冗談

@Kuretose

冗談

人生に意味やら意義などない。何者かによって語られるそれらは、全て後付けに過ぎない。でなければ、我々が自由に生きることをお偉方が許すはずはないのだ。もし自らの人生に意味やら意義を持たせたいと思うのなら、どこぞの国へでも行って奴隷になることだ。逆説的に、自由を与えられない彼らの人生には意味も意義もあるということになる。つまり私は、そんなものはくだらないと考えているわけだ。それは枷であり、鎖であり、檻である。型に流し込まれ、焼き固められる菓子のような人間は哀れだ。無意味だからこそ、己の快不快のみを指針にして生きることができる。素晴らしいじゃないか!いつか聞いた、或いは目にしたこんな演説を頭の中で思い返しながら、私は往来を歩いていた。私はこの時分どこか体が悪いように感じる。心の方はずっと前から悪くなっているもんで、ついに体が悪い方に引っ張られ始めたのだろうか。いや、意味付けをする必要もなく、日頃の不摂生と出ずっぱりなこと、酒と煙草をよくのむことを考えれば、無理もないことだろう。赤ら顔に座った宿酔の目に映る空はまだ灰色で、冬至の凍風に酔いも冷めていく。風の強さに思わず目を瞑ると、僕の今日はたちどころに吹き飛ばされ、昨日に変わってしまった。裏路地に灯る赤提灯だけが、徒然と点灯していた。あの酒屋の店主のおっさんは、夕方ごろになると酔いかあるいは老いのせいか頼りない足取りで店から顔を出し、暖簾を出す。そして街が目を覚ます頃にあのおんぼろの店は主と共に死んだように眠る。家々はまだ寝静まっていて、昼間の活気溢れる生活の息吹はなく、静寂の寝息が聞こえるのみだった。行く宛てはなかった。ただ夜に一人きり、眠りとはぐれてしまったために彷徨う迷子に過ぎず、体がふらつくままに歩いた。私が心を悪くしたその原因には察しがついている。幼い時分の記憶、それが毎夜頭の中を蠅のように飛び回る。目まぐるしく変わる情景がいっそ走馬灯になり、ぱらぱらと頁を捲る脳が死んでしまえばいいとさえ思う。人格とは粘土細工のようなもので、形成段階でできた歪みは焼きあがってしまった後にはどうしようもない。あとはただ欠けていくだけだ。またこうした人格の欠如から生まれる漠然とした不安もまた、昼夜を問わず私に禅問答を投げかけてくるのであった。眠剤を調達するために医者にかかっているのだが、私は薬の無心をする度に、医者連中に何を話そうかと思い悩んでしまう。彼らは売人ではないのだから、ただ薬をくれと言ったって仕様がない。かといって私の人生をあの白衣を纏った案山子を相手に語るなど恥辱でしかない。決して理解など、まして共感など望めない。ただ症例として書留るだけで、彼らの心には一泊だってさせてくれはしない。そんなわけで私はええ、ええ、眠れなくて…ええ、不安、そうですね…などと呟き、気付けば彼らが代弁する表面のみを汲み取り重ねられたミルフィーユのような私の心情に、相槌を打つばかりになっている。そんな恥を代償として、私は二週間分のデエビゴを手にする。デエビゴとはなんだ、何て言う人間は不勉強だ。眠剤の一錠も飲んでいないような人間には理解し得ないだろう。なんて、不幸をアイデンティティにしてしまう性分が、ただ自他を気付つけるだけだということも理解している。幸福のしっぽをようやく掴んでも、それはトカゲのようにしっぽを切ってしまう。そんな諦めから来るニヒリズムが、気付けば私の自尊心の支柱になっていた。駅前の24時間営業のうどん屋に入り、温かい素うどんを頼む。熱々のお茶が飲める温度になるころにはうどんが作られる。器から伝わる熱が冷えた指先を温めていく。出汁の効いたつゆの旨味よりも、胃が温まることにありがたみを感じた。不思議に、こういった素朴なものの方が食への感謝を感じやすい。美しく飾られ、繊細に舌に奉仕するような食事にはむしろ、娯楽の意味を強く感じるせいだろうか。店を出て、駅から家へ帰る時分、朝日が寝ぼけた顔を出した。昼間の、真上から見下す無遠慮な日差しとは違う優しい暖かさを感じる。私は朝日が好きだ。ただ、彼と共に起きて、おはようを言い合えたなら、と思う。鳥の声が空に溶けていく。線路の軋む音。気付けば人の声がする。笑う制服が、僕とすれ違っていく。縛られているようで、しかし誰より自由に揺れている。軽い足取りで街並みを行く。あの足取りと、僕の千鳥足。決して交わることなくすれ違っていく。レース越しの朝日が白けさせる部屋の中で、私は薄い布団に身を隠した。僕は眠りにつく際、心の中でおやすみ、ではなくさよならと呟いてみる。眠ったまま目が覚めなければいいのに。朝を迎えることなく、終わってしまえばいいのにと無神論者ながら何かしらの神に祈る。死の安寧を思いながら、僕は気絶するように眠りについた。


僕は夢を見た。いや、追憶というべきか、それは私がまだ8歳ごろの記憶で、当時僕は父母と二人の姉、そして僕の5人で暮らしていた。裕福ではないが、生活に困ることはなかった。二階建ての一軒家で、30年程の住宅ローンと共に暮らしていた。周囲の家々が寝静まった時分に、僕は二階の寝室で微睡んでいた。二階には三つの部屋があり、思春期を迎えた二人の姉はそれぞれ個室があてがわれていたが、僕はまだそれほど自我を確立してはいなかった。三つのうち最も大きな部屋で、(これは今現在僕が借りている部屋と大差ないように記憶している。) 窓際から、父、僕、母の順に布団を並べ眠るのが常だった。普段は母が一緒に床に入ってくれるのだが、この日は先に寝ていてねと言われていた。ぼんやりと、階下の明かりが階段を伝い漏れ出ている。押し殺したような話声が耳に入っていたが、それは機械の低い駆動音のように聞こえた。次第に語気が強まり、それは機械ではなく人間の唸り声であると分かった。何の話をしているのだろう。僕には少し大きい分厚い布団から抜け出して、階段をゆっくりと下る。平生気にならない階段の軋む音が心音と重なり、やけにうるさく感じられた。子供ながらに、彼らに見つかってはいけないという察しはついていた。回り階段の中腹で、廊下の電球が目に映る。橙の温かい明かりが、チカチカと二度点滅した。左手にあるドアにそっと近づく。楽し気な笑い声が聞こえたが、どうやらテレビのバラエティ番組らしい。なにやら父が怒っている。母が泣いている。どんな言葉が交わされていたのか、今となっては記憶にないが、母が嗚咽と共に吐き出した、

「じゃあどうしたらいいの」という言葉だけが残っている。ドッと笑い声が雪崩れる。今度は気まずそうに聞こえた。僕は動けなくなった。このままここにいてはいずれ見つかってしまう。何より、怒鳴り声も、泣き声も、もう聞きたくない。僕の意思に反して、体は金縛りにあったように動かない。口の中が乾燥する。足が自分の一部ではなくなるような感覚に襲われる。笑い声、怒鳴り声、泣き声が洗濯機のようにぐるぐる回る。そのすべてが僕を責め立てるようで、僕は声が出せなかった。もういい、と父の声が聞こえ、チャラチャラと何か音がした。まずい、と思ったときには、目の前のドアが開いた。僕の心の防護壁が開かれたことで、乾燥した目から涙が零れた。父は怒りを張り付けた表情に、僅かに驚きを滲ませたが何も言わず僕の横を通り過ぎて外に出ていった。玄関の施錠音は夜間の張りつめた空気にはよく通る。きっと煙草を吸いに行ったのだろう。リビングで泣いている女に、一瞬僕は誰だろうと思った。母とよく似た肉の形をしているが、どこか別の生物に見えた。それが僕を見た。目が合うと、その顔は紛れもなく母だった。優し気で温かい普段の表情とは違い齢一桁の実子にして庇護欲を掻き立てるほどの弱り切った表情ではあったが、紛れもなく母だった。だが、母が顔を上げたその一瞬、薄皮一枚隔てた頭蓋の更にその奥に、何か異質な生物を見た気がしたのを覚えている。母は優しく私を抱き、寝よう、と一言云うと一緒に布団に入ってくれた。布団の中で、母は凍えるほどの寒さを凌ぐかのように僕を強く抱きしめていた。僕が眠ってしまった後、父が母子の隣で眠ったかどうかは定かではないが、翌日の夕方ごろ、彼は平生通り塩を練り固めたようなつまみで発泡酒を煽っていた。


