた。
「魔力収束――拘束陣、展開」
魔物の足元に、淡い光の輪が広がる。
完璧だった。
俺は、最後の一手を送る。
剣の柄に、刻印を結ぶ。
「今です!」
一閃。
魔物は、音もなく崩れ落ちた。
戦闘が終わり、
三人とも無言で息を整える。
「……ねえ」
ミュゼが、ぽつりと言った。
「気づいてる?」
「何が?」
「私たち、無駄な動きを一切してない」
リゼアが頷く。
「アルトがいるからね。
次に何が起こるか、分かる」
胸が、少しだけ熱くなる。
「俺は……」
言いかけて、言葉を止めた。
余計な謙遜はいらない。
「支えられてるわよ、私たち」
リゼアは、はっきりと言った。
「剣を振るのは私。
理屈を組むのはミュゼ。
でも、全体を生かしてるのは、あんた」
谷の奥で、巨大な石碑が姿を現す。
古代文字と、複雑な刻印。
「……やっぱり」
ミュゼが息を呑む。
「ここは、英雄を生む場所じゃない」
指で刻印をなぞりながら、続けた。
「英雄を“成立させる”場所よ」
俺は、石碑を見つめる。
胸の奥で、何かが静かに噛み合う。
前に立たなくてもいい。
剣を振らなくてもいい。
俺は、ここにいていい。
この三人なら――
きっと、生きて帰れる。
それが、初めて確信できた瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます