死神と、鬼ごっこ

ぴのこ

死神と、鬼ごっこ

 昇り出した太陽から放たれる淡い光で、俺は目を覚ました。黒々とした夜空はいつの間にか色が薄まり、朝日で照らされた濃紺色に変わっている。

 朝靄あさもやに白ずむ公園のベンチに俺は座っていた。熱帯夜を歩き回ることに疲れ、少しだけ休憩するつもりが数時間も眠ってしまっていたらしい。

 公園の時計に目を向けると、時計の針は午前五時十分を指していた。始発の電車が既に動き出した頃だ。

 俺は慌てて辺りを見回す。“あいつ”が来ていないかどうかが気がかりだった。

 ジャージ姿で体操をしている老人や、犬の散歩をしている中年の女の姿が公園にはあった。

 その奥に、黒い影がひとつある。公園の端にいるその影は、ゆっくりとした動きで俺のほうに向かってくる。

 真っ黒なローブで全身を覆った、人の胴体をふたつ繋げたみたいに異様な長身の化け物だ。フードの中の闇に、白いペストマスクのような仮面が浮いている。


「ちくしょう来やがった……!」


 俺は弾かれるようにベンチから立ち上がり、公園の外へと一目散に駆け出す。

 危ないところだった。あと少しでも目を覚ますのが遅ければ、あいつに追いつかれていた。


 死神に、殺されるところだった。



 とにかく金が無い。

 糞みたいなパワハラ上司に怒鳴られる日々が嫌で逃げるように仕事を辞めてから、次の仕事が全く見つからない。大した資格も持っていない上、職歴もひどく短いものが一つだけの男なんて、雇う価値が無いと見なされるんだろう。それは俺としても納得できる面はあるが、だからといって怨嗟えんさが消えるわけでもない。

 俺は前職時代の貯金を切り崩して酒を買っては昼間から家で飲んだくれる、最低の日々を送っていた。自炊ができないため食事を全て外食で済ませているせいで、貯金は目減りしていく一方だ。

 極力外出を控えて部屋でじっとしているべきではあるのだが、今日は外に出ないわけにはいかない。冷蔵庫の酒をうっかりと切らしてしまっていたからだ。酒を買いに行かなくはならない。酒が無くては不安に苛まれてどうにもならなくなる。

 ついでに駅前でラーメンでも食べようかと思いながら財布を握りしめる。Tシャツに短パンのラフな格好のまま玄関ドアを開け、夏の日差しの下に出ようとした時だった。

 この世のものとは思えない何かが、目の前に立っていた。


「やあ、死にそうな顔をしているねえ」


 俺は叫び声を上げそうになった。外に出た途端、身長三メートル近い奴が俺を見下ろしていたのだ。口から心臓が飛び出るような錯覚を抱きもする。

 そいつは七月下旬には不似合いな黒いフード付きのローブで全身を包んでいて、顔面にあたる位置にはペストマスクに似た白い仮面が浮かんでいる。“浮かんでいる”と表現したのは、ローブの中にあるべきはずの胴体が見えず、ただ夜空を切り取ったような漆黒の闇があるだけだからだ。

 驚愕と恐怖でしばらくの間硬直していた俺は、やっとの思いで声を絞り出した。


「なん……お前……なんだよ……?」

「死神さあ」


 男だか女だかも判別できないような声色で、そいつは死神と名乗った。くひっ、くひっと喉をひくつかせるような笑みが仮面の内側から漏れる。


「し、死神……?嘘だろ、おい。俺は……死ぬのか……?お前に殺されるのか……?」


 死神の答えに、俺の恐怖は勢いを強めた。そのはずだったのに、なるほど死神と言われれば納得できる風貌をしている、などと場違いに冷静な思考も同時に浮かんできたのが奇妙だった。


「私がこの場で殺すわけじゃないさあ。君はこのまま行けば、お金が無くなってどうにもならなくなり自ら首を括る。そんな末路を辿るというだけだねえ」


 愉快げな笑みを絶やさずに、死神は間延びした口調で滔々とうとうと語る。死神が指摘した俺の行く末に、なんら反論が浮かばないことが腹立たしい。


「それなら……俺が死ぬ時に現れればいい話じゃねえか。残り少ないとはいえ俺にはまだ貯金はあるんだぞ。どうして今来たんだよ?」

「なあに、君を助けてあげようと思ってねえ」

「……助け?」


 死神という化け物の言葉であっても、“助け”という響きは追い詰められた俺にとっては甘露かんろのように感じられた。否応なしに期待が心の奥底から立ち上る。


「君の先祖が変わり者でねえ。やしろを作って、死神をまつってくれたんだ。そのお礼として、彼の子孫がとことんまで落ちぶれたら一度だけ助けてあげようと私は決めていた。それが君ってわけさあ」


 とことんまで落ちぶれたと死神にまで言われるのはしゃくに障ったが、これもその通りだから返す言葉も無い。俺は黙って死神の話を聞いていた。


「ただ、先祖の功徳くどくはあくまで先祖のもの。子孫の君の行いじゃあない。だから助けるといっても、与えるのはあくまでチャンスだ。それを掴めるかどうかは君次第さあ」

「……俺に何かさせようってことか?」


 警戒心を隠さないまま尋ねた俺に、死神はまたも不気味な笑い声をこぼした。仮面が微かに下方へ動く。首肯したのだとわかった。


「簡単なゲームだよお。鬼ごっこをして、君が勝ったら大金の在り処を教えてあげるからねえ」

「おい待て、なんで死神が金のある場所なんか知ってるんだ?」

「なんでも何も、死神だからに決まっているじゃないか。金持ちがどこでいつ死ぬか、死神には全てお見通しだ。君の近所ではそうだねえ、二週間後の八月十日の二十二時五分、大量の現金をタンスに入れている独居老人が心臓発作で死ぬよお」


 死神は、なんでもないことを語るかのように人の死を予言してみせた。俺の背筋に冷たいものが走る。


「その家に行って、誰にも見咎められないうちにお金を持ってくればいい。鍵は特別に開けてあげよう。地獄の沙汰も金次第だなんて言うけれど、結局あの世にお金は持っていけないんだからねえ。構いやしないだろうよ」

「……お前が言う、ゲームってのはなんなんだ。鬼ごっこって言ってたな?」


 俺は単刀直入に切り込んだ。他にも気になることは山ほどあったが、とにかく今は金を得られる手段が知りたくて仕方なかった。

 死神のローブの中の闇が、動いた気配があった。何も見えないにもかかわらず、なぜか俺は一本の指がぴんと立てられるところを幻視してしまう。


「一週間さあ」


 黒々とした闇に身を隠したまま、死神は恬然てんぜんと語る。


「今から一週間の間、私はゆっくりと君を追いかけ続ける。人間がふつうに歩くよりも少し遅いくらいかねえ。けれど決して止まらず、壁もすり抜けて、海にも沈まず、常に同じ速さで君めがけて真っ直ぐに進む。一週間経っても君が私に追いつかれなければ君の勝ちさあ」

「追いつかれたら……?」

「死ぬね」


 俺の喉から、掠れた喘鳴ぜんめいのような呼気が漏れた。死神はゆっくりと身をかがめながら、続く言葉を発する。


「いいじゃあないか。このまま暮らしていても、どのみち近いうちに死ぬんだからねえ。そもそも人間なんていつかは死ぬんだ。死なんて、大した問題じゃないと思うがねえ」


 死神らしい価値観で結構なことだ。化け物め、と俺は心の中で舌打ちを零す。当然、恐ろしくて言葉にはできない。

 腰を曲げた死神が、俺の顔を覗き込むように仮面を眼前に近づけた。黙りこくったままの俺に、粘ついた声が語りかける。


「さあどうする。やるかい?一応言っておくけれど、私の心配なら無用だよお。死神に疲れは無いからねえ。まあ、君が嫌だと言うなら大人しく帰るけれど」


 死神が喋るたびに、仮面の内側から冷気が漏れ出して顔面の肌を撫でる。もし死人が呼吸をしていれば、息はちょうどこのくらいの温度かと思う。

 俺は逡巡しゅんじゅんした。四六時中こいつに追われ続けるなんて冗談じゃない。一か所に長時間留まることができない以上、家にもいられなくなるし、まとまった睡眠も難しいだろう。飛行機に乗って遠くに逃げられれば良いかもしれないが、俺にそんな金は無い。せいぜい電車に乗って逃げるくらいだ。

 だが、たった一週間の辛抱だ。この鬼ごっこに勝てば大金が手に入るのだ。これは命をチップにしたギャンブルのようなもの。頑張り次第で一発逆転を狙えると思えば決して悪い条件じゃない。

 ほぞを固める。俺は力強く頷いた。


「……やる。一週間後に、また会おうじゃねえか」


 俺の答えに、死神は唇を吊り上げた。そう感じた。仮面の奥から、唾液が粘つくような音が聞こえたためだ。

 その音が鳴り止むと同時に、愉しげな声が響く。


「いぃぃぃち……にぃぃぃ……さぁぁぁん……」


 のんびりと、一秒を三倍ほどに引き延ばしたようなカウントが始まった。まるで幼い子どもが友達と遊ぶ時に言うような。

 十までか二十までかわからないが、とにかくこのカウントが終わると同時に死神は動き出すのだろうと悟った。俺は急いで駆け出し、その場から走り去る。

 ようやく死神の声が聞こえなくなった頃、俺は重要なことにやっと気づいた。


 鬼ごっこは、鬼がどこにいるかわからない時が一番怖いのだと。




 駅前まで無我夢中で走り、コンビニに入って一息つく。入り口横のイートインスペースにふらふらと向かい、椅子にどかりと座り込んだ。運動を止めた途端に全身から汗が噴き出る。店内の冷房が、Tシャツに染み込んだ汗を冷やして否応なしに体温を奪う。

 俺は荒い呼吸を吐き出しながら、脳裏をよぎった不安を零すように呟いた。


「……いつまで、ここにいても大丈夫なんだよ」


 あの死神は、今この時にも俺がいる場所へと向かってきているのだ。このまま悠長に休憩を続けていれば、いずれは追いつかれる。しかし具体的にあと何分ほど休んでいていいのかが不透明であることが、俺の心をささくれ立たせた。

 人間の徒歩の速度よりも少し遅い程度の速さで追いかけると、死神は言っていた。今にして思えば、それほど遅いなら問題無いという油断もあった気がする。そもそも死神の言葉が本当かどうかも疑わしいのに。

 今になってようやく、死神の誘いに乗ってしまったことを俺は後悔し始めた。いつもそうだ。ゴミのような会社に就職を決めてしまった時も、衝動的に仕事を辞めてしまった時も、俺はよく考えずに目先の思いに囚われて決断してしまう。そうして人生を台無しにする。

 苛立ちが募る。不安が心を苛む。この椅子にただ座っていることすら俺は恐ろしくなり、何かに急かされるように立ち上がった。


「酒……酒を飲まないと……」


 俺は冷蔵ケースの前へと歩を進めた。最も度数の高いチューハイのロング缶をケースから取り出し、レジへと向かう。店員と顔を合わせたくなんかないのに、酒はセルフレジでは買えないことがひどく不愉快に感じた。

 会計を済ませてコンビニを出ると、俺はその場で缶を開けてチューハイをあおる。内容量の三分の一ほどをひと口で飲んでしまった。

 腹にアルコールの熱さが広がる。それから間を置かずして、胃がぎゅるりと音を立てた。虚無感を孕んだ痛みが、泣き喚くかのように胃をねじる。思わず片手を腹に当てた。


「ははっ……こんな状況でも、腹は減るってか」


 腹を襲った違和感の正体が空腹であると、俺はすぐに悟った。そういえば朝から何も食べていなかったのだ。酒を買いに行った先で昼食を摂ろうと思っていたところで、死神に出くわして食事のことを考えるどころではなくなった。

 後ろをちらちらと振り返りつつ、早足に南へと歩を進める。俺のアパートとは真逆の方向だ。買ったチューハイを飲み干す頃には、俺は目的のラーメン屋に到着していた。

 ここは七百五十円でしっかりした醤油ラーメンが食べられる上、大ライスが無料で付いてくるコスパ抜群の店だ。この駅の近くにはかつての行きつけだった創作ラーメン店が二軒あるのだが、どちらも高級な店で一食で二千円以上も飛んでしまうため仕事を辞めて以降は行けていない。創作ラーメンが好物の俺であるが、今となってはこの店の看板メニューをリピートする暮らしを余儀なくされている。

 俺は券売機に小銭を投入し、出てきた食券を受け取り口へと持って行った。


「ライスの量は大盛りで?」

「もちろん」


 食券を渡しに行くと、店員は微笑みながらいつも通りの対応をした。彼は俺のオーダーを覚えているのだ。

 席につき、窓から外を眺めながらラーメンの完成を待つ。この店は提供が早いほうだ。だが今日の俺は、一分一秒に苛立って仕方なかった。焦燥しょうそうが湧き立つ。無意識にテーブルを爪で叩いてしまう。こうしている間にも、あの死神が俺の元に向かっているのだから。

 少しの後、ようやく店員から声がかかった。俺は受け取り口へと向かい、注文した商品を取りに行く。たっぷりと盛られたライスの隣で、ラーメンの表面を覆うラードが天井の光を受けて煌めいている。脂がスープの蓋をしているような、こってりとした醤油ラーメンだ。 俺は席に戻ると、逸る気持ちを抑えながら箸を割る。きっとスープを口に含めば、今日も豚骨をはじめとする重厚なダシ感とラードの甘みが舌を刺激するのだろう。

 俺はネギとチャーシューを箸で掻き分け、スープから麺を引き出す。湯気が立ち上る麺に、ふうふうと息をかける。麺がほどよく冷めたところで、箸を動かして一気にすすった。

 今日も素晴らしく美味い。つるつると滑らかなすすり心地の麺はスープのダシ感をしっかりと運んでくれるし、噛むと豊かな小麦の風味が広がって文句の付けようがない食感だ。一緒にチャーシューを噛めば、肉の旨味が口いっぱいに広がって充足感が凄まじいことになる。

 満ち足りた気持ちで咀嚼そしゃくしながら、丼から視線を外して窓の向こうを見た時だった。


 死神が、窓のすぐそばを歩いていた。


 口内に残っていた麺と肉を一気に噴き出す。滅茶苦茶な有り様になった丼と、窓の外とに交互に視線を注ぎながら俺は後ずさるように立ち上がった。そのままラーメンをほとんど食べないまま、俺は店の外へと駆け出す。俺の異様な様子に店員が声を上げたのが聞こえたが、彼に構っている余裕は無かった。死神から逃れるべく、ただひたすら走る以外のことは考えられなかった。


「はあっ……っざけんなよクソ……!」


 自宅から走ってコンビニに寄り、その後にあの店へ向かってラーメンを食べるまでに何分かかっただろう。それは徒歩よりもゆっくりと移動すると話していた死神が俺の近くまで辿り着くに見合った時間だっただろうか。わからない。酒による脳の鈍りで、時間感覚が曖昧だった。

 とにかく酒のせいで危ない目に遭った以上は、これから酒を飲むわけにはいかない。少なくとも死神との鬼ごっこがある一週間のうちは。

 酒を抜いても不安と焦燥に耐えきれるだろうか。苛立ちと怨嗟を理性で抑えきれるだろうか。そもそも眠れるだろうか。

 何も安心できなかった。何もかもが恐ろしくて仕方なかった。

 ただ、何にも脅かされずぐっすりと眠りたいと強く願った。



「や~ごめんね!お兄さんちょっといい?職務質問っていうかね、体調悪そうだから心配でさ!」


 鬼ごっこが始まってから、四日目だか五日目だか。早くも日数さえ曖昧になってきた日の朝、雑居ビルが立ち並ぶ通りで俺は二人組の警官たちに呼び止められた。公園で夜通し眠りこけて、死神に追いつかれそうになった後のことだ。

 目の下にひどいくまを作った痩身の男がふらふらと歩いていたのだ。薬物中毒者か何かと疑われたのだろう。


「ああ……これ免許証で……体調は大丈夫です……ただ最近よく眠れてないんですよ。隈はそのせいで……」


 身分証の提示を求められれば素直に応じ、体調について問われれば正直に答える。それでも警官たちは俺を解放してくれなかった。あくまで違法薬物の使用を疑っているのか、交番での尿検査を促してくる。

 よせば良かったものを、交番の方角はどちらですかなどと聞いてしまったせいで彼らの疑いはますます強まったようだ。死神がやって来る方角だけは行けないなどと言っては、いよいよ面倒なことになる。

 焦慮しょうりょに駆られる。こんなことをしている暇は無いのに。嘆息しながら、俺がその方角に目を向けた時だった。


 あの死神が、警官の背後に見えた。


 俺は全身をバネにしたかのように駆け出す。二人の警官たちは制圧を試みて追いかけてきたが、不思議と俺には追いつかない。こんながりがりに痩せた男が訓練された警官を振り切れるのが、我ながら不思議だった。これが火事場の馬鹿力というやつか。命がかかった状況では、人間は限界をはるかに超えた力を引き出せるのか。

 やがて警官たちから完全に逃げおおせると、俺は大きく息を吐いた。


「ここから離れたほうが……良いよなあ……?」


 職務質問中の警官から逃げた不審者の情報は、既に警察内で共有されているだろう。このエリアに留まり続けることは危険だ。大人数の警官に囲まれて逃げきれなくなれば、今度こそ死神に追いつかれて取り殺されるかもしれない。

 俺はできる限り裏道を使い、隣の駅へと急ぎ足で向かった。死神の姿も警官の姿も見えないのを確認してから改札をくぐる。

 電光掲示板を見ると、この場を離れるのに都合のいい電車がちょうどやって来る時間のようだった。俺は階段を駆け上り、ホームへと急ぐ。ちょうど俺が階段の上に辿り着いた時、電車がホームへと滑り込んできた。ドアが開くとともに俺はその電車に乗り込む。まだ朝早いせいか出勤ラッシュとはかち合わず、あまり混んでいないのが幸いだった。とはいえ汗だくの状態で座席に座る気にはなれなかったから、ドア付近の適当な場所に立って手すりを掴む。ほどなくドアは閉じ、電車は次の駅へと走り出した。

 この電車に三十分も乗れば、死神からも警察からもたっぷりと距離が取れるだろう。適当な駅に着いたらネカフェにでも潜伏しようかと思ったが、すぐに思い直した。今の俺は警官から逃げた身だ。身分証と紐づけられた会員証を使うのは危険かもしれない。

 車内の案内表示器を見上げる。ここから何駅も離れた先に、穴場の銭湯がある駅の名前が記されていた。そこで降りて体を休めようと決める。むろん死神に追いつかれないよう長居はしていられないが、流石に休息を取らないと体がもたない。今にも倒れそうな体調なのだ。期限の一週間まではあと少しなのに、突然倒れて死んでしまっては笑い話にもならない。


「あと少し……そうだ、あと少しなんだ」


 自分に言い聞かせるようにそう呟く。あと少しの辛抱で、この生活から解放されて大金を手にできるのだ。ここが踏ん張りどころだ。

 両の手で頬を張る。そうして気合いを入れ直した時だった。


『急停車します。ご注意ください。Attention please.The emergency brake has been applied. 』


 冷然とした車内アナウンスが響いたかと思うと、電車が突如として減速した。急ブレーキをかけられたことで、停止とともに慣性の法則によって車内の乗客の体が進行方向へと傾く。俺もたたらを踏んだ。


『お客様にお知らせいたします。ただいま緊急停止を知らせる無線を受信したため、停車をいたしました。ただいま原因並びに安全の確認を行っております。この列車は、この場にてしばらく停車いたします。お急ぎのところ列車が遅れまして大変申し訳ございません。なお危険ですので列車の外には絶対に降りないようお願いいたします』

「はあ!?」


 思わず叫んでしまった。

 日常的に電車に乗っていれば急停車の機会に直面することは稀にある。だがよりによって今来ることはないだろうと俺はかんを立てた。

 急停車の腹立たしい点は、いつ動き出すかわからないことだ。車内に閉じ込められたまま、じっと待つほかに為すすべは無い。

 このまま同じ場所に留まっていたら、死神に追いつかれてしまうかもしれない。早く、早く動き出せと俺は祈るような気持ちで念じ続けた。しかしいつまで経っても、電車が動き出す気配は一向に無い。追加の情報を知らせるアナウンスもまだ流れない。

 額から冷や汗が滴り落ちる。最悪の想像が脳裏をよぎる。死神によって命を奪われ、車内の床に倒れ伏して屍を晒している俺の姿だ。

 慌てて目を閉じてかぶりを振る。頭から悪いイメージを追い出すように、何か別のことを考えようとする。けれども焦燥に焼かれた脳は不安にしか意識を向けてくれない。使い物にならない脳に見切りをつけ、俺は苛立ちながら瞼を開けた。その時だった。


「あ……来た……」


 車両の後部。ここと後ろの車両を繋ぐ貫通扉を開けることもなくすり抜けてきた黒い影を、俺は呆然と見つめた。

 死神だ。追いつかれたのだ。

 この車両の前方に立つ俺に向かって、死神は一直線に歩いてくる。誰か助けてくれと叫びそうになったが、目の前を黒衣の化け物が歩いていてもシートに座る乗客は誰一人反応を示すことがない。死神の姿は俺にしか見えていないのだ。

 白い仮面にある二つの空洞から覗く闇が、ぎらりと光ったように見えた。実際には死神の様子に変化は無い。だが俺にはわかった。

 笑っている。あれは笑っている。目を炯々と光らせて、唇を獰猛どうもうに吊り上げて、獲物を狩る捕食者のような笑みを浮かべている。


「あっ……うあ……あああああ!」


 気が触れたかのような叫び声を上げ、俺は扉を開けて前方の車両へと逃げ込んだ。腰が抜けてまともに走れもしない。他の乗客たちの、異常者を見るような目が俺を刺す。

 それでも止まるわけにはいかない。這うように進みながら、前の車両へと、前の車両へと逃げていく。だが電車の連結には限りがある。やがて一号車に辿り着くと、俺の目の前には運転席の窓が広がった。


「おい!開けろ!横のドアだ!開けろ!ここから出せ!」


 両の拳で窓を叩きながら必死に訴えかける。しかし運転士はこちらを振り返りながら怯えた目つきを浮かべるだけで、まともに取り合おうとしてくれない。怒鳴りながら窓を叩く男がそんなに恐ろしいか。ふざけるな俺はもっと恐ろしいものに追われているんだぞ。

 窓を叩く手を止めないまま、首を回して後ろを振り向く。早くしないとあの死神が……。


「ひっ……!」


 いつの間にか、死神が一号車に来ていた。俺を避けるように車両の後部へ移っていた乗客たちの中に、ひときわ大きい影がある。

 死神は乗客たちの肉体を素通りし、俺の元へと向かってきた。


「おい……来るな……来るな!ちくしょう開けろ!開けろって言ってんだろおい!開けろ!」


 死神の姿を直視することも恐ろしくなり、電車の側面のドアを一心不乱に叩き続ける。銀色のドアには、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった俺の顔面が鈍く反射している。

 いくら叩いてもドアが開く様子は無かった。やがて恐怖が限界に達したのか、俺の全身から力が抜ける。怯えのあまり痙攣けいれんしたまま、俺は床に倒れ込んだ。

 芋虫のように丸まった体勢で、必死に視線を上に向ける。がたがたと鳴る歯が舌をえぐり、ほとばしった血の味が喉の奥へと落ちて行った。命乞いの声を出そうにも喉が血で蓋をされたかのように声が出ない。身悶みもだえで逃げようにも、体が言うことを聞かなかった。


「やあ、また会えたねえ」


 死神が、俺の眼前に迫る。ローブの中の闇が車内の景色をどんどん吞み込んでいく。

 死神は目の前で立ち止まると、俺に覆い被さるように腰を曲げた。頭上から暗黒が迫り来る。白い仮面の中から、身の毛のよだつような声が降ってくる。


「君が言ったより、ずっと早く」

 

 視界が漆黒に染まった時、俺の意識も闇へと沈んでいった。

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