目を開けると、私は一人だった。目に溜まっていた涙で目脂をこそぎ落とし水を飲むとまた布団に寝転がった。煙草を喫むと、吐いた煙がそぞろに立ち上り、気まずそうに停滞している。思い出して窓を開けてやると、おもむろにそちらへ流れていった。この嫌な気持ちと背汗を流すためシャワーを浴びようかと思うが、どうにも面倒くさい。お日様が目に入るが、あれは愛しの朝日ではないようで、すでに帰り支度を済ませこちらに背をむけた夕日であった。夕焼けは日で最も美しい時間であると思うが、それと同時にどうにも古い感傷が痛んでいけない。あの橙の灯りが、帰路を遊ぶ学童の声が、民家から香る夕食のにおいが、それらすべてが甘く郷愁を誘う。いつからかこのような悪夢、というか記憶の断片が睡眠中に再演されるのが常となった。日中を幸福に、前向きに過ごすことができた日であってもそれは変わらず、過去が錨を落とし海面へと浮上する私の足を引き、暗い憂鬱の底へと引き戻す。自然私は眠ることを恐れるようになり、また夜に一人きり目を閉じた際に夜這いに来る漠然とした不安や焦燥も相まって、不眠症に悩まされている。腹が減り、湯を沸かし薬局で200円で買える大盛焼きそばに熱湯を注ぐ。美味いことには美味いが、濃い味と多量のカロリーを流し込まれるだけのそれは、咀嚼する度に命が削れる音がする。僕の肝臓はいずれ人間フォアグラとしてお偉方に振舞われるんじゃないかしらと冗談。さて、濃い味、油とくれば当然ビールが欲しくなる。起きてから一時間と経っていないが、そんなことを気にする由もなく、冷蔵庫で冷やしているそれを流し込む。その後は日本酒を2.3合注げば、立派に酔っ払いである。このまま酔いつぶれてしまいたのだが、明日の朝10時からのアルバイトに備え、酩酊程度に自制する。僕はアパートを間借りしている千葉の最寄り駅から電車で30分ほど、銀座のレストランでウェイターをしている。銀座のレストランでウェイター、なんて自分でも笑ってしまう。白鳥の群れに立派なフォアグラをこさえた鴨が紛れているのはなんとも皮肉なものだが、根が陰鬱で、感情の関数に負の切片を持つ僕でも外面だけはどうにか取り繕う術を有しているため、清廉に白んだ世界から、排水溝めいた巣穴に餌を持ち帰ることができている。仕事内容は、客を席に案内し、注文を聞き、料理を運ぶ。後は皿を洗ったり、簡単なドリンクを作ったりする程度で、低能な僕でもなんとなくこなせているのだ。

翌日僕は朝の八時に起床した。中学の同級生に殺される夢を見た。悪夢ではあるが、所詮夢に過ぎぬので、記憶の再演よりもずっとマシだ。体感では、酔いが深くなる程後者に苛まれやすいように感じる。重い体を起こし、シャワーを浴びる。寝ぐせと、寝汗を落として、歯を磨く。髪の水気をタオルで吸い取りつつ、煙草を吸った。予定のある日の朝食は煙草と珈琲で済ませていた。服を着て、髪を乾かし整えれば、好青年、とまでは言わずとも、見たものに不快感を覚えさせず背景に紛れる程度には成り得ると自負している。平生の小汚さ、惨めったらしさが、いずれシャワーでは落ちぬほど肌の奥に染み込んでしまうのではという不安が、鏡の中の青年の目元に滲んでいた。駅までの道程は、少し長い。特段目に留まるほどの物もないが、通り道にある公園は夕方には沢山の母子で賑わい、通り過ぎる私の心にささくれをつくる。そこから少し行ったところの駐車場に放置されている車、おそらく90年代のMarKⅡで、いつも磨けば光る、と思っているが、僕には維持できるはずもないので、どうにか買い取れぬものかなど思案することもない。駅前の十字路に面してパン屋があり、いつも甘く優しい匂いがする。僕のようなものがあの清廉潔白な店の戸を開くなぞ行儀の悪い、と思い立ち寄ったことはない。僕が使う路線はそれほど混むことはなく、座席に座れることも割かしあるため電車での往復もあまり苦ではない。レストランの更衣室に入り、ただの白シャツみたいな制服に着替える。鏡に映るのはどこにでもいるアルバイト店員そのものであり、煙草の匂いはガムやスプレー等の消臭グッズでどうにか消せている、と思う。勤怠の打刻のためキッチンを横切る。2,3人のスタッフに挨拶をするが、古株で主だって料理を作っている真鯛みたいな面をしたおっさんは、仏頂面のまま低く唸るのみで、挨拶を返しているのかどうなのかも良く分からない。このけったいなおっさんは仕事中でも基本的に態度が悪く、とても中年社会人とは思えぬのだが、後に飲みの席で他の社員から聞いた話によれば、他所から飛ばされてきたというのだから納得である。打刻をし、誰一人まともに測ってはいない体温チェック表に出鱈目な平熱を記してホールのスタッフ二人に挨拶をする。時給が良く、仕事も苦ではないし、スタッフも基本的には人当たりが良くまともな人間であるため、ここの仕事は気に入っている。が、歪みなく美しい陶器のような自我を持つ彼らとは、根が歪んだ劣等感でできている僕とは所詮人種が違う、などと一歩引いてみてしまう。劣っているのは紛れもなくこちらなのだが、嫉妬や羨望を骨抜きにし、むしろ自らの不幸を誇るように皮肉を口にすることで自尊心を保っている。確かに彼らは努力を重ねている。だがそれは彼らの両親や環境といった盤石な土台の上で積み木遊びをしているのに過ぎず、支えもない中日銭を積み重ねては切り崩す賽の河原の住人めいた生き方をしてきた僕とは全く毛色が違うのだ。しかしそんなことを口には出せず、心の中で地下室の手記を綴りながら帳面に暮らしているのだ。六時間の勤務で約8000円を稼ぎ、帰路に就く。帰りの電車で揺られる人々は、皆疲れ切った顔でどうにかつり革に掴まり立っている。何も考えぬ葦となって、力なく電車に揺られている。歴史の本で語られる奴隷船と満員電車は、何ら違わぬように思えた。

最寄り駅につき、家を目指す。時刻は8時くらいで、寒空にほくろみたいに星が浮かんでいた。件の裏路地に、赤提灯の灯りが見えた。僕は街頭に群がる蛾のようにボロ屋に吸い込まれていった。カウンターが5席、ただ椅子と木のテーブルを置いただけの、即興屋台みたいな席が5つ。こじんまりとした店内には、二人組がいるだけだった。大学生だろうか、男二人、楽しそうに笑っている。奥から店主が声を掛けてくる。僕は馴染みの客になれているらしく、また誰か友人或いはそれに準ずる者と連れ立ってきたこともないので、何名様ですか、とも聞かずいらっしゃいと一言。これがなんだが寂しいような、うれしいような感じ。ビールの大きいのと、もつ煮、あと焼きはぼんじりせせりねぎま全部一本ずつ塩で。いつも通りの呪文を唱えると、おっさんがはいよと言ってビールとお通しを持ってくる。喉を鳴らしてげっぷを待つ間に、煙草に火をつける。こんな泡立った小便と草を燃やした煙が僕の人生において最大の幸福だった。嫌なことを考えないようにするには、脳みそを歪ませてしまえばいい。そうすれば自ずと心も麻痺していくのだから、酒が現実逃避の合理なのだ。

もつ煮も、後の三本の焼き鳥も、結局は塩と油であることが何より重要で、酒を飲むうえではその他の些事などビールによって流されていく。ビールを飲み切る内にこれらのつまみを平らげ、煙草を二本喫み、小便を垂れてから最後に一本。2000円おいて店を出る。これが常であった。一本目の煙草をもみ消した時分に、ふと大学生二人の会話が耳に入る。それらは皆聞くに堪えぬ下衆で笑いどころのないものだった。彼らの会話は女、もっと言えば女体に関することに終始していた。やれどんな女と交わっただの、あの子が煽情的だだの、風俗店のパネルを前に品定めをする中年めいたどろりとした思春期の熱は、冬の電車の暖房のように生暖かく空気を澱ませていた。

何も僕は女性を女体の付録のように扱うことを批判する訳ではなく、むしろ女性の生き方のくだらなさや、また女性を別種の生物として扱い、あまつさえ心の中に女神像を立ててその偶像に当てはまらない現実の女性を罵るような色さえ知らぬ醜い男共なぞを酷く軽蔑している訳で、むしろ彼らのような下衆に近しい存在なのだ。ただ一点僕が辛抱ならないことは、彼らの話に何ら面白みがないということだった。それは会話というより、まるでお互いが交互に攻守を交代して、自分を誇示し合いそれこそ女のようにくだらないマウントを取り合っているようにしか思えなかった。僕はつまらない人間が嫌いだ。自分であれば、今の話で一笑いくらいは作れたのに、なんて心の中で他人に講釈を垂れては、つまらない人間だというレッテルを貼り、それきり嫌ってしまう。人間の下地が自己嫌悪で塗り固めらている訳で、どうしても他人を好きになれない、というか、あえて好きになろうとしていない節が僕にはあった。

くだらない猿の喚き声を聞きながら煙草をもみ消し、今日は野犬よろしく電柱にでも小便をかけてやろうと思い立ち、2000円置いて店を出る。遠くから女達の甲高いキジみたいな笑い声が聞こえる。三日月が出ていた。口角の片側だけを上げ、薄暗い帰路を歩く。今夜は飲みたい気分だとコンビニによって紙パックの鬼殺しを買った。ストローを差して、紙の容器をぎゅっと握りつぶせば数秒で飲みきることができる。その後空になった容器を風船の要領で膨らませ、深く吸い込むとまるで気化したアルコールを吸ったように心地よく頭がくらりとする。あとは黍団子があればと思い立ち、ふと自らの股間に目をやる。膨張しきった膀胱が、必死に尿意を訴えていることを思い出した。自宅からさほど離れていない電柱が、小汚くておあつらえ向きだ、と思い、勢いよく小便を掛ける。先程まで飲んでいたそれと見分けがつかなかった。家に帰り寝る前にまた小便をしようとパンツに目をやると、おもらし未満、残尿以上に湿っていた。


その夜僕は夢を5つか、6つほど見た。これは僕が一度眠りについても1時間、酷いときには30分ほどで目が覚めてしまうが故のことで、また僕は眠りが非常に浅いことも相まってか、それら全てを覚えていた。父に言われた酷い言葉や、過去の、まるで父のようだったと悔いている自分自身の言葉などを、まるで過去と向き合えとでも言うように思い返されては頭の中を反芻する。僕が地元の方言を嫌う理由は、きっと父を想起させるからなのだと、最近そう思う。翌日、酒のせいで痛む頭を抱えながら、また僕はアルバイトに出掛けた。バイト先の女が、にこやかに挨拶をしてくる。一つ年下の彼女は、僕に対しても親し気に接してくれる。話の流れでそれとなく聞いたことだが、彼の両親は人格者で、かつ成功者でもあるらしく、無償の愛を一心に受けて彼女は育ったそうだ。そんな彼女もまた両親のことを尊敬しているらしい。自尊心の防衛反応によって反吐が出そうだったが、僕は一つ、意地の悪い好奇心を持つようになっていた。汚してみたい。彼女の両親が後生大事に育て上げた健康な肉体を、薄汚い消耗品の女体へと堕落させ、精神も醜業婦のそれに白濁させ染め上げてしまいたい。彼女の体中を巡る清流のような血液に、たったの一滴、僕の汚れた血を混ぜこんでみれば、彼女の美貌も少しは損なわれるのだろうか。少し毛穴が開いたり、白く華奢な足がむくんだりするのだろうか。僕の寝る前の自慰行為に使われる妄想の中での彼女は、恥ずかしげもなく裸体をベッドの上に投げ出し、蛇のように艶めかしく僕の体にまとわりついては、蝶のように僕の精根を搾り取って何処かへ消えていく。そして果てた後のざらっとする喪失感に現実に引き戻されて僕の胸には、蜂に刺されたような痛みだけが残る。あんな景色が現実にあるのなら、どんなに素晴らしいだろうか。バイト終わり、帰りの時間が彼女と被っていた。時刻は6時。少しの下心と、現実的思考に空腹感を詰め込んだ感情で、彼女に言う。「飯いかない?」

「いいですよ」と彼女は笑う。案外、僕への健康的な好意が感じられた。近くのファミレスに入った。僕はなんとかハンバーグを、彼女はパスタかスパゲッティか、そのあたりの麺を頼んでいた。他愛もない話をしていた。僕は会話が得意な自負があった。相手が話したいことを話させ、欲しい言葉を答え、自分の考えや感性を聞かれた際には相手に同調するように、近しい答えを口にする。僕はこれだけに徹した。自分が話したいことは話せないし、嘘とまでは言わないが、自分のなかにほんのわずかに存在する程度の感情を、さも自分自身を象徴するかのように誇って見せたりもする。つまらないし、疲れるだけだから平生こんなくだらないことはしたくないのだが、今は彼女との距離を縮めたかった。ただ身体的な距離を縮めるために、心の距離を近づけていった。リズムゲームみたいに、彼女の話に相槌を打った。この前食べたなんとかが、この前友達といったどっかしら、パパのなんちゃらおべんちゃら。裏拍みたいに挟まる僕の相槌やら笑い声。女に媚びを売る男の姿は子気味よくしっぽを振り続ける犬のようで、自分自身を俯瞰し醜いと思った。彼女は僕をよく好いてくれているように感じた。飯を食い終わり、店を出ると、外は暗くなっていた。冗談めかして飲みに誘うと、どうやら承諾されたようだった。まさかこんなに上手くいくとはという気持ちと裏腹に、僕は彼女に対して落胆してしまった。僕のことが好きなのだとすれば、こんな薄っぺらな、根が野蛮にしかし矮小にできている男を選ぶような見る目のない女ということであるし、そうでないとすれば、誰にだってなびくような尻も頭も軽い下女ということである。なんだか僕が彼女にみた美しい影絵の実像を見てしまったような、どこまでも深く澄んだ水たまりの底に手をついてしまったような感じ。とはいえ女と酒が飲める。あわよくば楚夢雨雲。隣を歩く彼女のスカートのひらひらに、僕の劣情が揺れる。僕の頭の中に、脳みその代わりに詰まった海綿体が、パンパンに膨らんでいた。バイト先の近くにも、いくつか小綺麗で人を連れていくのに適した居酒屋を知っていた。暖簾をくぐると、店主と思しき男性が何名様、と声を掛けてくる。二名です、と答えテーブル席に座ると、彼女にメニューを差し出した。僕は大体ビールしか飲まないし、つまみも頼むものが決まっているので、メニューは酔い覚ましに眺めるものでしかなかった。彼女はカクテルみたいな甘いのを飲んでいた。げっぷを口内で殺しながら、彼女の話を聞いていた。彼女の言葉に、僕が相槌を打つ。自我とかないの?おもんない、甘えんなよクソガキ。そんな気持ちを濾過して、言葉を通して捻じ曲げる。優しいよね。いいなあ、頑張ってるね。彼女の飲んでいるコンドーム位の薄さのそれよりも甘ったるい言葉が、げっぷを破裂させた口内からこぼれ出る。酒の味も、彼女の言葉も、殆どはアルコールと共に溶けて小便として水に流されたが、自分の口から出るでまかせの浅ましさだけを覚えていた。頬を赤らめた彼女の指が僕の指に触れる。ここまで来たらあとはもう全部前戯みたいなもので、彼女を家に連れ帰った。シャワーを浴び、缶の酒を数本開けたり映画をちらと除いたりなぞのお約束を済ませ、手狭なベッドに入った。彼女の柔肌の温もりは、思い描いていたより無感動なもので、春先の陽光のように夢想したそれは、駅の安蛍光灯の発熱に過ぎなかった。ベッドの上裸体を投げ出す彼女は蛇などではなく、人ひとり分の重さを持った肉袋であった。僕の精根を吸い出そうとする彼女に蝶のような優美さや軽やかさはなく、使い古された掃除機のようだった。僕は自らの中指を体温計替わりに彼女の中の温度を確かめ、0コンマ数ミリを隔て交わった。みすぼらしく快楽を貪り、情けなく嬌声を漏らす肉欲や劣情の糞袋が、昼になれば街を歩きしゃらくさい料理を運び笑顔を振りまいている。僕が性行為をやめられないのは、単調な快楽によるものではなく、よがる女の姿に慰めや安寧を感じるからだと思った。その夜は抱き合ったまま、泥のように眠り、夢は見なかった。瞼の裏で、彼女の裸体を思い描いてみると、それが艶めかしく踊ることはなく、芋虫のように鈍重にのたうち回るだけだった。


