氷鉄の女上司が、週末の堤防で「アジが一匹も釣れない」と泣きそうになっていたのは、もはや社内ラブコメ案件でしかない

いぬがみとうま

これは、もはや社内ラブコメ案件だとおもう

「相馬くん。この報告書、3ページのグラフの目盛り設定が1ミリずれているわ。……やり直し」


「あ、すみません。すぐ修正します」


 目の前で冷徹な宣告を下したのは、九条玲華(くじょう れいか)課長。僕の直属の上司だ。


 一切の無駄を削ぎ落としたタイトなスーツ。眼鏡の奥で鋭く光る瞳。隙のない夜会巻き。社内では「氷鉄の女」「歩く処刑台」などと揶揄される彼女だけれど、仕事の正確さとスピードは他の追随を許さない。彼女に睨まれると、新卒の僕なんて心臓が止まるかと思うほどのプレッシャーを感じる。


 けれど。僕は、彼女が書類を突き出してきたその「指先」から目が離せなかった。


(まただ……。やっぱり、左手の人差し指と親指に絆創膏)


 先週の月曜日もそうだった。それに加えて、彼女の周囲に漂う「香り」が、いつもの高級なブランド香水とは少し違う。スパイシーなトップノートに混じって、ほんのりと潮の香りがする。


「……何か言いたいことでもあるのかしら?」

「いえ、なんでもありません! 失礼します!」


 逃げるようにデスクに戻ると、隣の席の佐藤先輩がニヤニヤしながら小声で話しかけてきた。


「相馬、また課長に詰められてたな。あの絆創膏、社内じゃ『彼氏との料理練習で包丁使い損ねた』って説が濃厚だぜ? あの氷鉄様がデレる相手なんて想像もつかないけどな」


「……料理、ですか」


 僕はあいまいに頷いた。でも、僕の読みは違う。

 僕は、こう見えて釣り歴十五年のベテランだ。あの傷の位置。絆創膏が擦れている場所。あれは、細いPEライン――釣り糸とリーダーとなるフロロカーボンのノット――結び目で締め込むときに、指に食い込んでできる傷の典型だ。併せて、あの香水の奥に隠れた潮の残り香。


(まさかな。あの課長が、釣りなんて泥臭い、もとい潮くさいレジャーをするはずがない)


 僕の観察眼は、釣りの「アタリ」を待つときに培われたものだ。海面の揺らぎ、糸の震え、魚のわずかな食い気を感じ取る。その鋭すぎる感覚が、目の前の完璧な上司の「隠し事」を捉えて離さなかった。




 土曜日。僕は始発の電車に揺られ、都心から少し離れた小さな漁港の堤防にいた。

 ここは地元の釣り人しか知らない穴場で、今の時期は良型のアジが回ってくる。クーラーボックスを椅子代わりに、のんびりと竿を出す。これこそが僕にとって最高の週末だ。


「……ううっ。なんで、なんで絡まるのよ……」


 十メートルほど離れた堤防の角。そこに、場違いなオーラを放つ女性がいた。

 最新鋭のシマノのハイエンドロッドに、ステラのリール。道具だけで軽く二十万円は超えているだろう。服装も、有名アウトドアブランドの新作でガチガチに固めている。けれど、その広いツバの帽子とサングラス、マスクで顔を隠した彼女の様子は、お世辞にも「ガチ」とは呼べなかった。


「もう……説明動画だと、こうして回して、くぐらせるだけって言ってたのに……っ」


 彼女の手元では、細いラインが複雑に絡まり合い、まるで鳥の巣のようになっている。いわゆる「バックラッシュ」や、」おまつり」の類だ。しかも、彼女の指先は絆創膏だらけ。ぷるぷると震える手で、必死に絡まった糸を解こうとしている姿は、どこか見覚えがあった。


(……いやいや。そんな偶然があるわけ……)


 確信を得るために、僕は彼女の風下へと移動した。風に乗って流れてきたのは、潮の香りと、嗅ぎ覚えのあるスパイシーな香水の香り。


「……あ」


 間違いなかった。あの「氷鉄の女」九条課長だ。

 会社でのあの凛とした姿はどこへやら、今の彼女は、糸一本に翻弄されて半泣きになっている、ただの不器用な女性だった。


「あの、よろしければお手伝いしましょうか?」


 僕は努めて自然に、見知らぬ釣り人を装って声をかけた。九条課長はビクッと肩を震わせ、こちらを振り返る。サングラス越しでも、彼女の瞳が潤んでいるのが分かった。


「……いえ。結構です。自分でできます。これは、計画の一部ですから」


「でも、その状態だと解くのに一時間はかかりますよ。ハサミで切って結び直したほうが早いです」


「結び……直し? そんなの、もっと無理よ。動画で見ても全然できないのに……」


 ついに彼女の声が弱々しくなった。どうやら限界だったらしい。僕は彼女のロッドを預かり、手際よく絡まったラインをカットする。続けて、慣れた手つきでリーダーとPEラインを結んでいく。


「すごい……。あなたの指、魔法みたいに動くわね」


 課長が感嘆の声を漏らす。彼女は僕が部下の相馬であることに気づいていないようだ。それもそうか。僕の釣りモードの服装は、日光が目に入らないように深くキャップを被り、偏光グラスもかけているから。


「ただの釣りバカですから」と僕は笑いながら、数秒でノットを完成させた。


「はい、できました。これならもう大丈夫ですよ」


「ありがとう。あの、実は私……部下と仲良くなりたくて、釣りを始めたんです」


「部下と、ですか?」


 僕は驚きを隠して聞き返した。彼女は堤防に腰を下ろし、消え入りそうな声で続けた。


「私、昔から不器用で……。仕事で厳しくするしか、自分の居場所を作る方法を知らなかったの。でも、最近入った部下の子が、履歴書の趣味欄に『釣り』って書いていて。もし私が釣りをマスターして、彼を誘えたら……もっと、普通の上司みたいに話せるんじゃないかって」


 彼女は自分の絆創膏だらけの指を見つめた。


「でも、ダメね。アジ一匹どころか、糸を結ぶことすらできない。これじゃ月曜日、彼に合わせる顔がないわ……」


 不覚にも、胸の奥がキュンと鳴った。あの冷徹な叱責も、厳しい指導も。その裏側には、こんなにも不器用で、いじらしいまでの「努力」が隠れていたなんて。月曜日の絆創膏は、僕と話すために深夜まで糸を弄んでいた証拠だったのだ。




「……なら、今日は僕がその『練習』に付き合いますよ」

「えっ? でも、あなたに迷惑じゃ……」

「いいんです。僕も、誰かに教えるのは好きですから。それに、その『部下の子』も、課ち……あなたが頑張っていることを知ったら、きっと喜ぶと思います」


 僕は彼女の隣に座り、サビキ釣りの基本を教え始めた。竿の持ち方、コマセ――餌の詰め方、棚の取り方。九条課長は、会議のときよりも真剣な表情で、僕の言葉を一言も漏らさぬよう頷いている。


「あ、アタリですよ。竿先を見てください。ググッときたら、軽く合わせて」


「え、ええっ? ど、どうすればいいの!? 竿が、竿が暴れてるわ!」


「落ち着いて。ゆっくり巻いてください。そう、そのまま」


 海面から上がってきたのは、十数センチほどの綺麗な銀色のアジだった。


「釣れた……! 私、本当に釣れたわ!」


 サングラスをずらし、彼女は満面の笑みを浮かべた。会社では絶対に見せない、少女のような無邪気な笑顔。その輝きに、僕の心臓の鼓動が跳ね上がる。


「見てください、師匠! 私にもできました!」


「はい。おめでとうございます、課ち――」


 思わず口から出そうになった「課長」という言葉を飲み込み、僕は彼女と一緒に獲物を眺めた。その後、彼女はコツを掴んだのか、ポツポツとアジを釣り上げ、そのたびに「やったわ!」「また釣れました!」とはしゃいでいた。


 夕暮れ時、彼女は名残惜しそうに海を見つめて言った。


「なんだか、不思議ね。会社ではあんなに怖がられている私が、ここでは一人の『初心者』として、あなたに助けられている」


「釣り場では、役職なんて関係ありませんから」


「ふふ、そうね。……ありがとう、師匠。月曜日、彼を誘う勇気が少しだけ湧いてきたわ」


 彼女は深々と頭を下げ、軽やかな足取りで堤防を後にした。その背中を見送りながら、僕は複雑な気分だった。


(……さて。月曜日、どうやって彼女を迎えるべきか)




 週明けの月曜日。九条課長は、いつもの「氷鉄」の仮面を被って出社してきた。

 背筋をピンと伸ばし、ヒールの音を響かせて廊下を歩く。デスクに座る僕の横を通り過ぎる際、彼女は一瞬だけ足を止め、ツンとした態度で書類を置いた。


「相馬くん。この企画書、詰めが甘いわよ。午後の会議までに修正して私のデスクに持ってきなさい」


「……はい。承知しました」


 相変わらずの厳しさだ。けれど、僕は見逃さなかった。彼女の左手に、昨日よりも少しだけ増えた新しい絆創膏があることを。さらに、彼女が僕と目を合わせたとき、わずかに頬が赤らんだことを。


 午後の休み時間。僕は修正した書類を手に、課長席へと向かった。周囲に人がいないことを確認し、僕は彼女に書類を差し出す。


「課長、修正が終わりました。……それと、この数字の整合性ですが」


「ええ、聞くわ」


 彼女は冷徹な表情を崩さず、僕を見上げる。僕は少しだけ身を乗り出し、彼女にしか聞こえない小声で囁いた。


「次は、このデータの結びつきを……『FGノット』くらい、強固にしておきますね」


 その瞬間。九条課長の動きが、完全に停止した。

 眼鏡の奥の瞳がこれ以上ないほど見開かれ、手に持っていたペンが机に転がる。


「……えっ?」


「昨日のアジ、美味しそうでしたね。あ、それと。あのハイエンドモデルのロッド、ドラグが少し強すぎたので、次は調整して差し上げますよ。……ね、『師匠』より」


「――ッ!!!」


 九条課長の顔が、一瞬にして沸騰したかのように真っ赤に染まった。彼女は椅子を鳴らして立ち上がり、あたふたと周囲を見回す。クールな「氷鉄の女」の面影は微塵もない。


「ま、まさか……あ、あの時の……嘘、嘘でしょ!? 私、あんな、あんな恥ずかしいことを……っ!」


「部下と仲良くなりたいって話、感動しました。僕も、課長と釣りに行けるのを楽しみにしてますから」


 僕はニヤリと勝利の笑みを浮かべた。彼女は震える手で顔を覆い、蚊の鳴くような声で言った。


「……気づいて、たのね」


「最初から気づいてましたよ。……今度、もっと簡単なノット――結び方、教えましょうか? 課長」


 九条課長は、涙目になりながらも、小さく、けれどしっかりと頷いた。


「……お願い、します。……あと、仕事が終わったら、屋上に来なさい。……徹底的に、口止め料の交渉をするわよ」


 そう言って、彼女は慌てて書類で顔を隠した。その隙間から見える耳まで真っ赤な彼女を見て、僕は確信する。これからの月曜日は、今までで一番楽しみな曜日になりそうだ。


 何しろ僕には、会社で一番不器用で、一番可愛い「釣り仲間」ができたのだから。



――

カクヨムコンテスト11(短編)にエントリーしております。

応援お願いします。


率直なご評価をいただければ幸いです。

★★★ 面白かった

★★  まぁまぁだった

★   つまらなかった

☆   読む価値なし


  ↓↓↓   ↓↓↓

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷鉄の女上司が、週末の堤防で「アジが一匹も釣れない」と泣きそうになっていたのは、もはや社内ラブコメ案件でしかない いぬがみとうま @tomainugami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画