心臓の痛みに目が覚めると、空はまだ灰色で、空気が冷たかった。この頃なにやら内臓が痛むことがある。それは決まって酒を飲んでいるときか、若しくはその翌日の早朝であるため、原因は明白であり、またその深刻さについても鈍い頭でなんとなく察しているのだが、病気は医者が認めた瞬間病気になるという屁理屈をこねて、知らんぷりを続けていた。腕の中に温かさを感じる。女が隣で寝息を立てていた。尿意を催し便器の前に立つが、朝立ちした愚息がそっぽ向いているせいで出そうにも仕様がない。隣に女が居ようと居まいと、彼は項垂れることなく向日葵のように毎朝日に顔を向ける。項垂れる僕とはよく目が合うが、その度に愛らしさと憎たらしさで加虐心が湧く。レースに濾過された日光に背を向け、眩しそうに目を細めながらおはよう、と女が言う。寝起きの唸るような音だった。キッチンで煙草を吸う僕のもとにおもむろに近づくと、僕を素通りして水を飲んだ。今日学校だから、と彼女は身支度を始める。洗面台に置かれたクレンジングオイルと、乳液だけが妙に女の影を落としているらしく、事実いつぞやの即席彼女が置いて行ったものなのだが、それを彼女は目ざとく見つけ、鏡越しに僕と目が合うと怪訝そうな顔をした。あ、使うんだ、とは言わなかった。彼女が家を出た後、広くなったベッドに寝転がりどうしたものかと考えていた。あくまで妄想に過ぎないと思っていたし、その後のことなど頭になかった。こんなときの展開は大抵僕がまるで強姦魔のようにまことしやかに噂され非難されるか、もしくはそれを脅しに仄めかせ交際を迫られるかの二択であった。面倒なことになってしまった。コミュニケイト嫌いというわけではないが、体力に乏しい僕は少しでも面倒があるとたちまち閉口してしまい、そのコミュニティから逃げ出してしまう。むやみに作り、そして放ってしまった友人が今までにいくらもいた。それが今の僕の友人の少ないことの原因なのだが、どうも僕は根が個人主義にできているようで、そう多くの交友関係を維持し続けることができないのだ。それなのに寂しがり屋でもあるため、孤独に耐えかねた夜に手を伸ばす先が酒になったわけである。彼女は友人らに僕のことを話すだろうか、話すとして、どのように?下卑た遊び人か運命の人か、それとも盛りのついた畜生か。なんだか心がそわそわして、そぞろに本屋へ向かった。読書というのも、余計なことを考えないために有効な手段で、あわよくばなにかしら情動的なものに出会えればもうけもの。文豪と呼ばれる人間の本はあらかた目を通してしまったし、お気に入りの著者も最近ぽっくり逝ってしまった。既に緩やかな自殺をしているような男で、だからこそ書ける遺書めいた純文学にこそ惹かれた訳ではあったが、やはり好いた人間の死は悲しまずにはいられない。先述の現実逃避を抜きにしても、僕は読書が好きだった。ミステリやSFといった面白いお話も読むには読むが、最も愛したのは私小説や純文学だった。創作物というのは全て感情を伝える媒体に過ぎない。その点において文章、言葉というのは、感情を五感で捉えられるよう変換するうえで、最も純度を損ねない媒体であると思う。僕含め凡人には、湧き出た感情を濾過の逆のような工程を繰り返し、嬉しいだとか悲しいだとかの単調に記号化された不純物としてしか発露することができないが、正しく濾過するように感情を砂金のように輝かせてくれるのが文章家なのだ。贔屓の作家というものが居なくなってしまったため、適当に目についた本を手に取り、近くの喫茶店に入った。平日の昼間の喫茶店では肌に染み付いたヤニを全て落とせば白人だったのではと思えるほどに体の芯から煙草の匂いがする老人達が、ぽつりぽつりと新聞を読みながら煙を吐いていた。僕も珈琲を頼み、倣うように火をつけた。本の方は、特に面白くもない、若い活気が溢れる、強引に背中を押すどころか首根っこ掴んで連れていかれるような話であった。耳障りのいい言葉がびっしりと書き連ねられ、目障りで堪らなかった。崖の縁に立たされた人間の背中を押すことなど自殺ほう助に過ぎず、僕らが望むのはただ隣に座り背中をさすってくれることなのだが、輝かしい道の先の地平線を見据える彼らには理解し得ないのだろう。客の入りが乏しいことをいいことに、時々珈琲と灰皿の変えを頼みつつ、昼頃まで喫茶店に居座っていた。回りを見るとおそらく先程の老人達と思われるが、新聞やら本の頁を捲る時にだけ、ゆっくりと震える指先が動く。ただ煙が立ち上るだけのそれらの大筒は、煙突かあるいはすでに彼らの葬儀が執り行われているかのように思えた。

昼下がりにすることもなし、立ち飲み屋が目に入ったが、先刻の胸の痛みを思い出し、せめて今日はと思いとどまった。結局僕は本屋へと踵を返し、適当に3,4冊手に取りまた喫茶店に入った。先程の喫茶店に行くのはなんだが気恥ずかしいと思い、別の店へ足を運んだ。別にただ本が読めて煙草を吸えるのならどこだってよく、メニューもまともに見ることがないくらい喫茶店にこだわりはなかった。ただ、以前本を読もうと立ち寄った店で、席に着き灰皿に目をやった際にそれが電子タバコ専用の箱のような代物だと気付き、しぶしぶ冷たい珈琲を頼み、ぐいと飲み干して店を変えたことがあるくらいで、今回はそんな心配も必要なさそうだった。客層も先程の店とさして変わりはなく、相変わらず黄色い壁が出迎えてくれる。今度の本らも、特筆することはなく凡庸で時間を潰すか尻についた糞をふき取る以外には用途のないものだったが、女性作家による女性特有の感情を綴ったものには学びがあった。男の主観には矮小に映る彼女らの人生にも、彼女達なりの美学があり、意義もあるのだ。むしろそういった強かさは、野蛮な男には持ちえないものだと思う。皮肉じゃなく、とりわけ尊敬するのが、化粧という彼女ら独自の習性なのだが、無論彼女らは少なからず社会からそれを強いられており、そもそも女性特有のもの全般に関して社会に対し論じたい何かしらの腹積もりがあるやもしれぬことは承知の上だが、ここでは一旦そういったことは化粧台の隅にでも置いておいて頂きたい。さて、化粧をするため、彼女らは毎朝のように自分の顔を注視する。きっと多くはそこに美しさと誇り、そして醜さと恥も見出すのだろう。そしてそれらの美点を磨くため、それらの汚点を隠すためまるで大工のように日々技術を磨き、様々な道具を駆使する。僕には到底こんなことはできないだろうと思う。たとえ薄皮一枚に過ぎぬのだとしても、すれ違う人々の目に入るであろう自分のコンプレックスを見つめねばならぬことなど辱めに近い。それに化粧によってどれほど美しく繕えたとしても、それは化粧を落とした時の落胆を増すだけの行為のように思えてしまう。彼女達からすれば、毎日のように自らの心の前に鏡を立てかけ、じっとそれを見つめ続ける僕のほうがよっぽどマゾヒストに思えるのだろうか。本を読み終え店を後にするころには夕焼けが郷愁を運んできた。帰り道、通りかかった公園から、男児の泣く声が聞こえた。それは救急車のサイレンのように、耳障りで、助けを呼ぶという点で合理的な信号であって、彼が欲する母親よりも先に僕の心をきつく締め付けた。子供の泣き声には耐えがたいものがある。単に不快な周波数だからというわけではなく、ありきたりな同情から来るわけでもなく、あの小さな体躯の後ろに伸びた影の中に、在りし日の自分を投影するのだ。泣いている。彼を通して、あの日の僕自身を救うことができれば、どれほどよかったことか。母親はすぐ近くにいたようで、彼は泣き止み、母に手を引かれて歩いていった。僕が自らを投影した影は、母親のそれに塗りつぶされていた。僕の心は堪らなくなっていた。孤独や寂しさ、郷愁や悔恨それら全てが目を閉じるまでもなく走馬灯のように目の前を染めて広がる。この世界も結局は心によって映し出される影絵に過ぎないのだ。平生美しいと思われたものも、意地悪く姿を変えてしまう。家に帰るや否や酒を流し込んだ。心の内から体を突き破らんばかりに沸き立つ感情の全てを、麦芽の濁流で押し流してしまいたかった。酒は胃より早く脳幹に達しているような感じがした。飲んでも飲んでも、体中の毛穴から鬱感情が溢れ出し僕を覆うようだった。鯨飲し、もはや指揮官としての威厳を失った脳は赤子のように視界を揺らし楽しんでいた。夜と共に酒が深くなり、千鳥足がもがれ一人派手に転ぶ。すると心臓に、締め付けるかのような痛みが走った。呼吸する度に肺に痛みが走り、脈拍はさあ終幕だと言わんばかりに速まった。立ち上がろうにも平衡感覚が失われ、重力に負けるように僕は床に伏した。これまでにもこのような痛みに襲われることはあったが、今度のそれは一段と激しく、思考のみがただ冷静になる。痛みは腹部にも広がり、肝臓が沈黙を破った。かの臓器には、これまでずっと僕の憂鬱や不安やらを流し込み、それら全てを水に流してしまうべく尿に変えさせてきたが、そのあまりの酷使ぶりについに堪忍袋の緒が切れてしまったようだった。僕はもはや伸ばす先を失った右腕を、ただ虚しくピンと前へと伸ばし切った。それは虫が死に際に見せる痙攣のように思えた。ぼんやりと、ただフローリングの溝に溜まった埃をあみだくじみたいに指でなぞっていた。気持ち悪い。鯨のように飲み込んだこれまでの色々が、全て逆流してくるようだった。喉に熱さを感じ、嘔吐する。胃液とアルコールの匂いが混じり、鼻腔を指す。すきっ腹に酒をぶちこんだせいか、それは固形物を含まない僅かに粘性を帯びたカウパーのような様相で、フローリングの溝へ流れ込み埃を飲み込んでいった。被海難救護者のように嗚咽が止まらず、吐瀉物が水たまりを作る。やがて胃の内臓物を吐きつくしてもなおその嘔吐の形骸らしき痙攣は続き、申し訳程度に少量の胃液のみを吐き続けていた。生理的反応から、涙が溢れる。ふと気付くと、肛門から腸液のみがこぼれたような水下痢が飛び出し、ズボンの後ろが生暖かく湿っていた。僕は幼年期以来の、受動的な死の予感を感じ、身震いする。僕は現に人生を緩やかな自殺と捉え、仮に一切の痛みを伴わず死ぬことの出来る安楽死のような方法があれば迷わず飛びつくが、しかし首つりといった現実的かつ能動的な方法は一度やり切ることなく失敗して以来まるっきり気概が湧かない程度の中途半端な自殺志願者(生存辞退者とでも言うべきなのかもしれない)であって、根が甘く、怠慢に出来ているのだ。平生は死の安寧を願っていた僕は、これまで何ら信仰心を示してこなかった名も顔も知らぬ神に祈った。死にたくない。どうか助けてくれ。ふと天啓のように、なんとも皮肉なものだ、と思い立つ。頭の中の皮肉屋は、その口先を僕にまで向けるようになっていた。「ざまあねえや、日頃偉そうな講釈垂れて、人に意地汚い言葉を吐いていたお前が、這いつくばって糞尿を垂れ、ゲロを吐き散らかしている。これには皮肉屋達の口角も三日月様みたいになるだろうよ。」こんな自虐を思いついたのだが、読み返してみればなんともまあ笑えない話である。付け加えておくが、思いついたといってもこれは僕の実体験であり、またこのまま死んでしまえるほど人生は作劇的ではなく、今なお生き恥を晒している。

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